異世界ファンタジー小説「アームドール」

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「姫が脱走した。繰り返す。姫が脱走した。――ああっ、これで何回目だ? あのくそ忌々しいじゃじゃ馬娘め!」
無線機のノイズの中へと、白髪の老人が不機嫌そうに眉をしかめて怒鳴る。
背後にいた掃除係が怯えるのを見てコホンと咳をすると、老人――オディロンは気を取り直して続けた。
髭とシワに縁取られた口が、恐ろしいほどの威厳に満ちた言葉を紡ぎ出す。
「聞こえているか、コレット・ミシュレ。ワシの命令には一億分の一秒以内に応答しろ」
「聞こえていますがそんなに素早く返事はできません、所長」
壁に掛けられた無線機を通して返ってきたのは、少女の高い声だった。
「姫」の世話係をしている平民の少女――コレットは確かまだ十五歳かそこらだ。
わがまま姫に付き合わされる苦労を思えば、平民に対してだというのに同情心を抱きそうにすらなる。
しかし命令に対して無理だとはっきり答えられたことがオディロンを不機嫌にさせた。年老いてからは、使用人イジメを暇つぶしにしているのだ。
「なぜだ? わしの命令に背く気か? 特権階級への不敬罪は即座に極刑だと、忘れたわけではあるまいな?」
「え? す、すみません。忘れてないですけど私は人間です。できることとできないことがあります」
「確かお前は健康で、どの臓器もまだ欠けてはおらなんだな。ちょうどいい、若い献体がなくて困ってたんだ」
「しょ、所長!」
少しからかってみれば、少女の恐怖に怯えた声が返ってくる。
オディロンは満足げにふんと鼻をならしながらも話を本題に戻した。
「冗談だ。姫は数時間前に寝室を抜け出して窓から森へ逃げたらしい。研究室にいる者以外は大至急、身柄の確保に向かえ。何かがあってからでは遅い。王国の至宝を……姫を守りきれ」
万が一のことがあればどうなるかわかっているのだろうな、という脅しを言外ににじませる。
「了解です、所長。――お嬢様が脱走、至急身柄の確保」
「急げよ、今日は来客がある。……そうだな。整備は終わった頃合いだ。『アームドール』を遣いに出せばいいだろう」
オディロンは髭をいじりながら一方的に命令すると、返事も待たずに無線機を切った。
深いため息をはいて、テーブルに載ったティーカップに手を伸ばす。
「……たく。てこずらせおって」
オディロンはコーヒーを軽く口に含むと、暗く澱んだ部屋の中につぶやきを漂わせる。
牢獄のような鉄格子がはめられた窓は小さく、差し込んでくる朝日の上には舞い散る埃がくっきりと見えた。
「どう足掻いても道具は道具だというのに」
部屋の暗がりに目をやれば、壁一面を金属製の据え付け棚が占拠している。
棚のガラス戸の向こう側には、いくつもの瓶が無秩序に並べられていた。
その内の一つには水銀のような溶液が満たされ、昨日入れたばかりの新鮮な球体が浮かんでいるのだった。
――灰色に濁った眼球が、液体に満たされた瓶の中から、オディロンの部屋を無感情に見つめていた。

小国の朝は、今日も澄んだ光に包まれている。朝露が滴る森を、一人の少女が走っていた。高級なブーツがリズムよく地面を蹴る。一歩ごとにフリルのついたロングスカートがはためいた。
「……っはあ」
少女は息を切らせて立ち止まると、スカートを翻して振り返った。背後の森は静かにたたずんでいる。少女は安堵するかのように大きく息をはいた。
「追っ手なし! 上出来ね」
頭にかぶっていたフードを、ばさりと脱ぐ。下からあらわれた顔は、満面の笑みに彩られていた。腰まである長いウェーブの髪が爽やかな風に踊る。今の澄み渡った空と同じ色をした瞳に、太陽の光を受けて輝く蜂蜜色の髪。少女はまるで野を舞う蝶のように可憐だった。
「さてさて、見つかる前に済ませなくちゃね」
一人ごとをこぼして、少女は森に背を向ける。野を行く足取りは躍るように軽やかだ。すぐ先にはレンガづくりの建物が密集している場所が見えた。少女が目指す辺境の街だった。
少女の名はレティシア・ローレル。研究所長であるオディロンの孫娘だ。そして弱冠十二歳にして、ここ、央の小国を代表する研究者でもある。専門は『生命創学』なのだが、生命を創るという名目に反して、レティの研究は幾多の命を奪ってきた。
「嘘だろう?」
それは単なる噂にすぎない。誰もがそう思っていた……はずだった。
「本当さ。あの森の奥の研究所。あそこでは人体実験が行われているんだぜ」
「まさか……」
街に入ったレティは、道端で行われる会話に聞き耳をたてる。研究所に身を置く身としては、聞き逃しがたい話題だったのだ。
「聞いたことないかい? 高給だからって喜んで働きに行った女が、ほら、川沿いの家の金髪碧眼の。そう、その女性が森に入ったきり行方不明になったって話……」
レティは眉をひそめると、記憶の糸を手繰り寄せた。所長室の棚に追加されたオブジェクトを、昨日の夕方に見たばかりだ。あれは果たして何色の瞳だったのだろう。考えかけてやめた。考えても無駄だからだ。
「まあ、どうせわしらには関係のない話だが。あんな森に近づこうとする人間など、誰もおらんさ」
「しかしなあ。こんな国境近くの森の中に研究所だなんて、何を考えているのだろうな、学者サマは……」
そして案の定、噂話はすぐに研究所の悪口へと移行した。
税金泥棒。気味が悪い。実験の為なら何でもする。人を人とも思わない。
国の命令で人殺しの技術を研究している場所が近くにあることを、この街の住民はよく思っていないのだった。
レティは即座にその場を離れた。聞いていて気分のいい話ではなく、むしろ不愉快だった。自分に対する悪口だからではない。当たっていたからだ。
――アンナ・ルーセル。
金髪碧眼が美しかった彼女は、昨日まで研究所で働いていたはずだ。
レティとはあまり面識がなかったのだが、レティのお世話係であるコレットは彼女を姉のように慕っていた。
「それにしても、誰がこの国を守っていると思っているのかしら。まったく、これだから愚民は」
レティは一人で歩きながら、道行く人に聞こえないように悪態をつく。
この国を守るのはレティたち学者だ。研究により培われた文明のおかげで街は――この国は今日も平和なのだ。それを忘れてもらっては困る。
レンガづくりの道が、暖かい光の中に伸びている。
ざわめく人の群れによって、市場は活気に満ちていた。平和どころか、戦場のような騒々しさだ。いつもよりも多い人混みにもまれながらレティは歩を進めた。
寝室のベッドは、クッションでカモフラージュしてきた。研究所員がレティの不在に気づくまでには、かなりの時間がかかるだろう。
「おじさん、りんご一個」
りんごでもかじりながら用を済ますことに決めると、近くにあった露天に近づく。
レティの凛とした声でりんご売りが顔をあげる。
一瞬だけ視線が交錯した。薄汚れたりんご売りは、憂鬱そうに口を開く。
「金は持っているんだろうな、嬢ちゃん」
疑わしそうな視線だった。貧困層が集まるこの街の市場にまともな家の子が一人で来ることはあまりないだろうから、よからぬことを企んでいると邪推されても無理はなかった。
しかし、心外だ。レティはりんご売りを少しだけからかってみようと決めた。ポケットから金貨を一枚つまみだせば、りんご売りの男は目を皿よりも丸くした。レティへと驚きのこもった視線が向けられる。
「じょ、嬢ちゃん、あんた一体どこのお嬢様だい?」
りんご売りは、信じられないといった表情を浮かべた。金貨一枚あれば、りんご売りの持っているりんごが全部買える。いや、それでもまだお釣りがくるだろう。
「身分を明かしちゃいけないっておじいさまに言われているのよ。だから言えないわ。りんご一個、お願いね」
レティはニコリと上品に微笑んでみせた。
「あ、ああ。一個でかまわないか?」
粗野な言葉づかいは変わらない。しかし、先ほどまでとは態度が全く違う。りんご売りは、レティを貴族の娘だといとも簡単に勘違いしてくれた。実際、この国に生活を保証された特権階級の人間であるという点で、レティは貴族と変わりないのだった。
しかし貴族の娘はただ豪華な服を着て座っているだけだが、学者であるレティは日々難解な研究に心血を注いでいる。
軍直属の研究所に生まれ育ったレティは、弱冠十二歳にして「天才生命創学者」と名高いのだった。
これまでに開発した幾多の武器は、国境付近で頻発する他国との小競り合いに大きく貢献している。
レティたち学者の汗と涙を抜きにして、この国の「今」を語ることはできないのだ。それが、ここ央の国が『科学の国』と呼ばれる由縁である。
「二個いただくわ」
高価な服に身を包み、そう言って微笑むレティは、どこかの王女だと言っても無理がないくらいの気品と自信に満ちていた。
「どれがいいかしら」
レティは道に置かれた木箱に目をやった。小さく可愛らしいりんごが所狭しと詰められている。
スカートの裾が地面につかないように最細の注意を払いながらしゃがみこんだ。動作のたびに腰まであるウェーブの髪が緩く波打つ。
「赤いのがいいわよね、やっぱり」
これぞ、と思ったりんごを二つ箱から取り出した。見れば、りんご売りはまだ金貨を凝視している。
「……そんなに金貨が珍しいの?」
「あ、いや」
レティの言葉でようやく男は我に返ったようだった。無理もないなと思う。たいていの露天商は、金貨を一度も見ずに一生を終えるのだろうから。
「嬢ちゃん、あんた、護衛はどうしたんだい?」
りんご売りの視線にレティは一抹の不安を覚えた。誘拐という単語が頭をよぎる。
「えっと……」
りんごの支払いごときに金貨を出したのは、失敗だったかもしれない。レティはそう思いながらも平静を保った。
「まいてきちゃった。護衛なんて、うっとうしいのだもの」
いたずらっ子の微笑みを浮かべる。それは年相応にあどけないものだった。
「きっと私のことを必死で探しているわ。この市場にいるかもしれない。きっとすぐに見つけだされちゃうわ」
釘を刺すことも忘れない。あながち嘘でもなかった。今この瞬間も、所長のオディロン――レティの祖父に命令された研究所員たちが血なまこになってレティを探しているに違いないのだ。
「嬢ちゃん、あんたがどこの貴族の娘かは知らんが……」
りんご売りは呆れたように頭をかくと続けた。
「もっと身の振り方には気をつけないと。こんな場所で自分の身分を明かすこたぁねえ。何かがあってからでは遅い。最近はただでさえ治安が悪いんだからな。俺だっていくつガキにりんごをくすねられたことか」
りんご売りがレティを優しく諭す。誘拐という大それたことを考えるほど、大器ではないのかもしれない。りんご売りは所詮りんご売りだということだ。
「ご心配ありがとう。ねえ、治安が悪いってどうしてなの?」
レティはりんご売りへと問いかけた。今度はいつ研究所から出られるのかわからない。ここで情報収集しておくのも悪くないだろう。レティは自分が世間知らずだということに気づけないほど馬鹿ではなかった。
「……嬢ちゃん、あんたどれだけ箱入り娘なんだい?」
りんご売りは困惑している。レティはずっと研究所で育った。だから外の世界なんて大して知らない。しかし無知だと思われるのだけは嫌だった。
国中の優秀な人材が集まる研究所で、なお天才と呼ばれていたのだ。レティのプライドは天よりも高い。
「悪いかしら」
口をとがらせてみせれば、りんご売りは急に慌てだす。
「いや、その。不快に思ったならすまねえ」
「謝らなくていいわよ。別にあなたのことをお父様に告げ口したりしないわ。あなたはただ質問に答えればいいの」
この言い方なら、りんご売りは確実に「お父様」を貴族だと思っただろう。平民が貴族に面をあげて話しかけることなど許されてはいない。平民が特権階級への不敬は、即座に死罪だ。りんご売りは恐縮して話しだした。
「あ、ああ。戦争が近いうちに始まるって話なんだ」
「戦争?」
レティは眉をしかめた。なるほど、それなら治安が悪いのにも納得がいく。
「聞いてないわ、何よそれ」
研究所はこの国の軍の元に動いている。重大な情報を軍が研究所に流さないなんてまずありえないのだ。つまり研究所の人々が意図してレティに隠していたということになる。子ども扱いされたということかと思い、レティは苛立った。
「俺だって詳しくは知らないさ。西の国境から大国の軍が迫っているらしいってことくらいしか」
レティは我が耳を疑いながらも後ろを振り返る。そこには、街に迫らんばかりの森が広がっていた。
「じゃあこの街、危ないんじゃないの?」
この街は国の最西端に位置している。西の大国の軍が森を抜けて侵攻してきたら、この街が一番に制圧されることは火を見るより明らかだ。
「だからみんな、ああして物資を揃えているんだろうが」
「え?」
思いがけない言葉に、レティは動揺を隠せなかった。
「嬢ちゃん、この市場の喧騒をなんだと思ってる」
そう言われれば、そうだ。街全体が蜂の巣をつついたように騒がしい。
「じゃあ、この人混みは……」
レティが言い澱めば、りんご売りはため息と共に言葉を次ぐ。
「旅立つ前の買い物さ。この街は逃亡の準備で忙しいんだよ」
大国軍がいつ来るかはわからない。しかし襲撃されればすべてが終わるのだ。国の西部に住む人間は、故郷を捨てて国の中心部に向かっているらしい。
「じゃあ、おじさんはどうするの?」
レティが何気なく質問すれば、りんご売りは顔を曇らせた。慌てて口をおさえるが、一度口にしたことは取り消せないのだった。
私の馬鹿、とレティは頭の中に罵倒の言葉を渦巻かせる。
「逃げる金なんてないさ。今日一日を食いつなげるかどうかすら、わからないんだ」
りんご売りが、こけた頬にしわを刻んで自嘲するような笑みをこぼした。
「明日か、それとも一期後かはわからない。攻めてなんてこないかもしれないし、ひょっとしたら今日、この街の歴史は終わるかもしれない。でもな、そんなことは関係ない。俺は逃げられないんだ。どうしようもないことなんだよ」
レティは胸に熱いものがこみあげてくるのを感じた。
少しだけ寂しそうに諦めたような表情を浮かべて、りんご売りは薄く笑う。
「俺は、りんごを売り続けるしかないんだよ……。軍がこの街を占拠する、その日もな」
視界がじわりとにじんで、レティは慌てて腕を両目に当てる。こぼれ落ちる涙の存在を悟られないようにと、腕で目元をごしごしとこすった。
「……ごめんなさい」
自然と謝罪の言葉が口をついてでた。意味を汲んでか汲まずか、りんご売りは驚いていた。高慢だと聞いていた貴族の娘が、まさか自分たち平民に同情の涙をこぼすとは思っていなかったのだろう。
「嬢ちゃんが謝ることはないさ」
「でも、ごめんなさい」
レティは学者の娘として生まれた。国を守るための研究に一生を捧げる。その代わりに何不自由ない生活を手に入れた。金は望まなくても手に入る。命は国が優先的に保護してくれる。学者の命は、平民よりも価値があるのだ。それが当然のことだと思っていた。
「民の不安も知らなくて。私は、学者失格ね……」
「ん? 何だって?」
「いいえ、何でもないわ」
レティは口元をきゅっと結ぶと、顔をあげた。泣いている場合ではないのだ。
「止めさせないと」
「はあ?」
りんご売りが呆れたように聞き返してきた。
「止めさせる?」
「そう。帝国軍の襲撃を止めさせるの」
レティの言葉にりんご売りは一瞬だけ驚いたものの、何を言うのかとすぐに吹き出した。
「はっはっは。嬢ちゃんがどの家柄かは知らんがな、それは王家でも無理なこって。第一、この小国に無敵の騎士団と呼ばれる帝国軍の進撃を止めさせるような力があると思うかい?」
無知な貴族がと言外で嘲るりんご売りを見て、レティは自信満々に答える。
「あるわ。『アームドール』よ」
森に囲まれたこの小さな王国に、工業は発展していない。国を守るために若い男をかき集めた軍隊とて、その実力はタカが知れている。王族のボディーガードとしてならまだしも、国を守る軍としてはお飾り程度だった。魔法文明がないわけではないが、才があるのは王族の血筋を引く者だけだ。これまで他国に制圧されることがなかったのは森に囲まれているからか、魅力的な資源がないからか。しかしそんなこの国にも、他より優れたところはあった。
「アームドール? それってあの研究所が開発してるっていう」
「ええそうよ。この国の機械文明の結晶。研究所の総力がつぎ込まれた、帝国軍も余裕で倒せる最強の武器よ」
怪訝そうな表情を浮かべたりんご売りへと、レティは親切に説明してあげた。
「嫌に詳しいな。嬢ちゃん何者だい?」
「え? えへへ……。お父様は軍の上層部にコネクションがあるのよ」
不審そうにりんご売りから問われ、レティは曖昧に笑ってごまかす。
「しかしなあ……。ただの噂だろう? 大体な、そのアームドールとやらの創作者は研究所に住む――何て名前だったかな、嬢ちゃんと同い年くらいの少女だというじゃないか。そんな女の子が帝国軍も倒せるような武器を創作したって? 信じられない」
「……信じようが信じられまいが、事実だけが真実よ」
「アームドール」の存在を噂だと一蹴するりんご売りを、レティはじとりと睨みつけた。しかし証拠がなければりんご売りは信じてはくれないだろう。そして証拠を示すために身分をあかせば、待っているのは所長のお叱りだ。
レティは所長の怒声が大嫌いだった。街に出ることがためらわれる理由がそれだ。
もちろん、レティだからこそ研究所を脱出しても叱られるくらいで済むのだ。他の研究員や雑用ならば臓器だけでなく命さえも危ないだろう。それくらい研究所は、所長は厳しいのだった。
少々規律に逆らってもレティが五体満足のままでいられるのは、所長の孫だからとか子どもだからという理由だけによるものではなかった。
必要なのだ。この国には、レティが。
そう――レティの正式な名前は、レティシア・ローラン。通称、天才学者少女。この国の機械工学の第一人者にして、『アームドール』の創作者だ。
何をバカな、と苦笑するりんご売りの姿を見て、レティは不機嫌そうにきびすをかえした。定価よりもかなり高くついたりんごをかじりながら、市場に並ぶ露天を見て歩く。今日、処罰覚悟で研究所を抜け出してまでここに来たのには理由があった。
レティは一人の少年の優しく柔らかい笑顔を頭に浮かべて、頬を紅潮させる。
――大事な人に出会えた記念日。四年前の今日、レティは一人ではなくなった。
何が一番喜んでもらえるのだろう、と考えながら露天に売り出された品物を覗き込んでいると、不意に肩をつかまれた。ゴツゴツとした男の手には、強い力がこもっている。
――しまった。
困惑しながら振り返れば、やはりそこには若い男が数人立ってレティを囲んでいた。皆が一様にボロの服を身にまとい、顔や手足は土臭く汚れている。貧しさにくすんだ瞳に嫌悪感を覚えて、レティは肩におかれた手を振り払った。
「嬢ちゃん、ちょっとそこまで来てくれるかい?」
そう言ってまた手を伸ばしてくる男を、レティはぐっと睨みつけた。
「嫌よ。平民風情が汚い手で触らないでくれる? 服が汚れるわ」
背筋を伸ばし顎を引いて気高く言うが、男たちはじりじりと歩みよってくる。不味いことに四方を囲まれてしまっていた。手際のよさから判断して、これが初めてではないらしい。すきが見つからなかった。逃げる場所はない。品物に目をとられて周囲に気を配るのを忘れたのが命取りだった。
「強がりもほどほどにな? あんたはここにいる全員の逃亡資金になるんだ。生意気な嬢ちゃん、うらむのなら好奇心でこんな場所に来た自分を恨むんだな」
十二歳の少女が、大人の男、それも大勢と戦って勝てるはずもなかった。レティは困惑を必死でおし隠すと、精一杯の虚勢をはってみせた。
「ざ、残念ね。私の一族では、帝国育ちの魔法使いを雇っているのよ。交渉は通用しないわ。ぶちのめされる前に去った方が賢いわよ?」
不安を悟られたら終わりだ。レティはあくまで高慢に、貴族の娘を演じる。しかし、その努力は一瞬にして叩きのめされた。
「ははははは。売れる場所は、嬢ちゃんのお家以外にもたくさんあるんだぜ?」
体全体が心臓になった。自分自身の脈動が、耳のすぐそばで聞こえる。
市場を行き交う人は、この光景を遠巻きに見ているだけだ。助けなど期待できそうにない。
レティは、スカートのポケットに手を入れた。冷たいものが指に触れる。先の尖ったドライバーだ。研究室を出たときに入れっぱなしにしていたものだ。
鋭く息を吐くと、レティは覚悟と共に地面を蹴った。男たちが困惑をあらわにする。レティは駆け出した。一人の男に肩から体当たりする。
予想だにしない突撃に男がひるんだ。レティは歯を食いしばって衝撃に耐える。素早く体勢を立て直した。一瞬の隙に、脇をすり抜けようとする。スカートの裾が足にまとわりついた。目の前の男が手を伸ばしてくる。
「逃がすか!」
「……っ」
レティはその手を反射的に振り払った。視界に、赤が散る。ドライバーの先に確かな手応えがあった。それは単なる引っかき傷にすぎない。それでもレティを困惑させるには充分だった。
思わず一歩後ずさる。レティは血が苦手だった。眼球は所長の趣味のおかげでもう見慣れた。他のパーツも割と大丈夫だ。しかし血液だけは駄目だった。遠い昔のことを思い出すからだ。レティは言葉を失う。男の手ににじむ血の赤が瞳に焼きついた。
「いや……」
うわごとのようにつぶやく。レティが所長の跡を継がなかったのは、このためだ。血を見ると頭の中が真っ白になる。だから生物や人体ではなく、機械を主に扱う学者になったのだ。
「や……嫌あ!」
レティは叫ぶ。視界には、赤しか入らなかった。拒絶するかのように後ずさる。その混乱が命取りだった。
「このガキっ!」
逆上した男がレティの細い手首をつかんだ。
「痛っ」
ドライバーが、レティの手から滑り落ちる。精巧な金属部がレンガの道に当たって、乾いた音を立てた。
「はやくしろ、はやく人目のない場所に!」
「あ、ああ! わかっている」
男たちは焦っている。護衛が来れば終わりなのだ。平民は金持ちの護衛にはかなわない。武器が違うからだ。
「痛いわね。身の程をわきまえない貧民はだから嫌いなのよばか!」
レティはお嬢様らしからぬ悪たいをつく。ずるずると引っ張られた。必死で抵抗する。しかし、力でかなうはずはなかった。向かう先は薄暗い路地裏だ。レティの背筋を、電流のような危機感が駆け抜ける。路地裏に連れ込まれたら最悪だ。いくら優秀な研究所員とはいえ、レティを探し出すことはもう永遠にできなくなるだろう。
ついさっきまで追っ手をおそれていたのが、嘘のようだ。レティは生まれて初めて、研究所の人間に見つかることを願った。
「止めなさい。私を誰だと思っているのよ、あんたたち!」
「あんた、一体誰なんだ?」
「天才生命創学者、レティ様よ!」
つい言ってはならないことを言ってしまった。しかし、さいわいなことに男たちが信じた様子はない。
「黙ってろ」
聞く耳もなかった。牽制など通用するわけがないのだ。男たちは、失敗したときのことなど考えていない。死ぬ気で行動しているのだ。レティの言葉など、通じるはずがなかった。
それを理解した瞬間、レティの心に初めて不安が芽生えた。降って沸いた恐怖に、十二歳の幼い神経はぶち切れる。レティは混乱の濁流に突き落とされた。
「い、いや! 離せーっ! 私の命なら国が高く買うから! だから!」
全身全霊の力で暴れる。つかまれた手首が、ひねりあげられた。手が折れてしまいそうなほどの激痛に、レティは顔を歪める。
「このガキ、少しは大人しく」
男の口から出た言葉は、途中で遮られた。レティをつかまえていた手から、力が抜ける。レティは恐る恐る顔をあげた。隣に立っていた男と視線が交錯する。その瞳は、驚愕に見開かれていた。目が合ったのは、たった一瞬だ。男の顔は、すぐにレティの視界から消える。重たいものが落ちる、鈍い音がした。レティは視線を下に向ける。
「きゃ……!」
男は、レンガの上に崩れ落ちていた。何が起こったのかわからない。周囲の男たちも、一様に目を見開いていた。レティは必死で混乱をおさえる。周囲をすばやく見渡した。
追っ手が来た。それが一番ありうる。だとしたら一秒を争う事態だ。売り飛ばされるのは怖いが、用も済まぬうちに研究所に連れ戻されることは避けたかった。覚悟していたはずだが、やはり所長の懲罰は怖い。
レティは感覚を研ぎ澄ませる。乾いた足音がした。そちらへ振り返る。蜂蜜色の髪が風に巻き上げられた。
場違いに穏やかな声が、風にのってその場に響く。
「探しましたよ。……お嬢様」
そこにいたのは、一人の少年だった。外見年齢は十五、六だ。彫刻を思わせるほど芸術的なまでに整った顔立ち。深海色の瞳は穏やかな光をたたえている。所長が欲しがるであろう澄んだ瞳だ。
「アール? どうしてここに? 今日は整備の日でしょう? まさか脱走を企てたなんて言わないわよね」
顔見知り――しかも味方が助けにきてくれたことに安堵しながらも、レティは少年……アールへと問いかける。
「言いませんよ。 どこかのお嬢さまじゃないのですから。今日は研究所に来客があるから、整備がなくなったんです」
そう言ってアール・カロンはレティに穏やかな笑みを向けてくる。湖のように澄んだ瞳には一滴の曇りもない。
微笑み返そうとしたレティは、あることに気づいて眉を寄せる。アールの身を包むのは濃い紺の服だ。それはまぎれもなく、この国の軍の制服だった。
「……どうしたのよその服」
「ああ、来客があるからですよ。お嬢様も早く帰って正装に着替えてくださいね」
研究所の来客とはどうやら軍の上層部らしい。レティは、聞いてないわ、と益々不機嫌になる。
アールの胸元に輝く階級章は白銀の光を放っていた。この国の軍には存在しないはずの色だった。
「な、なんだよお前」
理解不能な状況に思考を停止させていた男たちが、ようやく行動を再開する。レティは、やれやれとため息をはいた。アールの一撃を視認できた人間は、おそらくゼロだろう。そんな状況で勝てるはずがないのだ。
「お嬢さま。 制裁は、この輩だけでかまいませんか?」
少年は天使のように優しくほほえんだ。そして、悪魔のような一言を放つ。
「それとも今日ここでこの街の歴史を終わらせてしまいましょうか」

レティは足元でのびている男を見下ろした。しばし思考を巡らせる。そして結論を口にした。
「……無しでいいわ、制裁なんて」
アールが意外そうな顔をする。その片手には大砲のような拳銃が握られていた。細身の体に不釣り合いな大きさだ。一般の人間なら持てないほどの重さがあるはずだが、アールはそんな素振りも見せない。
「本当にいいのですか? 普段のお嬢様でしたら街ごと潰せとかおっしゃるでしょうに」
「私も成長したのよ。天才生命創学者レティ様にも情けはあるわ」
レティはきっぱりと言い切った。
その名を聞いた男たちの間に動揺の波紋が広がりはじめる。
「まさか……嘘だろ? レティって森の奥の研究所の」
「本当に本物なのか?」
「なら一緒にいるあのガキは――」
故意か偶然か、アールが手に持った銃器がガシャンと小さな音を立てた。
それがきっかけで男たちの恐怖は決壊する。
「うわあああ!」
一人が叫べば、皆が一斉に背中を見せて逃げ出し始めた。
「最終確認です。撃たなくていいですね、レティさま」
「だから天才学者レティ様に二言はないってば。――なんかアール、怒ってる?」
レティが顔を覗きこむと、アールは表情を変えずに応えた。
「怒るに決まってます。研究所から出てはいけないと再三言われているのに無視ですか?」
「それはいつものことじゃない。今さら何よ」
アールは細く長いため息をつく。レティの頭をそっとなでて言葉を継いだ。
「いつもは一緒なのに。わざわざ俺が修理の日に決行しないでください」
「アール……?」
「俺はレティ様を守るためにいるのですから、大人しく守らせてくださいよ」
レティは明るい笑顔を咲かせてうなずいた。
「うん……でもね、今日は特別だったの」
「はい?」
「覚えてないのね」
レティは、ムッと頬を膨らませる。
「――私と貴方が初めて会った日。アールの誕生日よ」
「ああ……」
アールもそれで納得してくれたらしい。
そう、レティがわざわざ街に来たのは誕生日プレゼントを買うためだった。
「プレゼントなんていりません。レティ様が研究所で大人しくしていて、仕事を増やさないでいてくれることが俺にとって何よりのシアワセです」
もう少しおてんばを治してくれればさらにいいのに、とアールは付け加える。
「そんなこと言われちゃ大人しく帰るしかないじゃない……」
「それは幸いです。今日は来客がありますからね」
アールはレティの手を握ると、森への道を引き返し始めた。
固い手のひら。手袋の下にあるのは、冷たい金属の感触だ。
アームドール二号。
どこまでもシンプルなそれが、アールの本名だった。
見た目からはわからないが、彼は人間ではない。アームドール――レティを、そしてこの国を守るために創られた機械の人形だ。
「ちょっと待ちたまえ、君たち」
背後からかけられた声に、レティは立ち止まる。
無視して帰りたいのはやまやまだが、そうもいかなかった。
余裕しゃくしゃくの態度で歩み寄ってくる声の主は、この国の重要人物なのだ。
「これはこれは。生命創学者、レティ様に……アール君ではないですか」
「また来やがったのね、国税ドロボー」
「この小国の国王親衛隊に属するリオネル・クストー、地位は大佐。いい加減覚えてほしいものだがね」
「生憎ね。私は嫌いな奴の名前なんて覚えない主義なの」
広い肩をすくめて、リオネルは苦笑した。
その背後には総勢八名の軍人がひかえている。
アールの着ているものと同じデザインの軍服だが、腕の腕章の色だけが違う。
くすんだ色から、彼らが軍人として過ごした長い年月の重みが感じられた。
物々しい集団に、市場を行く人々の好奇心に満ちた視線が集まる。
「しかしだね。レティちゃんはともかく、アール君はしばらく前から我々の存在に気づいていただろう? 最先端のレーダーを搭載してるんだから」
「研究所の応接室以外のところでお二人が出会われると、お互いの従者の心臓に悪いですので」
「はっはっは、何を言う。この国にとって大切なレティ様に剣を向けたりなどしないよ」
リオネルは声を上げて大袈裟に笑った。細い瞳の奥に、鷹のように鋭い眼光が見え隠れする。
平民出身でありながら弱冠二十七歳で今の地位に上り詰めた彼は、親衛隊を構成する貴族育ちのお坊っちゃまたちと一線を画していた。
「そんなことしたらあなたの命がないものね」
「ですね。ですからレティ様、アール君に一言お願いできますか? 今にも銃を抜きそうで怖いですよ。警戒心が強いなあ、まったく」
「一言? ……そうね。アール、撃ち殺すのはそこにいる鬱陶しい大佐だけにしておいてね」
物騒な言葉を聞き、リオネルの後ろに控えた部下たちは銃を構える。
冗談の通じない奴らだ。これだから軍人は嫌だと、レティは心の中でつぶやく。
「やれやれ、相変わらず毒舌だね、レティちゃん。何か嫌われるようなことをしましたっけな」
リオネルは肩をすくめると、険しい表情を浮かべる部下たちを片手で制した。
「飄々としてて一挙一動がいちいち気に食わない。大嫌いなのよ、軍人なんて、みんな。人の命を数で考えているもの」
「ほう。その軍に武器や技術を提供しているのが貴方なのに?」
痛いところをつかれて、レティは表情に不快感を滲ませる。
「うるさいわね。とっとと用件を言ったらどうなの」
いくら不真面目だとはいえ、リオネルはこの国の軍の要人だ。
こんな辺境の町にわざわざ部下を引き連れて来たのだから、目的は一つしかない。
「よくわかりましたね、私たちが研究所を尋ねてきたのだと。さすがはレティ様、頭の回転が速い」
「バカにしてる? あなたがここを尋ねる理由なんて、他に考えられないもの」
「いやあ、そりゃそうですね。軍も今、暇じゃないですから」
「でしょうね。戦が迫っているこんな時期なのに部下を大勢連れ出して……大佐って偉いのね」
リオネルの部下たちは、いかにも不満そうな顔をしている。
彼らの娘くらいの年齢に過ぎないレティが、自分の上司に向かって不遜な口の利き方をしているのだ。不愉快に思わないわけがない。
けれども当の上司は、小娘に毒を吐かれてもなお愉快そうに笑うのだ。
「はっはっはっ。これは重要任務なのだよ。この国の未来を決める、とてもとても重大な、ね」
「……?」
リオネルの不敵な視線がアールに向けられた。
レティは不思議に思ってアールを見上げる。
深い深い青の瞳は、わずかな迷いに揺れていた。
「どういう話なの?」
「さあて、どういう話でしょうか」
レティの問いかけに、リオネルは感情の読み取れない笑みを浮かべる。
「ふざけないでよ」
「私はいつだってふざけてませんよ」
「その言葉自体がふざけているわ」
リオネルの合図で、部下のひとりが前に出た。
「つもる話は研究所の方でしましょうか。長引きそうですから……貴方の様子を見ていると、ね」
部下のひとりは背負っていた杖を下ろし、地面に魔法陣を描き始める。
「王室付きの魔法使いに来てもらったんですよ。彼は北の帝国で生まれ、そこで魔法を学んだそうです」
「ふーん。北の国から友好の証に送られてきた人材ってわけ。つくづく大佐って偉いのね」
本でしか見たことのない魔法陣を前にして、レティは思わず感嘆した。
魔法文明のないこの小国において、魔法の才を持つのは王族だけだ。
他国から亡命してきた魔法使いもいるにはいるが、両手の指で数え切れるほどだろう。
そんな有数の人材を連れてまで来たのだ。かなり重要で、かつ急ぎの任務に違いない。
「できました」
「ご苦労。さて、よければご一緒にいかがかな? レティ様もその服装で歩くのは疲れるでしょう」
胡散臭い笑顔を浮かべてリオネルが二人を誘った。
「いいの? ならご一緒しようかしら。アール、いいわよね」
レティは念のためアールに同意を求める。
「お嬢様がそうおっしゃるのでしたら」
アールはいつものように穏やかに応じた。
光を放ち始める魔法陣に乗ると、レティはアールの手をぎゅっとつかんだ。
「飛びます。目をつむってください」
レティは体の奥で何かがざわめくのを感じた。
まぶたを貫いて溢れ出す光。不意に襲われた浮遊感。
山を下る清流のように、頭の中を幾多の映像が渦巻く。
「――到着です。目をあけてください」
レティはその言葉で我に返ると、長い髪をかきあげた。
魔法での移動は、馬車なんかよりもずっとお手軽だ。
「れ、れ、レティさまあ!」
研究所の玄関から、一人の少女が涙目で駆け寄ってきた。
彼女の名はコレット・ミシュレ。レティのお世話係をしている平民階級出身の少女だ。
小柄で細く痩せた身体に、肩の下で切りそろえられた髪。
柔らかい栗色の瞳は、いつも気弱そうに潤んでいる。
「酷いんです……所長さまが私を献体にしようと……しようと……」
「あー、よしよし。おじいさまにからかわれたわね」
涙ながらに訴えるコレットの頭を、レティは背伸びしながらなでてやる。
三つも年上のくせに無邪気で幼いコレットは、レティの数少ない友達の一人だ。
たった二人しかいない、実に数少ない友達。
「邪魔だ。どきたまえ」
コレットをずいと押しのけて、リオネルが軍靴の足音を響かせる。
「あっ、お客様ですか!」
「様なんてつけなくていいわ。ただの客よ、客」
リオネルとその部下は一直線に研究所の玄関を目指している。
「しかも軍の方ですか? 約束の時間より早いですね」
「ふーん。私たち、時間つぶしに使われたわけね……」
レティは居心地の悪さを感じてため息をはいた。
リオネルが真面目な顔をしていると、周囲の空気がピリピリとして痛い。
「どうしましょう。急いで所長にお知らせしなくては……! それに応接室のお掃除と、お嬢様のお召し替えと」
「雑用も大変ね」
「はい……。アンナお姉様がいなくなってから、雑用の人手不足なのです」
聞きたくなかった名を耳にして、レティは頬をひきつらせた。
「研究所の情報管理が厳しくて手紙を交換できないのが残念ですけど……。故郷で弟が生まれたそうなのですよ」
コレットは心底うらやましそうに、お幸せな笑顔を浮かべる。
「そう。そういうことになっているの……」
「はい?」
怪訝そうなコレットに、何でもないと言ってごまかした。
「それより早く行きましょう。私もアールも用意しなきゃだしね」
「はいっ。では私は失礼します」
コレットが駆け出した後、これまで静かにしていたアールが口を開いた。
「――研究所内の金庫から金貨を横領したそうです、彼女は」
「その代償がアレなの? 脳に内臓に眼球に……全部」
「所長は罪人には容赦ない方ですから。でもコレットさんは大丈夫だと思います。お嬢様のお気に入りですし」
「――そうね。あの子は人畜無害だもの。それにしても、人の命ってつくづく安いものだわ」
「研究所に仇なす行為は、この国自体への裏切り……そんな大罪を犯した咎人は、もう人だと認められませんよ」
アールは淡々とした口調で言い切った。
肩につけられた軍の紋章が、木漏れ日に鋭くきらめく。
「そうかもね……さあ、行きましょう。人の命を何とも思わないやつらが待っているわ」
「お嬢様」
きびすを返したレティを、アールが珍しく呼び止めた。
「どうしたの?」
「――人の命を守るためには、人の命を奪わなくてはならない時があります」
「知っているわ」
「犠牲のない平穏なんてない。だからお嬢様のなされていることは」
聞き慣れたアールの言葉を、レティは途中で遮った。
「アールが何を言いたいかは判るわ。……ありがとうね。あなたがいなかったら、私はまともに立っていられない」
レティはどこか寂しげな笑みを浮かべる。
研究所の武器は、戦場の最前線に累々と続く屍の山を作り上げてきた。
――自分の研究が、人を殺す。
まだ十二歳の少女が両肩に担ぐには、あまりに重たすぎる事実だ。
まとわりついてくる死者の声なき声に、レティはよく押しつぶされそうになる。
「私は破壊しているの? それともちゃんと守れているのかしら」
「お嬢様の研究は、立派に守っていますよ。この国の未来を」
レティは戸惑いがちに笑みを深めた。
いつだってアールは一番欲しい言葉をくれる。
そのために作った機械人形なのだから当たり前だけれど、今はそれが嬉しかった。
「レティ様が守りたいと願ったもの――俺が最後まで守ってみせます」
アールは穏やかな微笑みを浮かべ、力強く言い切る。
「何に変えても、きっと。必ず」
決意の浮かんだ深い蒼の瞳は、レティの知らない色をしていた。
すぐに研究所と軍の会議が始められた。
機密が漏れないように、部屋の周囲は厳重に警備されている。
無機質な灰色の入り口の他には、窓一つすら存在しない密閉空間だ。
中心に置かれたテーブルを挟み、左側にはリオネルが座している。
部下のうちで特に信頼されているらしい二名がその両脇を固めていた。
リオネルの正面には、所長。隣にレティ、アールと続く。
話しているのは実質、所長とリオネルだけだった。
レティは所長の孫という立場上、いつもこうした会合に同席させられる。けれど、アールも一緒なのは初めてだ。
「何? ――そんなの許せるはずがないわ!」
レティは声を荒げた。雪のように白い両手で机を叩く。
「信じられない。アール、あなたは薄々知っていたのね。だから妙にしみじみとしたことを言うと……!」
「落ち着きなさい。普段の君らしくもない」
所長がたしなめた。立ち上がりかけていたレティは腰を下ろす。
「おじいさまも知っておられたのですね。知っていて私に黙っていたの?」
「愚問だな。レティ、君ぐらいの頭脳の持ち主ならば考えなくてもわかるはずだろう」
レティは小さな唇を結んだ。アールは所在なさげに瞳を伏せている。
「アール君――アームドール二号が指揮をとるようにと、殿下はおっしゃってます」
そう言ってリオネルが単刀直入に切り出したのは、ほんの数分前の話だ。
要領よくまとめられた説明。断る権利が全くない、国王陛下直々の命令だった。
「時間がないですからね。とはいえ今すぐだなんて非情なことは言いません。点検と整備を済ませて、明日の明朝には出発。これは確定事項です」
「何よそれ、ありえないわ!」
レティは思わず立ち上がった。
「ふざけないでよ……! アールに戦場へ行けっていうの?」
「行くんですよ。確定事項です。先んずれば敵を制すという言葉があるでしょう? 我が国の最終兵器、アームドールの威力を見せてやりましょう」
「……最後に出すから最終兵器と言うのでは?」
アールが的確な突っ込みを入れる。リオネルはやれやれとでもいうように肩をすくめた。
「馬鹿言わないでください。戦が始まったら民が死にます。切り札を最後まで取っておくような余裕、我が国にはない」
この小国には魔法文明が発展していない。攻められれば守り一辺倒で粘るしかない弱小国家だ。
そして現在、隣の大国がいつ西の国境から攻め入ってきてもおかしくない状況になっている。
攻め潰されるくらいなら、先手を打って死に物狂いで立ち向かっていくべきだ。
レティは口をつぐんだ。リオネルの言っていることは、悔しいけれど正論だ。
「反論はありませんか?」
威圧感たっぷりの視線が研究所サイドをねめつける。
沈黙がその場に流れたのを確認して、リオネルは少しだけ表情を緩めた。
「では、アール君は軍がもらい受けるということで構いませんね?」
再三の確認に、所長が冷ややかな声で応じる。
「今更、何を。アールは初めから国に命令されたから作ったまでだ。出来は完璧。製品としていつでも納品できる」
「製品? おじいさま、なんてことを!」
レティは思わず叫んだ。立ち上がりかけるが、隣に座る人物に腕をつかまれる。
レティが困惑した視線を向けると、アールは寂しそうに微笑んだ。
「お願いですからお座りください、レティ様」
「でも……」
レティには、所長がアールをモノ扱いしたことが許せなかった。
五年間の歳月を一番近くで過ごしてきた、何よりも大事な存在。
アールはレティにとって、親であり子であり、かけがえのない友達なのだ。
レティは仕方なく椅子に座ったまま、静かにうつむく。
アールを作れと命令してきたのは国だ。いつかこの日がくるということくらい、最初からわかっていた。
わかっていたのに目を背け続けてきた。
「作っていただいた所長やレティ様やそしてこの国のためになるのなら、自分は喜んで戦場に向かいますよ」
レティはハッとして顔を上げた。諦めきった口調で、アールは淡々と続ける。
「自分は機械人形です。人を殺しても心は痛みません。初めから心なんてないのですから」
「そんな……そんなこと言わないでよ」
レティには納得しきれなかった。膝の上で震える拳を握りしめる。
長く共に過ごすうちに、アールのことを機械の人形だとは思えなくなっていた。
レティには両親がいない。肉親は祖父である所長だけだった。
周りの大人たちはいつも忙しそうで、ろくに視線を合わせてすらくれない。
物事ついた時から研究だけがレティのすべてだった。
何かにのめり込んでいれば寂しさも紛れてくれる。
機械で作られた人形のように、ただ研究ばかりをして生きてきた。
そんなレティを人間らしくしてくれたのが、機械人形のアールだった。
アールと会って、初めてレティは笑い方を知ったのだ。
「しかしねえ、こうして見るとアール君は普通の少年みたいだね。……どれくらい強いんだい?」
リオネルは悠々とした態度で足を組み替える。アールの了承がとれたことに満足げだった。
「そうだな……三十五万か? 弾丸さえ補給できれば」
「余裕で七十万はいけると思うわ。弾丸がなくても火薬があればカバーできるから」
所長とレティ。アームドールの創作者二人のやりとりに、軍の人間たちは首を傾げる。
話題に上がっている当の本人だけは、無感情のまま座っていた。
「万というのは?」
「兵力だ。アームドール一体でそれくらいは殺せる」
所長が断言する。
軍側の人間の間に静かなざわめきがはしった。リオネルが形のよい眉をぴくりと痙攣させる。
「所長、それはいくらか大袈裟では……」
「何を。一介の軍人がわしらを愚弄する気かね? ……人らしく行動するための日常用知能に、人を遥かに超越した筋力とそこから生み出される瞬発力。瞳に埋め込まれた高性能レーダーで周辺状況を人工知能へと的確に伝達する。これの身体はわしの技術力の結晶だ」
「ちなみに場合に応じた演算やシュミレートを一瞬のうちにこなす戦場用の人工知能は私が作ったの。手や腕に内蔵した最新鋭の武器もね」
研究者二人が己の自信作を自慢げに説明した。
軍側はさっぱり理解できないとでも言いたげに口を引きつらせる。
同じように国の防衛に当たっているとはいえ、専門分野が違いすぎた。
所長は学問全般を専門分野にしているし、レティは機械の分野で神童と呼ばれている。
対するリオネルたちは完全な肉体派だった。
「……専門用語はサッパリわかりませんが、あなたたちのすごさはわかった気がします」
「うむ、ならいい。用がそれだけなら、わしは研究に戻るが?」
「どうぞご自由に」
所長が立ち去るのを、リオネルたちは頭を下げて見送った。
「ずいぶん砕けた態度ね。おじいさまもあなたも」
レティが言うと、リオネルは薄く笑う。
「個人的な事情ですが、私の両親と所長は昔からの付き合いだそうで。――それにしても彼、人間にしか見えませんね。肌とかどうなっているんです?」
「知らないわ。身体はおじいさまの管轄よ。軍が気になるであろう戦闘能力についてなら、いくらでも私に聞いてね」
「はは、それはありがたい」
リオネルは静かに表情を曇らせた。
「――初めて見ました。あの厳しい所長があんなに落ち込んでいるところ」
「え? あれが落ち込んでいるように見えたの?」
レティは思わず素っ頓狂な声を上げる。所長はいつも通りにしか見えなかった。
「わからなかったのですか。顔を背けて去っていかれた。以前のあの方には有り得ないことだ」
リオネルは遠くを見るようにして瞳を細める。
「愛しておられるのですね。所長は、自分の作品を」
「……アールを?」
「研究者として大事なことです」
リオネルの言葉に、レティはムッと頬を膨らませた。
「あなたに研究者の心構えを説かれるなんて、末代までの恥だわ」
アールは静かに立ち上がると、警戒するようにレティの横に立つ。
リオネルの部下たちも落ち着かない様子だった。
「末代? それはそれは。私も一応年長者として、君に役に立つ言葉を残したいと思うのだがね」
「小さな親切大きなお世話って言葉知ってる? そうね……遺言なら聞くわよ。老い先短いもんね、カールおじさん」
「二十代でおじさん呼ばわりですか? はっはっは、こりゃ参ったなー」
レティとリオネルの間に険悪な火花が飛び散る。
「会議室でも喧嘩ですか? お互いの従者の心臓に悪いからご遠慮いただきたいと言ったはずですが」
緊迫した雰囲気を打ち砕いたのは、アールの冷静な言葉だった。
「所長も去られましたから、解散ということでよろしいですね。大佐、今日お泊まりになる部屋までお送りします。レティお嬢様も研究室にお戻りを」
アールに言われて、レティはしぶしぶ従う。とはいえ今日は研究する気になれそうになかった。
「しかし、早く済みましたね。てっきり、レティ様はもっと反抗すると思いましたから」
別れ際にリオネルが言った。レティは不機嫌そうに眉根をしかめる。
「何が言いたいの? 異議はあるわ。でも私は反抗しない」
「おや、何でです?」
「わからないの?」
おどけるように言うリオネルを、レティは憎々しく睨みつけた。
「無駄だからよ。そもそもアールは戦場に投入するために作った。国の命令で。だから今更……。可愛い子どもを戦場にやりたくない、って私がワガママを言って……それで何になるの?」
「ほう、賢明ですな。しかし、可愛い子ども? 外見上、あなたの方が子どもですが」
レティはリオネルを無視してきびすを返す。これ以上、何も話したくなかった。

「……本当に……びっくりするほど幼い子ですね」
天才学者と別れた後、リオネルの部下がつぶやいた。リオネルは微笑を浮かべて応じる。
「だろう? 生意気で気高いが……いい子だよ。笑顔も可愛い。私に向けてくれないのが残念だ」
あの少女がこの国の未来を背負う研究者だというのが、リオネルには今でもまだ信じられなかった。
「こちら、右です」
軍服の少年がリオネルたちを先導する。リオネルは静かに少年を観察した。
細身の体を包む軍服は真新しい。腰につけられた拳銃も新品のようだった。
そこだけ見ていればリオネルの軍の新入りと大差ない。
けれど少年が身にまとう雰囲気は、軍の人間のそれとは明らかに違った。
まるで教会にいる神官のように、その表情が穏やかなのだ。
青い瞳は、どこまでも深く、蒼く。
恐ろしく整った外見は、神々しくすら感じられる。
「着きました」
リオネルたちは案内された部屋に荷物を下ろした。
会議室のような大部屋で、どこまでもがらんとしている。
今日はここに泊まり、数日の機密会議の後に西の大国へ攻め入る予定だった。
「……アール君、ちょっといいかい?」
役目を終えて去ろうとする少年を、リオネルは呼び止める。
「何ですか?」
「……君に、一つ頼みがあるんだが」
「俺にできることでしたら、何でもどうぞ」
淀みなく返答する少年を見て、リオネルは苦笑した。
本当に、少年は人間にしか見えない。
「こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど……あの子を泣かさないでほしいんだ」
リオネルが言うと、少年は瞳を丸くした。そして穏やかに笑む。
「レティ様ですか。……はい、わかりました」
あまりにも軽い返答だった。
「おい、私は真面目に!」
「わかっていますよ、リオネル大佐。彼女を泣かせたりはしません」
リオネルの瞳をまっすぐに見据えて、少年は誓う。
「……心配しなくても、生きて帰りますよ」
――例えその手が血に濡れてしまったとしても。
「そうか……なら、いいんだ。引き止めてすまなかった」
少年は一礼してその場を立ち去った。リオネルはやれやれとため息を吐く。
「……それにしても、不思議な巡り合わせですね――レティシア王女」

別の棟にある自分の部屋に入ると、レティはバタンと扉を閉める。
背中を扉に押しつけたまま、レティはズルリとその場にへたり込んだ。
自分の膝に顔をうずめる。これまで抑えこんでいた感情が、一人になった途端に堰をきって溢れだした。
大人たち、それも大嫌いな軍人の前だから、ずっと強がって我慢していたのだ。
レティの胸に蘇るのは、アールと一緒に過ごした日々だった。
――人を殺させるためにアールを作ったのに。人間では、ないのに。
それなのに、どうしてこんなにも心が苦しいんだろう。
息がうまくできない。肺を何かに握りしめられているみたいだ。
親の顔も知らぬまま過ごしていた灰色の日々。アールはそれを暖かい色彩で塗りつぶしてくれた。
ただ隣にいてくれるだけでよかったのに。それ以上、何も望まないのに。
「アールの莫迦……戦場に行くだなんて……あんな簡単に、言わないでよ……」
頬を伝った水滴が、スカートの布地に染みを作る。
レティは声を押し殺して泣いた。
泣いてもどうにもならないことくらい知っているけれど、泣かずにはいられなかった。
――アールが大好きなのに。別れたくないのに。
レティは不意に、市場で会った民衆のことを思い出した。
大国軍の侵攻を止めさせる。レティは確かにそう誓ったのだ。
懸命に生きている人間の命。それを守るという尊い目的を前にして、私情を持ち出すことなどできない。
レティの研究者生命を賭けて、大国軍の侵攻を絶対に止めなくてはならなかった。
服の裾でレティはぐいぐいと涙を拭う。
せめて、最後くらいは笑顔でいようと思った。
――あなたのおかげで私はこんなに立派になった。
そう、胸を張って言えるように……。
もたれかかっている扉が、控えめにノックされる。
「アール?」
レティは勢いよく扉を開けた。しかし目の前に立っているのは、期待した人物ではなかった。
「レティ様、お食事の準備ができました。その……すみません、アール君じゃなくて」
エプロン姿の少女、コレットは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「なんで謝ってるのよ。別に構わないわよ」
「……泣いておられたのですか?」
レティは頬をかっと紅潮させた。どうやら目の回りが赤く腫れてしまっていたらしい。
「泣いてなんかない。ちょっと目にゴミが入っただけなの」
わかりやすい嘘だとレティ自身も思ったけれど、コレットは何も言わないでいてくれた。
お世話係であるコレットに先導されて、いつも食事をとっている場所とは違う棟の広間に向かう。
そこにはすでにリオネル率いる軍人たちが座していた。
おいしそうな匂いを漂わせて、いつもより豪勢なご馳走が並んでいる。
シェフお手製の料理だが、今のレティには食欲を感じられなかった。
「アールはどこ?」
レティの質問に、コレットは少し困ったように微笑む。
「……えっと、所長と話があるらしくて」
「その間が怪しいんだけど。何か隠しているわね?」
会食の場にアールがいないことがレティには不満だった。
共に過ごせる時間は、あと少ししか残されていないのだ。
「隔離政策ですよ」
横から低く穏やかな声が聞こえた。
レティは声の主、リオネルを睨みつける。
「何?」
「隔離政策ですよ。駆け落ちとか馬鹿なことをしないようにするために、ここ数日はレティ様をアール君と会わせないでおこうと」
「あなたが言ったの?」
レティは視線に殺気を混じらせる。
「やだなあ、言ったのは所長ですよ」
リオネルは爽やかに笑って否定した。
レティは大人しく椅子に腰を下ろす。
(駆け落ち、か)
静かな部屋に、時折食器が立てるわずかな音だけが響いていた。
「所長も寂しいのですよ。いいように利用していたように見えて、実際のところアール君は息子みたいなものですから」
コレットが場の空気を和ませようと、明るく微笑んだ。
本来使用人は簡素な食堂で食事をとるのだが、コレットだけは別だ。レティのわがままで常時そばに控えさせている。
「私にとっても息子なんだけど……独り占めにしないでほしいわ、おじいさま」
レティは幼い声で口を尖らせて言った。リオネルはため息混じりに苦笑する。
「本当にすまないと思っています、レティ様」
「今更、何よ」
コレット相手とは明らかに違うトゲトゲしい声でレティは応じた。
「本当はね、こんなはずじゃなかった。こんなに早く戦争が始まりそうになるとは。――幸運なことに数ヶ月前、北の帝国の皇子から我が国の王女に縁談が持ち込まれたのですよ……」
妖精と見紛うほどの可憐さに、ずば抜けた魔法の才能を持つ。
海の底のアクアマリンのように美しい王女は、国民全員から敬愛されていた。
病弱で公の場にほとんど現れないことも手伝って、民衆の間では神話のような存在になっている。
その王女に、北の帝国から縁談が申し込まれたという。
レティにとっては全てが寝耳に水だった。
「へえ。北の帝国がねえ。守ってやるから属国になれってわけね?」
「穿った見方をすればそうとも取れますね。けれどこの国にとっては渡りに船です。北の帝国の加護があれば、他の国は迂闊に我が国を攻められませんから」
リオネルは平然と言ってのける。レティはわずかに反感を覚えた。
この国の王女は、確かレティと同じ十二歳だ。
「……いくら国のためになるとはいえ、好きでもない相手と政略結婚だなんて王女様が可哀想だわ」
「政治の絡まない結婚なんて、王族にはありえませんよ。まあ、国王殿下も迷ったそうですがね」
問題は、国王の子どもが王女一人しかいないことだった。
王女が他国に嫁いでしまえば、王族の血を引く者がいなくなる。
それで結局、この縁談はなかったことになったという。
「まあそんなの建て前で、国王陛下が王女を手放したくないだけでしょう。一人娘を溺愛されておられますからね。本当にこの国を存続させたいと願うなら、何としてでも縁談を受けるべきだったと思いますが」
「そりゃあそうよね。何よそれ、バカみたいだわ。国がなくなってしまったら、王家の血なんて関係ないじゃない……!」
レティは声を荒げた。王家のワガママのせいでアールが戦争に駆り出されることになるだなんて、許せない。
「落ち着いてください。食事中に楽しい話でもと思ったのですが」
「何が楽しい話よ。せっかくのディナーが美味しくないわ」
レティは素早く思案をめぐらせた。
(もし、もしも王女が縁談を受けたら)
北の帝国は魔法文明の発達した国だ。強靭な軍隊を持つ西の大国でも、魔術師の集団と交戦すればただではすまない。
数年前の革命――未遂に終わったその戦いで、国王陛下と王女以外の王家の人間は殺害された。
けれど、国王陛下だってまだ余命はある。王女が縁談を受けさえすれば、全てがうまくいくのだ。
見たことも会ったこともない王女を、心の底から憎いと思った。
「ところで、アール君以外にアームドール生産の目処は?」
「今のところないわよ。技術者が私とおじいさましかいないから、大量生産は無理だもの。おじいさまだって何も仰ってないわ」
リオネルの質問に答えながら、レティは昔のことを思い出す。
そういえば数年前、一作の人工頭脳を制作した。
機械がむき出しの脳に過ぎないが、レティの大事な初作品だった。
オディロンはあの頭脳にも身体を与えたのだろうか?
あれは今、どうなっているのだろう。
そう考えれば、どんどん気は滅入っていった。
作った機械の人形は、レティたちの手元に残らない。
人殺しの道具として使われるのなら、最初から産まなければ良かったとさえ思った。
「ごちそうさま。私は部屋に戻るわ」
レティは元気なく食器を置いて立ち上がる。
廊下に出てそのまま歩いていたら、コレットが後を追ってきた。
「お待ちください、お嬢様!」
「部屋になら一人で戻れるわ。コレットまで食事を中断することなかったのに」
息も絶え絶えに、コレットはブンブンと首を横に振る。
「いえ、違うんです! 私、お嬢様にお伝えしたいことがあって……」
「何?」
ただごとではないコレットの様子を感じ取り、レティは立ち止まった。
「その……」
コレットはうつむき加減に口をもごもごさせていたが、やがて覚悟と共に前を向く。
「アール君の居場所、知っています。案内できます。お嬢様がお望みなら」
レティは目をまん丸くした。
人間なのに、機械の人形と同等以上に誠実な性質をしている。
そう思っていたコレットが、自ら掟破りの提案をしたのだ。
「それがどういうことか分かってる? おじいさまに背くということよ。バレたらただじゃすまないわ。私もあなたも」
「はい、分かっています。とうに覚悟はできています」
コレットはいつになくハキハキと答える。
レティの心には、熱いものが満ちていった。
「……あなたって」
レティはそこで一旦言葉を区切る。
「あなたって、私のお世話係失格ね」
「……はい」
コレットは泣きそうな表情を浮かべてレティから視線を逸らした。
レティは地面を蹴ってコレットに駆け寄る。
気づけば体が自然に動いていた。
背伸びして手を目一杯に広げ、コレットをギュッと抱きしめる。
「でも、大好き!」
驚いて目を白黒させるコレットに、レティは感謝の言葉を述べる。
「本当に、あなたは最高のお世話係だわ。ありがとう、コレット!」
「お嬢様……」
ゆっくりと、コレットは弾むように微笑んでくれた。
いつも近くにいて何でも分かってくれる。
そんなコレットはレティにとって姉のような存在だ。
「よくお聞きください。アール君がいる場所へ行くとき、軍の方が泊まっておられる部屋を通ります。食事中の今がチャンスです」
「うん、分かったわ。案内をお願い」
素直に頷いて、抱きしめていた手を離す。
レティは顔を引き締めた。
コレットの後をぴったりついて歩きだす。
案内されたのは、レティが普段立ち入らない棟だった。
「……お嬢様、少し昔話をしてもよろしいですか?」
「いいけど……どうしたの」
少し表情を曇らせながら、コレットは穏やかに話し始める。
「私が住んでいた集落は九年前、盗賊に襲われました」
山あいの長閑な村は、一瞬にして炎に包まれたという。
足音を立てて廊下を歩きながら、コレットはさらに続けた。
「何もかも失いました。何もかもです。優しかった両親も、やんちゃだった兄弟も……みんな目の前で死んでいきました」
今の和やかなコレットからは想像もつかない凄惨な昔話だ。
ほとんどの村人は無謀にも最期まで戦う道を選んだ。
けれどコレットは違ったらしい。
「生きたいと……言いました、私は。家族の仇にです」
六、七歳の幼い子どもだ。
自分の選択が指し示すことなど、真の意味でわかっちゃいない。
ただ死にたくない一心で生にすがりついた。
そんなコレットを誰が責められるだろう。
「私は売り飛ばされました。値を付ける市場に偶然通りかかった老人が私を買われたんです。目が綺麗で気に入ったから、孫のお世話係にすると言って」
「そうなの? おじいさまが」
「はい、今思うと幸運でした。本当に……、私は幸運です」
自嘲するかのように、コレットは小さく笑った。
「でも時々思うんです。あのとき、命乞いするくらいなら、殺せと叫ぶべきだったのかもしれないと」
「コレットのバカっ!」
その先を聞きたくなくて、レティは思わず叫んだ。
「はい? ええっと、気を害する話をすみません。お嬢様には聞いていただきたかったのです」
「違う。そういうことじゃない。そういうことじゃなくて」
考えながら、レティはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……もしコレットがその時に死んでいたら、私はコレットに会えなかったじゃない。だから、例え冗談でもそんなこと言うのは許さない」
コレットはしばしの沈黙のあとで、柔らかい微笑みを見せた。
「はい……、確かにそうですよね。生きてなかったら、私はお嬢様に会えなかったです」
――だから悔やむことはしません。
きっぱりと言い切るコレットの瞳には、強くて暖かい光が宿っている。
レティは心の底から湧く暖かい気持ちに浸った。
「こんなところで立ち話ですか?」
淡々とした声に、コレットとレティは振り返る。
声の主――アールは無感情な瞳でこちらを見て、呆れたようにため息をはいた。
「お嬢様の趣味は、所長の言いつけを破ることなんですか?」
「趣味って言うより日課ね。おじいさまの言いつけは、そもそも破るために存在していると思うの」
反射的に言ったレティに、アールは小さく顔をしかめる。
「なんというか、自分とお嬢様の認識には天と地ほどの差があるようで」
「そのようね。これが人間と機械の越えられない壁ってやつなのかしら?」
「ちょっとは黙りやがれ。……です。お嬢様は真面目とか従順とか素直って言葉を記憶装置にインプットしてください」
クスクス笑いをこらえるコレットを見やり、アールは更に呆れた様子だった。
「それからコレット。ついにあなたも職務怠慢という言葉を覚えましたか」
「え? あ、はい。おかげさまで、ここ数年間に読み書きが上手くできるようになりました!」
コレットは全くもって筋違いの明るい言葉を返す。
天然なのかわざとなのか――レティには前者だとしか思えなかった。
「話し合っても無駄だという空気が漂っているのは百も承知なのですが……。それでも言わせてください。お嬢様、即刻部屋に戻るおつもりは?」
「あると言えば驚くかしら」
「もちろん驚きます、死ぬほど驚きます」
アールはいつものようにきっぱり言い切った。
冷たかったはずの表情が少し緩んでいる。
だからレティも、いつもみたいに笑うのだ。
――そうしていると、この暖かい日々がいつまでも続くと信じられる気がするから。
「ひどいわね。今日が最後だというのに、少しくらい……」
自分で口にした最後という言葉に心を貫かれて、レティは何も言えなくなってしまった。
「……っ」
おさえていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
口を開けば、漏れるのは小さな嗚咽だけだった。
「嫌っ……嫌なの」
涙をぬぐいながら、レティは懸命に言葉を紡ぐ。
「アールがいなくなるなんて嫌なの……。アールもコレットもおじいさまも、みんな大好き。いなくならないでよ」
――置いていかないで。私を一人にしないでほしい。
悲痛な叫びは喉に詰まって声にならない。
幼い頃からずっとずっと、レティは一人ぼっちだった。
物心つくのが遅かったのか、記憶に残る人生は八歳の時から始まる。
玩具は人工知能の難解な回路で、幼なじみは祖父の書斎にある書物だった。
だからレティは人を抱きしめるのが好きだ。暖かくて、ホッとする。
コレットに会った頃なんて、四六時中しがみついてコレットを困らせていた。
暖かくて大好きな人をなくしたくないと、ただただ心の底から願う。
笑って別れると決めたはずなのに、やっぱり駄目だった。
「聞き分けてください。これ以上、困らせないでください」
「聞かない! いつも一緒だって言ったのに。アールの莫迦。嘘つきっ……!」
そう叫んだ瞬間。
腕を引かれ、レティはぎゅっと抱きしめられた。
――暖かい、な。
アールの背中に手を回すと、固い胸に顔をうずめる。
生きている人間みたいに優しい鼓動が耳に届いた。
コレットを抱きしめた時と同じように暖かくて、そしてコレット以上に力強い。
「困らせないでください……。この国を守ることがお嬢様を守ることに繋がる。役に立って死ねるなら、我々機械の本望だというのに」
珍しく揺らいだ声でアールがささやく。
「会いたくなかった。会うと折角の決心が鈍ります。お嬢様を置いていくことが、本当に、それだけが心残りです」
平然としているように見えたのは、どうやら演技だったらしい。
レティはキッパリと、言いたかったことを告げた。
「決心なんて要らない。ゴミ箱に捨ててしまえばいい。……いなくならないでよ。私と一緒に逃げよう」
体を離すと、アールはレティに真剣な顔を向ける。
「本気ですか? 逃げるなどと、本気でおっしゃるのですか」
バカなことを、とは言わなかった。
きっとアールもその提案を待っていたのだと思う。
レティはこくりと、確かな意志を強く込めて頷いた。
「我が儘だって分かってる。でもアールを失うことには耐えられない」
レティは精一杯の微笑みを浮かべて、アールに手を差し出した。
「命令じゃないから、逆らってもいいよ。……私と一緒に来てくれたら、とても嬉しい」
レティの手をとるかどうかはアールの自由だ。
しばらくの沈黙の後で、アールはフッと笑った。
「強引ですね。そんなことを言われたら断れない」
そっと手が重ねられて、レティもアールに微笑み返した。
「えっと……私はレティ様のお世話係として、お止めした方がいいのでしょうか?」
困惑していたコレットが、ようやく我に返って尋ねる。
「自分にりんごが必要かどうかをりんご売りに訊くなって言葉、知りませんか」
逃げようとしている二人に止めた方がいいか訊いても返答は決まっているから全く時間の無駄だろう。
アールに言われて、コレットは困惑しながらも問いかける。
「えっと、じゃあ……レティ様は具体的にこれからどうするおつもりなのですか」
「王都に向かうわ」
コレットの質問に、レティは間髪入れず答えた。
「王様とやらに一発、説教をぶちかましに行く。王女を北の帝国に嫁がせろって言うわ」
もちろん、無茶なことだとは分かっている。
これは賭けだ。
「もし王様を説得できたら、無血で円満解決よ。もし無理だったら……その時は私の負け。素直に諦めるわ」
精一杯の抵抗をして無理だったら、アールを国に差し出すこともやむを得ないだろう。
「諦めない方に金貨二十枚を賭けます」
「じゃ、じゃあ私は銅貨一枚で」
アールとコレットに言われて、レティは頬を膨らませた。
二人してレティのことを何だと思っているのだろう。
「そんなことよりお嬢様、どういたしましょうか」
アールは廊下の奥、レティたちが来た方を視線をやる。
実は言われる前からレティも気づいていた。
「何人?」
短く訊けば、アールの瞳にレーダーの赤い光が点る。
一秒と時間をかけずアールは答えた。
「一人ですね」
曲がり角の向こうに人の気配があるのだ。
こちらの様子を注意深くうかがっている。
「おじいさま……なら、こそこそ隠れないわね」
「え? 誰かいるんですか?」
いまいち事態を飲み込めていないコレットが、おたおたと言った。
「大佐? 大佐やその部下だったらぶっ飛ばしましょう」
「いえ、どうやら不味いみたいです」
アールの表情は固かった。レティは不穏な空気を悟る。
「もしかして……」
もしそうだったら、少し不味いかもしれない。
完璧な戦闘用人形であるアールにも、弱点は一つ存在した。
「レティ様、アール君、そして雑用さん。どうしてこんなところへ?」
壁に隠れた人物が、低く落ち着いた声を放る。
「貴方たち軍人には関係ないわ」
「いえ、私は所長の命令で不穏な行動があればお止めしろと言われておりますので」
レティは舌打ちしたい気分になった。
――間違いない。
廊下のあちら側にいるのは、かの魔法使いだ。
頭脳派であるレティが逆立ちしても相手に勝てないことは明白だった。
さらに、主戦力であるアールは機械の人形だ。魔法には滅法弱い。
レティは最後の期待をこめた視線をコレットに送った。
「あなた、もしかして魔法使えたりしない?」
「しません。使えるわけないです。魔法が使えたらここにはいないです」
「まあ、そりゃそうね……」
この小国で魔法を使えるのは、王族くらいなものである。
レティが肩を落としていると、さらに追い討ちの声がかかった。
「実はですね。所長様より、魔法の使用許可をいただいていましてね。二十秒以内に降参してくれなければ実力行使に出ますが、よろしいでしょうか」
「そんな許可出したの……あの馬鹿ジジイめ」
アールは「品が悪いですよ」とレティの悪態を咎める。
コレットはコレットで、容易ならざる事態に怯え始めた。
「レティ様、どうするんですかっ」
「うるさいわね。考えてるわよ、今!」
天才といわれるレティの頭脳は、しかし何の解決策も提示してくれない。
焦るばかりで、ただ時間ばかりが過ぎていった。
「仕方ないですね、こちらから行きますよ。おとなしく縛に就いてください……」
リオネルの部下の魔法使いが、ぶつぶつと呪文を唱え始める。
レティは何もできない悔しさに唇をかみしめた。
魔法使用に伴い、辺りの空気がスッと静まる。
「目と耳を閉じていてください」
アールのつぶやきを耳の端で拾い、レティはどういうことか聞き返そうとした。
途方もない爆音が破裂したのは、そのときだ。
手で耳を押さえる暇もなく、すぐそばで衝撃が爆ぜる。
前へと無造作に突き出されたアールの腕が、数回跳ね上がった。
壁が崩れて周囲に濃い色をした煙が立ち上る。
それが晴れた時、魔法使いの頭にはアールの持つ銃が突きつけられていた。
状況をつかみかねる魔法使いを、アールは冷静に脅す。
「一ミリでも動けば容赦なくぶっ放します」
魔法使いは恐怖のあまり表情をひきつらせた。
アールが使ったのは、腕に内蔵された小型銃だ。
打ち放して隙を作ることで、距離をつめた。
的確な判断と射撃の正確さに、レティでさえも感嘆した。
「レティ様、これでいいでしょうか?」
「最高よ。でも珍しいわね。アールがこんなことするなんて」
「ここまで来たら最後まで付き合いますよ」
魔法を発動させるためには呪文詠唱を必要とする。ならば、その時間を与えなければいいのだ。
アールは一分の隙もなく魔法使いに銃口を押し付けている。
「で? これからどうしますか」
アールの問いかけは、荒々しい怒声にかき消された。
廊下の向こうから、ドタバタと人が走ってくる。
先頭にはリオネル、そして部下たちがいた。
魔法使いが銃口を向けられているのを見て、皆が一様に足を止める。
「あちゃー、見つかっちゃった」
「あれだけ派手な破壊音がして、誰も気づかないとでも?」
アールは魔法使いの首ねっこをつかみ、自分の前に持ってくる。大人の男を腕一本で子猫のように扱っていた。
レティとコレットはアールの背中に隠れる。
眉間にシワを寄せて、リオネルは懐に手を突っ込んだ。
盾にされた魔法使いは、軍の上司へ「助けてくれ」と必死で嘆願する。
しかしリオネルの部下たちは、懐から出した銃をまっすぐに構える。
後頭部には相変わらず銃口が押し当てられているのだから、可哀想な魔法使いは生きた心地がしなかっただろう。
「盾にするとは卑怯だな」
リオネルが渋く言うが、アールは淡々と返す。
「卑怯という言葉の生みの親はレティ様です」
どういう意味だと問いつめたいのは山々だが、事態をややこしくしてもいけない。
レティは仕方なく、黙って静観することを続けた。
「しかしなあ、どういうつもりだ? 君は戦場用の機械だ。生まれてきた目的はしっかり人工知能にインプットされているだろう?」
「目的に背いたとしても、生みの親であるレティ様の願いを叶えたいんです。何か問題でも」
緊迫した雰囲気の中、アールとリオネルが会話を交わす。
「問題ありすぎるだろう。この国を守ることが、レティ様を守ることに繋がるのだが」
「知りません。そんなこと」
アールが機械らしからぬことを平然と口にした。
「戦うよりも、もっとやりたいことができたんですよ」
アールの瞳に浮かぶ決意は固くて、絶対に揺らぐことはない。
リオネルは苛々として、攻撃的につぶやいた。
「仕方ない。人質の命は諦めて、アームドールと軍との力試しといこうか? 非力な一般人を守るとなれば、アール君も少しは苦しいだろう」
「嫌とは言いませんが……いえ、嫌ですね。大佐はこんなところで死ぬには勿体ない人材です。命は大切にしてください、人間は修理できないのですから」
――機械人形である自分とは違って。
アールは自嘲するかのように微笑む。遠まわしに挑発されて、リオネルは眉間のシワを深くした。
「バカにするのも大概にしろ、若造が」
無造作に引き金が引かれて、アールが顔をしかめる。
脳天を貫くような銃声に、レティたちは身を縮めた。
アールがゆっくりと手のひらを開けば、煙に包まれた銃弾が床に転がる。
「人間にしては凄いですね。針の穴を通すとはこういうことを言うのでしょうか?」
棒読み気味にアールが言うと、リオネルは苦々しく口角を上げた。
「はは、やってくれるね。銃弾を手のひらでつかむなんて」
物理的な武器が相手なら、アールは文字どおり最強だ。
しかし背後にレティやコレットがいるとなると話は変わってくる。
相手を殺せないのだからアールは身動きが取れず、睨み合いをするしかなかった。
「……転移魔法。そうだわ、それがあるじゃない!」
レティの頭に名案が舞い降りる。この状況を打開するには、逃げてしまえばいいのだ。
「ああ、なるほど」
そうつぶやいて、アールは魔法使いに命令した。
「聞いてますか? 王都へ転移してください」
丁寧なのは口調だけで、断るという選択肢は存在しない。
自分の頭に押し付けられているものが何か理解しているから、魔法使いは一も二もなく頷いた。
「も、紋章を描きたいのですが……」
「詠唱だけなら許可します。不審なことをすれば命はないですよ」
こちらの意図を理解したリオネルは、憎々しげに魔法使いを睨む。
レティは哀れな魔法使いに軽く同情を覚えた。
転移魔法を使ってレティたちの逃走を手助けすれば、彼の出世の道はリオネルによって永久に閉ざされるだろう。
そして魔法を使うことを拒絶すれば、もれなく二階級特進できる。
どちらにしても首が飛ぶ。実際に飛ぶか、もしくは職を失うか。
魔法使いは当然のことながら後者を選んだ。
「大地に根づく精霊よ……」
「おい、やめろ! 転移したらどうなるのかわかっているのか!」
リオネルが般若のような顔で怒鳴り散らすが、まったくの無駄だった。
「我にその力を貸したまえ。――転移」
魔法使いの呪文で、リオネルの顔が、部下たちの姿がぐにゃりと歪む。
キィンという耳なりを感じて、レティは瞳を閉じた。

ふわりと体が浮かび上がって、そしてどさりと落ちる。
カビ臭い空気に囲まれて、レティはゴホゴホと咳き込んだ。
アールは無表情のままで魔法使いへと問う。
「ここは?」
「王城の地下、魔術関連の資料室……私の仕事場です」
魔法使いはいくらか堂々とした態度で答えた。
周囲をきょろきょろと見渡して、レティはハッとする。
「コレット! コレットはどこっ?」
魔法使いは、してやったりという表情を浮かべる。
この事態を予測していたらしく、アールは静かに息を吐いた。
「置き去りですか。やってくれる」
冷たい視線を意にもせず、魔法使いは笑う。
「あまり大人をナメてもらっては困りますね」
転移の魔法は、使用者の周りを有効範囲とする。
コレットはまんまと魔法の有効範囲から弾かれたのだ。
今ごろは研究所内でリオネルに捕らえられているだろう。
レティは眉を寄せて魔法使いを睨んだ。
なんということをしてくれたのだろう。
レティたちを妨害する、考えうる限りで最高の嫌がらせだった。
「最悪だわ。アール、こいつを蜂の巣にしてほしいのだけれど!」
「お断りします。レティ様は血がお嫌いでしょう。それに彼を殺すことで何の利益が?」
アールは表情を崩さずに、淡々とレティをいさめる。
レティはしかめっ面をして腕を組んだ。
まずはどうすべきかを考えなくてはならない。
銃口を魔法使いに向けたまま、アールが状況の分析を始めた。
「コレットはまず大丈夫です。彼女に危害が加わるようなことがあれば、レティ様は二度と研究所に戻らないでしょうから」
「そりゃあそうよ。でもどうしてコレットが大丈夫だと言えるの?」
アールの人工知能は地上で最高レベルの性能を誇っている。
天才と言われるレティでも、回転の速さについて行けなかった。
「所長はレティ様の性格を熟知しているはずです。そしてレティ様はこの国にとって絶対に必要な人材です」
「ああ……なるほどね。コレットには危害を加えずに、私を連れ戻す人質にするのが賢い、か」
レティはため息をぐっとこらえる。
コレットを人質にされたなら、無条件降伏することしか考えられない。
それだけ、コレットはレティにとって大事な人だった。
「となると、一刻の猶予もありませんね。研究所サイドがコレットを人質に交渉してくる前に」
「やりたいことを済ましとかなきゃね。……王様に会いに行かないと」
レティは薄暗い部屋の中を見回してみる。
壁一面を埋める棚は、所長の部屋を彷彿とさせた。
棚には本、いや、古紙の束がぎっしりと隙間なく詰め込まれている。
敵から攻撃魔法をぶつけられるようなことがあれば、城中で一番危ないのはこの部屋だ。
揺れによって本が崩れたときの惨状が目に見えるようだった。
「狭いし暗いし、ひっどい仕事環境ね。魔法使いってみんなこんな風なの? 道理で根暗になるわけだわー」
八つ当たり気味にけなし言葉をぶつける。
魔法使いは眉根を寄せてレティを睨んだ。
「お言葉を返しますが……人体のパーツを入れた水槽が並んでいるようなところで研究に打ち込む学者さんに、私の仕事環境を馬鹿にする資格はないかと」
まったくもってその通りで、反論の術もない。
「失礼ね」
「そちらこそ」
魔法使いは銃口を向けられることに慣れたようだった。
さすがはリオネルの部下。肝がすわっている。
――さて、どうするべきだろうか。
アールを失いたくない一心で、ひたすらに突っ走ってきてしまった。
レティはブーツの足音を響かせて窓際に向かう。
窓は薄い茶色のカーテンで締め切られていた。
そっと外を覗いてみる。
今いるところからは、大通りが見下ろせた。
どうやらここは城壁の中に組み込まれた一室らしい。
非常時には敵の様子をうかがったり射撃するのに使われるのであろう。
「戻っていたなら挨拶くらいしなさいよ、この大バカ者がーっ!」
突如、小さな部屋に甲高い声が響きわたった。
一人の女性が扉を開けて、部屋の中に文字通り飛び込んでくる。
細いホウキの柄に腰掛けたままで、女性は静止した。
後頭部でまとめた髪は赤茶けている。
ラフなズボンもフード付きのセーターも、城下町で流行りの服装だ。
レティの亡き母親がもし生きていたら、この女性と同じぐらいの年齢になっていただろう。
つり上がった眉に知的な眼鏡。不思議なことに、座ったホウキごと宙に浮いていた。
「あんたら、誰?」
怪訝そうな様子で女性は眉をしかめる。魔法使いは何とか説明しようと頑張った。
「えっと……その……研究所の学者と……機械の兵士の……」
「まあ何でもいいわ。客を呼んだなら飲み物くらい出しなさいよ、このバカ息子!」
息子が客に銃を向けられているというのに、お構いなしらしい。
女性はホウキから床上に降りると、アールに笑顔で握手を求めた。
「私は王室づき魔術師のアザカ。こっちがバカ息子のジョニィよ。一応、魔法使い。よろしくね。あなたは?」
どうやら女性――アザカは魔法使いの母親らしい。
息子の外見年齢から考えて、かなり若く見える母親だ。
魔法使い――ジョニィに銃口を向けたまま、アールはもう片方の手で握手に応じる。
「アールといいます」
「アール君かあ。その紋章、若いのに階級持ちなのね。あのリオネルの部下なんかやってるうちの息子とは大違いだわ、大したもんよ」
「お褒めいただきありがとうございます」
「よかったら軍なんて辞めちゃって私の秘書兼愛人にならない?」
「謹んでご遠慮します」
ハイテンションなアザカの冗談に、アールは無表情のまま応えた。
アザカは人好きのする笑顔を浮かべて残念そうに言う。
「そう? 気が変わったら言ってね。あなた若いもの、大歓迎よ」
壁にホウキを立てかけ、アザカは思い出したように振り返った。
「あ、そうそう。その物騒なもの、しまっておいてね。城の中で撃ったら大問題よ」
どうやら銃の存在に気づいていなかったわけではないらしい。
しかしそうならアザカの言動がレティには不可解だった。
アールは何を思ったのか銃口をジョニィの額にコツンとつけて、引き金に指をかける。
「や、やめ! ひいぃっ」
ジョニィは短い悲鳴を上げた。レティが制止しようとした時、乾いた金属音が鳴る。
――カチン。
「え?」
引き金は確かに引かれているのに、銃口が火を噴くことはなかった。
「嘘。弾が出ないの? どうして?」
「……いつ、ですか」
会話がいまいち噛み合っていない気がするが、それもそのはず。
アールの質問はレティでなくアザカに向けられたものだった。
「さあてね。いつでもできるわよ」
アザカは鼻をならして得意げな微笑みを浮かべる。
「私の名は北の赤魔術師アザカって言ってね。あなたたちが知らないのも無理ないけど、北の帝国じゃあ有名なのよ? ちょうどこの小国でいう、学者のオディロンとかレティみたいな存在ね」
なるほど、とレティは納得した。いつの間にか、アザカが魔法で銃を無力化したのだ。
呪文詠唱も紋章も使わずに精神力だけで力をコントロールするのはかなり難しいことらしい。
だからアザカが北の国で有名というのも、あながち嘘ではないだろう。
アザカに敬意を払い、アールは銃を仕舞った。
解放されたジョニィはズルリとその場にへたり込む。
魔法使いのくせに格好悪いオジサンだなと思ってしまった。
「んで? 一応、聞いてあげるわ。私の仕事場に何の用かしら?」
アザカは机に本を広げながら尋ねる。大した興味もなさそうな様子だった。
「あの、それはっ! 私、王様に謁見したくて」
レティは思い切って声をあげる。本から顔を上げたアザカとピッタリ目が合った。
今の今まで存在に気づかれていなかったらしい。
気づいてはいても、気にされていなかった。
レティの存在を認識したアザカは幽霊でも見たかのような表情をつくり、小さくつぶやく。
「あら……レティシア様」
「えっ?」
知る者が少ないはずの本名で呼ばれて、レティは困惑を隠せなかった。
――レティシア。レティシア・ローラン。
それがレティの本名だが、書類にサインするときですら省略したレティの名を使っている。
「どうしてこんなところにいらしたのです。早く本塔にお帰りくださいませ」
怪訝な顔をするレティを前に、アザカは恭しく頭を下げた。
「母さん……。レティシア様? 何を言っているんだい? この子は西の研究所の姫君にしてアームドールの創作者、天才学者のレティ様だよ」
見かねたジョニィが怪訝そうに訂正してくれる。しかしアザカは聞く耳持たなかった。
「はあ、あんたこそ何を言っているの。この方が誰だとお思い?」
「だから学者の……」
「レティシア様、愚息が無礼を働き申し訳ありません」
さっぱり意味が分からないが、間違いなく人違いだろう。
レティシアという名前の女の子は、国の中では珍しくないとコレットが言っていた。
それもそのはず、レティと同年代である王女様の名が、レティシアなのだ。
昔から、王族が生まれれば国中の多くの親が自分の子に同じ名を授ける。
レティの亡くなった両親も、国の宝たる王女様に憧れる平凡な民の一人だったのだ。
「あの、確かにレティシアですけど、違う人と間違ってませんか?」
「何をおっしゃるのですか! 私はあなたの顔を見間違えたりしませんわ」
そう言われても人間違いなのだから困ってしまう。
様をつけて呼んでいるところからして、その「レティシア様」は貴族の娘か何かなのだろう。
「さあさあ、こちらへ。早く戻らないと国王が心配なさります。私が叱られてしまう」
アザカは扉を開けてレティを手招いた。
「どうしよう」
「レティ様のお好きなように」
ついていくか決めかねて尋ねるが、もちろん答えは返ってこない。
アールは主人――レティを守り、命令に従うための機械人形にすぎないのだ。
「母さん……レティシア様って、まさか」
「ああ。お前は謁見したことがなかったわね」
ジョニィとアザカ親子が、レティにとっては意味不明なやりとりを交わす。
「うん、そうね……まあ、ついて行ってみましょうか」
レティはため息混じりに決断を下した。ここにいても埒があかない。
「了解しました。ただ、気をつけてください。俺ではアザカさんの魔法にかなわない」
「頼りないわね。まあ、無理もないか。……そんなに似てるのかな、『レティシア様』と私って」
世の中には顔の似ている人間が三人ずつ存在するという。
そのうちの一人が偶然この城にいて、偶然にも同じ名前だった。
そういうことだろう。
その「レティシア様」とレティが並べば、アザカの誤解も解けるに違いない。
レティはそう思いながら、アザカについて部屋を出た。これから城の本塔に向かうという。
――後になって考えてみると。同じ顔をした人間、二人ともが「レティシア」という名前だったのは、偶然ではなく必然だったのだけれど。

「そちらの軍人さんもついてくるのね? レティシア様、これはどういうことか、後でご説明を願います」
「私はレティだけど、確かにレティシアって名前だけど、あなたの言うレティシア様とは別人よ」
説明しているのに、わけがわからないという顔をされる。
レティはコレットのことが心配で仕方なかった。早く用を済ませて戻りたいと思う。
誤解からとはいえ、アザカというこの魔術師はレティたちを王様のいる本塔に案内してくれるのだ。
ありがたい偶然だと、心の中でレティは感謝する。
渡り廊下を歩くアザカの背すじはしゃんと伸びていた。
アザカの後ろにレティ、アールと続く。ジョニィは先ほど、警護団とやらを呼びに走っていった。
赤い絨毯の上を歩いていると、方々からの視線が集まる。
見上げたところにあるシャンデリアはまぶしく、城内はただ広かった。
城壁の中にはいくつかの建物があり、その上に王族の住まう塔が突き出ている。
白い建造物たちは深い歴史を纏い、重厚な雰囲気を醸し出していた。
幼い頃に本で読んだことがある。我らが央の小国の城は質素な造りだ、と。
北の帝国や南の大国、そして西の軍国の首都にある城の豪奢さは、この城の比ではないらしい。
(この城で充分大きいと思うけれど……王族はみんな豪華なのが好きなのね)
レティは森の中の研究所で生まれ育ったから、こんなに広い建物を見るのは初めてだった。
きらびやかなライトに照らされた意味のない空間。実験室として使うには落ち着かないだろう。
祖父――オディロンほどではないが、レティも薄暗くて狭い場所が好きだった。
物心ついた頃からずっと学者として研究しているからかもしれない。
壁が遠くにある広い場所では、どうにも心が落ち着かなかった。
やがてアザカは一つの部屋の前で立ち止まる。扉を見上げてレティはため息をついた。
形は確かに扉なのだが……あまりに巨大すぎて人が出入りするための扉には到底見えない。
遥か昔に絶滅したといわれる巨人がいたなら、ミリアの街にある民家を出し入れできるだろう。
「なにこの部屋」
「王の間です」
では、この扉の先に我が小国の王様がいるのだろう。
もう引き返せないところまで来てしまったことをひしひしと実感した。
扉の脇に立っていた偉そうな兵士二人が、レティたちの方を静かに見ている。
アザカは顎を引いて、よく響く厳かな声で兵士に告げた。
「王室専属魔術師、アザカにございます。小国第一王女、レティシア様をお連れして参りました」
「ご苦労」
兵士二人はアザカたちに敬礼して、巨大な扉を押し開けてくれる。
レティは肘でアールをつついた。
「どうされましたか?」
「愚問ね。私が何を言いたいか、分かるくせに」
小声で返せば、アールは穏やかに微笑む。肯定、ということだろう。
「また、偉い方と人間違いされたものですね」
「まったくだわ。そんなに似てるのかしら」
レティは首を傾げた。
驚いたことに、どうやらアザカはレティをこの国の王女と間違えているらしい。
――小国第一王女、レティシア。
容姿端麗だと噂の王女様に間違われて、レティも悪い気はしなかった。
むしろこれはチャンスだ。アザカや兵士たちはレティのことを王女だと思っている。
だからこそこうして楽に王の間の前まで来られたのだ。
なんでもいいから国王様と話す機会が欲しかったレティにとって、これは神からのギフトかもしれない。
扉の中に足を踏み入れれば、荘厳な空気に圧倒された。
本の中でしか見たことのなかった照明器具……シャンデリアに、小国の各地から集められたのであろう装飾品の数々。
王の間に入った瞬間から、珍しいそれらの品々に観察されている気がした。
「国王様、王女をお連れして参りました」
アザカはかしこまった様子で奥の間へ向けて最敬礼する。
部屋の奥には劇場の幕みたいなカーテンが吊されていて、その影に大きなベッドがあった。
「ありがとう。ちょうど話があったんだ」
ベッドの上で上半身だけ起こして微笑む人の名は、ディー。この国の王、その人だ。思っていたよりもずっと年老いていて、シワだらけの顔にも力はない。初めて見る顔なのに、なぜだか深い哀愁を感じた。
「案外、年老りね。私と同い年の王女の父親にしては」
「しっ、レティ様、お静かに」
レティとアールの会話が聞こえたらしく、ディーは瞳を驚きで満たしている。
「――アザカ。下がりなさい」
「はい。失礼します」
バタン、と扉が閉じられてレティたちは王の間に取り残された。
ふう、とディーは息を吐く。綺麗な白髪に細く痩せた体。深いブルーの瞳には威厳という名の力がこもっている。
レティは姿勢を正してスカートの裾をつまみ、静かにお辞儀した。
「国王様、私のお話を最後まで聞いていただけますか? お話と……お願いがございます」
緊張気味に言えば、ディーはまぶしそうに瞳を細める。
「言ってみるがいい、レティシアよ」
そう呼ばれることに罪悪感を覚えて、レティはスカートの裾を握った。
「あの、国王様、実を言うと私はレティシア王女ではございません」
慣れない敬語を使い、正面からディーに訴えかける。
レティが王女ではないとバレたら兵がこの間になだれ込んでくるかもしれないと思うと、気が気ではなかった。
それでも、正体を偽ったままでは肝心の相談ができない。
「申し訳ありません! 騙すつもりはなかったのです。私の名前は」
「君の名前は、レティシア・ローラン。……そうだろう? 小さな天才生命創学者さん」
ディーはすべてを見透かすような瞳で、意地悪くくすりと笑った。
予想の範疇を遥かに越えた言葉に、レティは呆然とするしかない。
「君に会えて嬉しいよ。オディロン・ローランは元気かな?」
ディーは、やけに親しそうにオディロン所長の名を呼んだ。
「おじいさまと知り合いなの……ですの?」
「ああ。私とオディロンは、アカデミーの同級生だったんだ」
アカデミーって何? と問いかければ、アールが淀みなく答えてくれる。
「主に王族や貴族の子息が通う、この国唯一にして最大の学園です。治世を学ぶ最上級クラスの他に、騎士や神官など国の中枢を担う人材を輩出しています」
その通り、とディーは満足げに頷いた。そしてアールに寄ってこいと手招きする。
「君がアールだね。はじめまして。生きているうちにお目にかかれて光栄だよ」
「……こちらこそ」
アールはレティに視線で合図を送ってから、前へと歩み出た。
ディーは満足げな様子でアールの腕にそっと触れる。
「おじいさま、そんなすごい学園に通っていたのね」
オディロンの若い頃のことなど全く知らなかった。なにせ研究所には写真の一枚も飾られてはいない。
「ははは、彼の生まれは上流貴族なんだよ。ローラン家といえば、代々城の神官を勤める旧家だ」
「ええっ? おじいさまが? 嘘、そんなの一度も聞いたことない」
ディーの口から出た思いがけない事実に、レティはびっくりした。ディーはベッドの上に座ったまま、白い膝掛け毛布をそっと直す。
「ああ、オディロンは話したがらないだろうね。決められた道を歩くのを嫌っていて、だからこそ両親との折り合いがつかずに家を出たんだから。そういう頑固なところは昔から変わらないようだな」
ディーが語るオディロンは、レティの知っているオディロンとは別人みたいだった。
上流貴族。神官。アカデミー出身。華々しすぎる経歴は、あの薄暗い機密研究所の所長に似つかわしくない。それに神官の家に生まれたのに学者になるなんて、よほどの勇気がなくてはできないことだ。
けれど、国王と旧知の友であるというならオディロンの傍若無人な振る舞いにも納得がいく。
「国王様はおじいさまの昔のご友人なのね。だから私のことをご存知でしたの」
「そうなるかな。……ははは。実は先ほどリオネルの部下を通じてオディロンから連絡があったんだ。レティとアール君が来るかもしれないから後はよろしく頼むと」
それを聞いて、レティはショックを受けた。全力で抵抗したつもりだったけれど、実はオディロンの手のひらの上で踊らされていたにすぎないようだ。
それでも、レティの目の前には小国の最高権力者がいる。
やっとここまで来た。ここから先は、自分の力で運命を掴み取る。
「あの! 私、聞きました。北の帝国の皇子から我が国の王女様に婚姻話が来たそうですね。北の帝国……西の大国も恐れる魔術師の国から」
ディーの瞳がスッと細くなり、表情も険しいものとなった。
「ああ、それで?」
怒らせてしまうだろうか、と冷や汗をかきながらも続ける。
「私はここにいるアールのこと、かけがえのない家族だと思っています。そしてそれはおじいさまも同じなんです……」
言葉を区切れば、広い王の間は沈黙に沈んだ。もともと装飾品の他には王のベッドしかない部屋だ。天井が高いせいか、声はあまり響かない。
「何を言うかと思えば。レティ、心配せずともアール君は死なないだろう?」
「ええ、まあ、おじいさまの技術は信頼できますけれど、でも、万が一」
「違う。砕かれようが灰になろうが絶対に死なない。なぜなら、アール君は生きていないだろう」
ぴしゃり、とディーは強い調子で言い切った。忘れかけていたことを思い出させられて、レティは唇をぎゅっと噛みしめる。生きてないものは、死なない。なんて当たり前のことなんだろう。
王のそばに立っているアールが、澄んだ瞳をまっすぐに向けてきた。穏やかで、吸い込まれそうなほどに深い深い色――。レティと目が合っていることに気づくと、アールは静かに微笑んでくれる。
(生きてない……?)
当然のはずなのに、レティには納得できなかった。
こんなにも心を暖かくしてくれるアールが生きていないなら。機械以上に冷たい、研究所の大人たちはどうなのだろう? 本当に、生きているといえるのだろうか。
「君は幼いね。そしてとても純粋だ。機械に心はないんだよ。人間のために使ってやるのが一番だ。結果として壊れたとしても、それは機械の本望なんだよ」
優しくも厳しく諭されて、レティは目を逸らし床を睨みつけた。
「心があろうとなかろうと、私はただアールを失いたくないだけよ」
子どもみたいな駄々だと、レティ自身もわかっている。それでも、少しでも可能性があるならすがりつかずにはいられなかった。
目を逸らしたら負けだとばかりに、ディーの方をまっすぐ見据える。
「国王様は我がままだわ。私、知ってるもの。結局はゴタゴタ回りくどいことを言って、王女様を手放したくないだけなんでしょう! 自己中心的だわ、私と全くおんなじよ」
レティは堂々とした態度でディーを非難した。我がままだなんて、一介の学者が国王様に向かって言える言葉ではない。不敬罪で即座に牢獄送りでもおかしくなかったけれど、そんなことに構っていられなかった。
「私は学者として生まれて、今まで人生の大半を国のための研究に捧げてきたわ。だってそれが学者の義務で、それと引き換えに特権階級として存在しているんだもの」
普段なら止めに入るはずのアールが、今は沈黙を守っている。
レティは心に浮かんだ言葉を一生懸命につなぎ合わせていった。
「じゃあ王族の義務は? 特権階級の人々の頂点として扱われる代わりに、国を守る義務があるんじゃないの?」
ディーは深くため息をついて、つらそうに目を伏せる。
「国に生きる人たちの命を、生活を守れなくて、何のための王族なの!」
「お嬢様、お黙りください」
アールがようやく制止の声を上げて、足早に歩み寄ってきた。その表情が妙に険しいことに不安を感じながらも、レティはさらに言葉を次ぐ。
「それに、それにアールが殺す予定の大国の軍人にだって、家族がいるでしょう……っ!」
ディーはハッとしたように目を一瞬だけ見開いた。
王女を失いたくないディーとアールを失いたくないレティは、本質的には同じだ。けれど戦争になれば人が死ぬ。これだけは確かな事実として王の目の前にも横たわっているようだった。
つかの間訪れた沈黙を、甲高いベルの音色が切り裂いていく。ぐいっと手をひかれて、レティはつまづきかけた。
アールはレティを背中にかばうようにして扉へ向き直る。
「何よ……?」
警戒するようなアールの行動を不審に思って尋ねると、さらに不審な答えが返ってきた。
「硝煙の匂いがします」
「しょ……?」
硝煙というのは確か、この国では生産されていない兵器『銃』を撃った時に出るものだったはずだ。
南の軍国などでは大量生産されて主戦力になっているらしいが、この小国の中にいて入手することは難しい。
アールは匂い感知の能力にも優れているけれど、今回ばかりは疑いたくもなった。
ここは王都の城、しかも王がいる場所。国中で一番平和な、もしくは平和でなくてはならない場所だ。
やがて巨大な扉が、壁が割れたのかと思うくらい大げさに開く。
きらびやかな光を背中に受けて跪くのは、若作りな女性魔術師だった。
この小国では珍しい赤味がかった髪は、先ほどより幾分かボサボサしている。
幽霊でも見たかのように青白い顔をして、口元は困惑したように片側だけつり上がっていた。
「お、王室専属魔術師、アザカにございます。小国第一王女、レティシア様を……お連れして参りました……」
「ご苦労」
ディーと扉の入り口付近に跪いたアザカが、先ほどと一字一句変わらぬやりとりを交わす。違うのはアザカがどもっていることぐらいだった。
アザカの後ろから姿を現した一人の少女が、すっと王の間へ足を踏み入れる。
フリルのあしらわれた純白のドレスは、高級なレースを何十枚も重ねたような柔らかい質感の生地でできていた。
腰まであるロングヘアーが、緩やかな歩調に合わせて優雅になびく。
アクアマリンのように澄み切った瞳の上には長いまつげが影を落とし、少女の表情を切なげにみせていた。
まるで彫刻作品のように綺麗だと、個人の好みを越えて万人が認めるだろう。
少女が持つのは、人間にはありえない完璧なまでの美貌だった。
例えるならば、繊細なガラス細工。人に見られるために作られたかのような、完璧だけれど冷たくもある綺麗さ。どことなくアールと同質だと感じる。そして――。
蜂蜜色の長い髪。
初夏の空色の瞳。
(……なるほど、だから間違われたのね)
レティ自身も思わず納得してしまうくらい、恐らく王女様であろうと思われる少女はレティと瓜二つだった。
「レティシア、君が来るのを待っていたよ。そこにいる二人が誰か、君には分かるだろうか」
奥のベッドに座ったまま、ディーが低く穏やかな声で沈黙を破る。
「ええ、国王様。私にわからないはずなどございませんわ」
少女――レティシア王女は純粋無垢な微笑みを浮かべて頷いた。紅色の唇から紡ぎ出される声は、銀の鈴を振っているかのように澄んでいる。
「うむ、よろしい。さて――アザカ、下がりなさい」
ディーが威厳のある口調でアザカに命を下す。
「ちょ、ちょっとお待ちください……! 国王様、彼らは一体何者なんですか」
アザカは我に返った様子で声を上げた。王の間にそうやすやすと一般の人間が入ることを許したとあっては、王室専属魔術師の顔が立たないのだろう。
「私の旧知の友人だ、心配することはない。込み入った話をしたいのだ。下がりなさい」
「でも、その娘、レティシア王女と何の関係が」
アザカは困惑した様子でレティと王女を交互に見ていた。
「下がれと言っているだろう?」
ディーにため息混じりの声で言われて、アザカは渋々下がる。
バタンと扉が閉められて、王の間にいるのは四人だけになった。ディーとレティ 、アール、それからレティシア王女だ。
「国王様、彼女は……」
王女は何かを確認するような視線を部屋の奥に送り、ディーは首を横に振ってそれに答える。
「彼女はまだ何も知らないよ」
今のやりとりは何だったのだろうかと気になりながらも、レティはディーが再度口を開くのを待った。
「レティシア。君に話があるんだ。いつかきっとオディロンから聞かされるだろう話だが、私の口から言った方がいいのだと思う」
どちらのレティシアに向かって言っているのだろうか。
一瞬戸惑ったが、ディーは真っ直ぐにレティの方を見据えている。
「何でしょうか、国王様」
聞きたいことはたくさんあるが、あくまでも冷静に次の言葉を待った。
「君は、本当は、ローラン家の血を引く者ではないんだ」
ディーの口から紡がれた言葉はあまりにも唐突で、理解すらできない。
(どういうことっ?)
「七歳より前の記憶がないと聞いた。それより以前に君がいたのは研究所ではない。オディロンは君を預かっていただけで、……っ!」
ディーはいきなり苦しげにベッドの上で体を折った。ゲホゲホと血を吐くような勢いで咳き込み始める。
王女は無言でディーの元へと走り寄り、ベッドサイドにおかれた重たそうなベルを鳴らした。
ほぼ同時にバンと大きな音を立てて、扉から兵士やアザカたちが飛び込んでくる。
「心配……するな……いつもの発作じゃ。老い先短いものでな……すまないが……残る話は明日にしよう」
「国王様、しゃべらないでください」
王女がディーの背を優しく叩きながら静かにたしなめた。こういうことはいつもあるのだろうか。周りの人間は急ぎながらも落ち着いていた。
「すぐに医術士が参りますわ。王女様とご客人はこちらへ来てください」
アザカに先導されて、レティとアールそして王女は王の間の斜め向かいの部屋へ招き入れられた。
王の間に比べれば幾分小さいが、それでもミリアの町にある平均的な家一軒分よりは広い。
絨毯はやっぱりふかふかで、床で寝てしまっても体が痛くならないだろうと思った。
「私は客人と三人で話がしたいわ。アザカ、国王様の体調が回復されたら教えてちょうだい」
「わかりました」
「ああ、それから彼らは今日から城に泊まるわ、部屋を用意するよう伝えておきなさい。国賓ですから、丁重なおもてなしを」
王女は優雅に微笑んでアザカへと命令する。まだ若いのに、その声は凛として威厳に満ちていた。
しかし扉が閉められて部屋の中にいるのが三人だけになると、王女は子どもっぽい笑みを浮かべて嬉しげにレティへ歩み寄る。
「お会いしとうございましたわ。機械工学の神童で天才生命創学者の、レティシア・ローラン様。それから機械人形『アームドール』一号様」
「アールよ」
「アール様、ですか。素敵な名前だわ。それにレティ様は、国王陛下からーーおじいさまから聞いて想像していたのより、ずっと可愛らしい」
王女は小鳥のように少し首を傾げて、絵画みたいに美しく微笑した。
「ありがとう。でも様はつけなくていいわ。私にもアールにもね。それとあなたのこと、なんて呼べばいい?」
レティシアが二人いるのは紛らわしすぎる。レティの言葉に王女はしばし黙考した。
「そうですね。レティシアという名からあなたの愛称のレティを除いて、シアなんていかがかしら?」
これ以上わかりやすい呼び名はないだろうけれど、随分と適当だ。
「わかったわ。じゃあ、シア王女って呼ばさせてもらうわね」
「ええ、レティ様」
「だから様はつけないの!」
自分にそっくりなシア王女と話していると、鏡の中の像が動いているような錯覚に襲われる。
「ディー様は私の祖父にあたるお方で、六年くらい前から体調が芳しくないそうなの……」
シア王女はディーが話途中で倒れてしまったことに対して、申し訳ないと謝罪してくれた。
「ご病気?」
「いいえ。健康なはずですけれど、でも年齢が年齢だから」
祖父の体調を憂いてか、シア王女は表情を曇らせる。
背の高い窓ごしに差し込む光が、長い蜂蜜色の髪を金であるかのように輝かせていた。
「あれ? 祖父って言ったわね。あなたのご両親は?」
美しい髪とは対照的に、シア王女の表情は暗くなっていく。
「亡くなりましたわ、数年前に。殺されたのです」
思いもよらぬ事実に、レティは慌てふためいた。
「……ご、ごめんなさい! わ、私、何も知らずに嫌なこと聞いて、その」
「世間知らずなんです。本当にすみません」
アールも一緒に頭を下げてくれる。そんな二人を見て、シア王女はクスッとおかしげに笑った。
「知らなくて当たり前ですわ、国家機密ですもの。ところで、数年前に飢饉があったことは覚えてらっしゃるかしら?」
初耳だった。肘でツンツンとつつけば、アールが速やかに説明してくれる。
「乾季に異常な雨が降ったのです。作物の収穫量は減少して、多くの国民が苦しみました」
そんなことレティは知らなかった。国民が飢えていても、研究所には食糧が変わらず供給される。だから知る由もなくて、嫌いな食べ物は残したりした。
今にして思えば、きっとそれは罪深いことだったのだろう。
「飢餓が国を覆う中で、ついに一つの集落が武器を手に蜂起しました」
シア王女の口調はまるで昔話の絵本を読み上げているかのように淡白だった。
「けれどももちろん国の軍隊が叩き潰しましたわ。嘆かわしいことです。天候など人間にはどうしようもない。不平を訴えても仕方ないのに」
シア王女の言うことはもっともだけれど、素直に賛同することはできない。
特権階級の人間は、これっぽっちも飢えていないのだ。
どう言い繕っても、それだけは代え難い事実として目の前に横たわっている。
「戦おうと王都に乗り込んできた若者だけでなく、集落で待っていた老人や子どもまで皆殺しになったそうですね」
ゼンが氷みたいに冷たく言い放った。その言葉の残虐さに、ゾッとした。
「ええ。ディー様の命令で、見せしめにね。その頃からかしら? 徐々に憤りの声が形となって現れて……そして軍の将校数名が組んで、ついに反乱が起きたのです。私とディー様は幸いにして怪我だけで済んだのですが、私の両親は殺害されてしました。私が八歳の時でしたわ」
「……そう。偶然ね。私も、よ。私も八歳の時に事故で両親を亡くしたの」
奇妙な符号だった。レティの両親もレティがちょうど八歳の時に事故で逝去してしまったのだ。その事故を目撃してしまったショックで、レティには両親の記憶がほとんど残っていないが。
「あら。私たち、似た者同士ね。いいお友達になれそうだわ」
「うん。……実は私ね、あなたに言いたいことがあって来たの」
説教してやろうと息巻いて王都まで来たものの、シア王女の物腰は柔らかく、切り出すのがためらわれた。だが言わなくてはならない。
「レティシア王女。あなた、北の帝国との縁談、受ける気はないの?」
単刀直入に切り出した。
シア王女さえ北の帝国へ嫁げば、央の小国の滅亡は避けられるのだ。そしてーーアールも戦場へ行かずに済む。
「その話なら、答えはノーよ」
「どうして? 戦争になれば民が苦しむわ。あなたの仕事は国を守ることでしょう。その義務と引き換えに、美味しいご飯を食べて綺麗な服を着て贅沢な家に住んでられるのでしょう?王族って、そういうものだと思うわ」
シア王女は緩やかに首を振った。
「確かにそれは正論だわ。けれどあなたは、北の帝国がどういう国か知らないの?」
「この央の小国が『科学の国』なら、北の帝国は『魔法の国』でしょう」
北の帝国の人間はほぼ例外なく魔法を使える。魔法には属性があり、使える魔法が生まれつきある程度決まっている。光属性の帝王を頂点に、七つの属性民族が集まった巨大魔法連邦国家。それが北の帝国だ。
「そうよ。央の小国で魔法が使えるのは王族だけでしょう。央の小国の王族の祖先はもともと北の帝国から来たと言われているの。だから百歩譲って央の小国の王族の血が絶えて属国になるのはいいとするわ。北の帝国を祖にもつ者が戻るだけだもの。でもその先。何が起こるかわかる?魔法が使えない、属国の劣等人間。私たちの民は、そういう扱いを受けることになる」
「……」
そこまで考えたことがなかった。唯一無二の王女を貢ぎ物同然に差し出して、北の帝国の属国になる。それはつまり、この央の小国が死ぬということだ。国民は死なずとも、国は死ぬ。そして待ち受けるのは、誇りをなくし蔑まれる過酷な日々だ。
「北の帝国には奴隷が比較的多いです。彼らの大半は魔力がありません。滅ぼされた国や、属国の貧困層の人間が」
「ごめん。やめて」
レティは歩く辞書のように解説してくれるアールを遮った。
コレットの顔が頭に浮かぶ。彼女は、自分は幸運だとことあるごとに言っていた。国を滅ぼされて、コレットの周りの者たちは、往々にして悲惨な運命をたどったという。
コレットにしてもそうだ。コレットは気立てがよく、抜けているところはあるが、基本的には頭もいい。生まれた場所や時代が少しでも違っていたなら、研究所でつまらない雑用をする以外の生き方をいくらでも選べたはずだ。
「けれど、仕方ないんじゃない? だって、放っておいたら東の軍国に攻め滅ぼされるんだし……」
戦って死ぬか、惨めに生きるか。
その二択を突きつけられて、レティの気持ちはだんだん落ち込んでいった。
「ええ。確かに北の帝国へ嫁ぐのは選択肢のひとつかもしれないわ。けれども私にはそれは選べない」
「なんで?」
「私は、子どもが生めない体だから」
「……」
重たい話だった。
「八歳の時の事故で、体を丸ごと取りかえるような手術を受けたわ。北の帝国は一夫一妻制でしょう? 私は帝王に嫁ぐ王妃としては初めから失格なの」
「そんな……」
なにも知らずに、いい加減なことを言ってしまった。レティは己の浅慮さに自己嫌悪する。
「でも、それでも北の帝国の属国へ下るのがいいというなら、それを選ぶことは可能よ」
「どうやって?」
「あなたと私、入れ替わってしまえばいいわ」
シア王女は優しく微笑んだ。
「レティシア・ローレル。私と同じ名前、同じ顔をしたあなた。私はあなたが私になりたいというなら、喜んで応じるわ」
レティは目を見開き、絶句した。
「勿論、すぐでなくてもいい。よく考えてちょうだい」
シア王女は、パーティーの支度があるからこれで失礼、と慇懃に礼をする。
「今日はとある貴族の誕生パーティーがあるの。もしよかったら出席なさって」
王女のスカートのすそが、空気を含んでふわりとふくれた。記事に縫い込まれた小さな宝石が、雨粒のようにシャンデリアの光を反射する。
「すぐにとは言いませんわ。パーティーが終わったら、こたえをおしえてください」
「……」
レティには、何も言えなかった。はい、と返すことさえ、恐ろしかった。
王女の優雅な後ろ姿が、ゆるゆると、閉まった扉に隠される。
「……私、傲慢で、とんでもなく、ばかだったわ。なにも知らずに、薄っぺらい偽善だけ振りかざして」
やっと口にできた言葉は、十一月のヒイラギのようにかすれていた。
「上に立つものには、果たすべき責任がある。だから、説得して目を覚まさせないと、なんて」
椅子から立ち上がり、窓際にたつ。
硝子に走る雨粒のあとを、レティは人差し指でそっとなぞった。