現代ファンタジー小説「始まる前の物語」

(C)ぱくたそ

「かわいい? その子」
「ん?」
不意にかけられた思いがけぬ言葉に、水瀬 陸也は本から顔を上げた。
土曜日の午前中。これから始まる休日をどう過ごそうかと胸が踊る時間帯だ。
しかし陸也は、長老から留守番を任されてしまった。狭い小屋から出られない退屈さに三度目のため息をついたとき――。
いつの間にかそばにいた桜ノ宮 東が、何の前触れもなく話しかけてきたのだった。
「陸也にぃが今ストーカーしてる子。かわいい?」
陸也が宿題を広げているテーブルの向こうから、さして興味なさげに話題が振られた。
「ストーカーって……人聞き悪い言い方するなよな、仕事なんだから。ところでそれ、何の魔導書だ?」
「氷属性の禁忌術。……聞いているのはこっちだけど」
声の主――東はソファーに深く腰掛けたまま、手に持った書物から視線をあげすらしない。陸也との会話は暇つぶしで、もっぱら読書を楽しんでいるようだった。
「うーん、かわいい……かな? 遠目でしか見たことないからわからねえ」
陸也も再びペンを持って教科書を読み返し始める。
吐く息は白く、痛いくらいの冷気が辺りを包んでいた。丸太だけで組まれたこの原始的な小屋に、暖房設備などあるはずもない。この山奥の隠れ里には、電気も水道も通っていないのだ。
ひんやりと漂う寒さが、手の動きをゆっくりとしたものにする。窓の外は白いから、雪が積もっているのかもしれなかった。
「しかしまあ、季節感ないよなー」
陸也の不満まじりのつぶやきに対して、東はこともなげに言う。
「父や母や妹や弟や妹や弟がうるさくて、読書に集中できなかったから」
「だから凍らせた?」
「……この本に載ってる術を試してみたくなった」
いつものことながら、陸也は呆れて溜め息をついた。
「んで? 家まで凍らせてしまって、ここに避難してきたわけだ」
「――ここなら落ち着いた読書時間が確保されると思って」
東は仏張面のまま、悪びれる様子もなく言う。
念のためにカレンダーへと目をやるが、間違っても今日は冬じゃない。
――七月の第二週目。
夏休みも目前に迫り、セミたちが騒ぎ出す季節だ。そんな時期に雪が降っているのだから、異常気象としか言いようがない。常識を持った人間がこの部屋の光景を見れば、半年近くカレンダーをめくっていないのだと思ってしまうだろう。
――月見里。
超能力者の隠れ里であるここは、異常な現象の宝庫だ。空からピザまんが降ろうが地面が割れて巨大な宇宙船が現れようが、今さら誰も驚かない。数々の異常もさることながら、何よりも異常に慣れきった自分たちが一番異常なのではないか、と陸也は思っているのだった。
暗殺など、面沙汰にはできない仕事を生業に月見里の人々は生きている。珍しくも長老直々の依頼が陸也の元に舞い込んだのは、確かちょうど一週間前のことだった。
平凡な女子中学生に過ぎない一人の少女の、見張りと護衛。それはこの里で鍛錬を積んできた陸也にとって、あまりにも退屈な任務だった。
登下校の時の尾行と護衛。そして家の監視と長老への報告。高校での学業の合間に仕事をこなすのはいつものことだから苦にもならない。逆に緊張感がなさすぎて拍子抜けしてしまうくらいだ。なにせターゲットは一般人で、ごく普通の中学生だ。敵対する組織と出くわしたときの壮絶な闘いもなければ、長老に課せられた時間制限によるドキドキ感もない。
「何であんな子をわざわざマークしてるんだろな。長老は……」
陸也のつぶやきに、東が珍しく本から視線をあげた。
「朝菜だからじゃ?」
「え? その名前……どこで聞いたんだよ」
東が口にしたターゲットの名を聞き、陸也は目を丸くする。
月見里での任務には、秘密を守る義務があるのだ。里の仲間にだって、自分の仕事内容をみだりに話すことは許されない。共同で任務を受けでもさえしない限り、絶対だ。だから陸也はその名を一度も口にしたことがないはずだった。
「陸也にぃが見張っているのは、長老の孫らしい。父さんたちが噂しているのを聞いた」
「あー。なるほどな」
東の説明に、陸也は大きく頷いた。
最高級の能力を有して里を束ねる長老さま――その孫なら、『普通』ではないわけだ。平凡な少女が監視の対象になった理由が、ようやくわかった気がした。
「しかしやっと見つかったんだな。んー、まさかこんな近い街に住んでたなんて……灯台下暗しだな」
「だね。夕菜さんたちが里を出たの、何年前だったっけ? よく今日まで逃げたものだよ」
東が大きく息を吐いて感心する。
夕菜、とは長老の娘の名だ。
何があったのか知らないが、数年前に長老と意見の食い違いがあったらしい。激しい口論の結果、夕菜とその夫は幼い娘を連れて里を出た。
「でも夕菜さん、実の親だとはいえ長老に喧嘩を売るなんていい根性してるよな」
「あの親にしてあの子あり、ってことだな」
陸也たちにとっては考えただけでも恐ろしい。長老は、月見里の人間にとって神のような存在なのだ。
「一大事だったよね。夕菜さんの娘だけでも連れ戻せ、大事な大事な後継者だって騒いでたっけ」
東から気楽に言われて、陸也は当時のことを思い出す。
「ああ……全国を探し回るのは大変だったぜ。東たちは小さかったから何もしてないけどなー」
あの時は里の内外問わず全ての能力者へと、直ちに長老から命令が下された。しかし、瞬間移動や占いなどの超能力をもってしても夕菜一家は見つからない。そうしてそろそろ諦めかけてきた頃になって、やっと一家のしっぽがつかめたのだ。なんとも大胆なことに、彼らは月見里の麓にある町に住んでいた。
「じゃあ、オレが護衛してる月見里 朝菜って、夕菜さんの娘なんだな?」
陸也は思わず東に確認する。
夕菜さんには幼いころに何度となく遊んでもらった。そう言われて思い返せば、ターゲットの母親に見覚えがある気がする。
「だね。……ここだけの話、夕菜さんが逃げ出したのは娘を月見里に置いておきたくなかったかららしいよ。まあ、親としては当然の判断だね」
声を潜めた東の言葉に、陸也は心の底から共感した。月見里の裏事情を痛いほど知っている陸也だからこそ言える。長老を敵に回してでも娘を月見里から引き離した夕菜さんたちは――。
「いい両親だな。本当に」
長老の後継者。長老が――歴代の里長がしてきたことを思えば、娘をその立場に置きたくないのは当たり前だ。
「でも、かわいそうにね……」
「ああ。こうして見つかったからには、ただじゃすまないだろうな」
陸也は微笑みかけていた表情を険しくする。忘れてはならない――自分は彼らの敵だ。
まだ長老からの表立った動きはない。しかし無理やり彼らを連れてこいと命令されれば、陸也はそれに従うだろう。
気が滅入るだなんて言ってられない。場合によっては、彼らと戦わなくてはならないかもしれないのだ。陸也が長老に逆らえば、人質の――藤沢 奏の命は、ないも同じなのだから。
『陸也と智もね、私の大事な家族なの。だからお母さんがいなくても淋しくなんてないよ』
そう言って優しく微笑んだ少女は、数年前に姿を消してしまった。
大事な――本当に大切な、幼なじみ。彼女のことを想うからこそ、陸也は里から逃れられないのだった。
「……陸也にぃ大丈夫? さっきからなんか元気ないけど」
「そりゃな。これだけ寒くされたらな。元気なくすぜ」
心配げに尋ねてきた東に皮肉を返すと、陸也は笑った。
「心配すんな。オレは大丈夫だから」
「そう? 出て行ってほしいなら出ていくよ。陸也にぃの勉強、邪魔したくないし」
「いや、構わねえ」
せっかく久しぶりに東と言葉を交わす機会を持てたのだ。東の気遣いを、陸也は即座に却下する。
一人っ子として育った陸也にとって、東は歳の近い弟のような存在だった。目鼻立ちは通っているが、少し険のある顔。大人びて落ち着いている分冷たいと言われがちな東だが、実は幼い性格だと陸也はよく知っている。――そして、東が妹や弟のために無理に背伸びして大人ぶっているのだとも。
「しかしこの高度な術……やっぱり東は潜在能力が高いな」
向き直って言えば、東は少し困惑しているようだった。
「誉めても金は出ないよ」
「ヤな奴だなー。素直に喜べよ」
東がすねたように顔を伏せたのを見て、陸也はふっと寂しく笑む。
「……お前はオレみたいになるなよ?」
消えいきそうな言葉に、東は瞳を大きく見開いた。
「陸也にぃ……」
大事な弟に、陸也は忠告を続ける。
「東は、オレみたいな操り人形にだけはなるなよ」
操り人形。その表現は今の陸也に悲しいくらいぴったりだった。
「オレさ、自分のことがたまにどうしようもなく嫌になるんだよ。長老の言いなり、月見里の言いなり。どんなに嫌なことでも、どんなに人から憎まれても、任務をやり遂げないといけない」
陸也は自嘲するかのように笑みを浮かべた。
人でなし、と面と向かって罵られたこともある。それでも心を殺し、ただ仕事だけを機械のようにこなし続けてきた。
長老にとってはさぞかし操りやすい人形だっただろう。
「でもそれは長老に脅されて仕方なくで……陸也にぃは何も悪くない……」
「悪いぜ。たまに思うから。逃げ出したい、って」
陸也は自分の罪状をハッキリと言い切った。
「長老からも里からも逃げ出したい。そう思う。奏なんて放っておいて……見捨てて、見殺しにして。自分だけ逃げ出したい、って。――最悪だろ?」
東は黙ったまま、唇をきつくかみしめている。
「オレは本当に最悪だよ。だから東はオレみたいになるな。絶対に」
沈黙の後で、東が静かに口を開いた。何を言えばいいか戸惑って、それでも何かを言わなくてはと思ったらしい。
「……奏さんは、やっぱり隔離部屋に幽閉されているんだ」
それを確認するのをわずかに戸惑う東へと、陸也はあっさり言い切った。
「ああ。そうだろうな。藤沢 奏は、隔離部屋に幽閉されている」
陸也は反論の余地を与えないような言い方で告げた。
――そうでなくては困るのだ。
奏が里から姿を消されるきっかけとなった事故について、陸也はほとんど知らない。だから奏が生きているかどうかも、本当は知らされていなかった。
――もしかしたら奏はすでに。
そんな疑念には耳を貸さない。奏が生きていると、信じ続けることに決めたのだ。
長老ならきっとやるだろう。すでに死んでいる人物――殺した人間を、生きていると偽って人質にするくらいのこと、簡単に。
「隔離部屋……忍び込んで奏さんを救出することは無理?」
東の無邪気にすら思える言葉に、陸也は苦笑した。
「ばーか。それができりゃあ苦労しねえよ。長老に喧嘩売る気か? だいたい、失敗したら奏に被害が及ぶだろ」
そんなの、本当は建て前だった。
――怖いんだ。
人一人を幽閉するのには手間がかかるけれど、殺してしまえば埋めるだけでいい。それが怖かった。
隔離部屋に奏を救出しに行って。もしかしたらありえるかもしれない現実を見ることが、たまらなく怖い。
結局のところ……奏の生死を確かめるだけの勇気が、陸也にはなかったのだ。
「一応言っとくと、俺も南も央も陸也の味方だから。……無力だけど」
「ん。サンキューな」
東に笑いかけると、陸也はおもむろに立ち上がった。伸びをして、つんと冷えた空気を肺一杯に満たす。
「陸也にぃ?」
東は案の定、不思議そうにこちらを見てきた。
「オレはちょっと散歩に行ってくる。東、氷づけにした妹や弟はちゃんと治しとけよ」
「了解。まあ南がいるから大丈夫だろうけど」
東の妹――南は、兄と相反する炎系の能力を持っている。まあ血がつながっていないのだから、能力が違っていても不思議はないが。
「――って陸也にぃ、留守番はいいんだ?」
陸也が部屋を出ようとしたら、東が慌てて聞いてくる。それを聞いて陸也はピンときた。
素直じゃない感謝の印に、東の頭をわしわしとなでる。
「ありがとな」
「――何に対しての礼? 陸也にぃ意味わからない」
留守番のことなど、東に言ってないのだ。きっとどこかで聞きつけて、陸也が退屈しているだろうと来てくれたのだろう。
「『家族ごっこ』も疲れるだろ。大変だな、お互いに」
「陸也にぃ、それ禁句……」
東の家――桜ノ宮家は能力者の子どもを収容する施設だ。ほとんどの子どもは無理やり親から引き離されて里に来る。その事実を覆い隠すために、彼らは家族を装っていた。
――東、南、央、西、北。
子どもたちにつけられたわざとらしい名前は、兄弟だという主張だ。
赤の他人と『家族ごっこ』をしながら生活するというのも、なかなかに神経を減らすものに違いなかった。
「はは。何を今更。里で桜ノ宮の『家族ごっこ』を知らない人はいないぜ」
陸也が言えば、東は書物を静かに閉じた。辞書みたいな分厚さの本で、青い表紙に金縁の文字が刻んである。
「知っていても口に出しちゃならないんだよ」
「……そりゃそうだな」
あははと気軽に笑うと、陸也は瞬間移動した。どうせすぐに会うだろうから、別れの挨拶なんていらない。
――ターゲットの家のすぐそば。
普段なら里の外への『移動』には慎重になるが、この辺りは閑静な住宅街だ。休日の午前中ともなれば人通りは極端に少ないから、一般人に瞬間移動を見られる心配はまずないだろう。陸也はいつものように、さりげなく彼らの家を見上げた。住宅と一体化した、何かの事務所みたいな建物。朝菜が学校にいる間、両親はめったに外に出ない。陸也も学校があるからいつも張り付いているわけではないが、一度も彼らと出くわさなかったのは奇妙だ。
「家にこもって……一体どんな仕事しているんだか」
陸也が一人ごちた時、ふと窓際に人影が現れた。
「やべ……」
口の中でつぶやきはするが、見られてはならないから瞬間移動で逃げることもできない。かといって今更歩きだすのもわざとらしい。立ちすくんだまま、陸也は窓を見上げ続けた。
「……あ」
声にならない声が漏れる。窓の向こう側に姿を現した女性と、目が合ったのだ。彼女はまるで人がそこにいるのをあらかじめ知っていたかのようだった。驚きも懐かしさも怒りもない瞳が、陸也をただじっと見下ろす。陸也はその瞬間、言い知れない寂しさを感じていた。母親そのもののようだった彼女の笑顔が、今は遠い。陸也と彼らの間には、数年の時の流れが確かに横たわっていた。
「夕菜さん、お久しぶり、です……」
陸也のつぶやきを断ち切るかのように、素早くカーテンが締め切られた。陸也はふっと息を吐いて、自然体のままで瞳を閉じる。
「……『移動』」
頭の中に風の紋章を描くと、即座に体が浮くのを感じた。次に瞳をあけた時、陸也の視界にあるのはいつもの部屋だった。
「――留守番を命じたはずじゃが」
東の姿はそこになく、変わりに陸也を待っていたのは長老の厳しい言葉だった。
「まったく、ワシに対するささやかな反抗のつもりかの?」
「……」
実に当たっているから、言い訳できない。
「長老、いつ帰ってたんだ」
「たった今じゃ」
――胡散臭え。
東との会話を初めからずっと聞かれていたような気がしてならない。陸也は居心地の悪さを痛いくらいに感じた。
「オレ、街に買い物行ってくる。何か必要なものある?」
長老に問いかければ、一番イヤな答えが返ってきた。
「急がぬじゃろ? 少し座れ。頼みごとがある」
「……はあ」
露骨なため息を吐くが、長老は気にせず続ける。
「――新しい任務じゃ。月見里 朝菜を里に連れて来い」
陸也は思わず姿勢を正した。ついにそのときがやって来たのだ。長老は重々しい口調で続けた。
「対象には一切怪我をさせぬようにな。一緒にいるところは誰にも見られぬようにすること。説得してできるだけ穏便に連れてこい」
「説得? 周りに見られるな、って……ターゲットが一人になるのを待てと?」
「そうなるな」
長老が二言なく頷く。陸也は任務の条件を頭の中で整理した。これは難航しそうな任務だ。普段の長老なら『多少手荒になっても構わん。殺さない程度にな』くらいのことは言う。それが『無傷で』とは。長老もやはり孫を想うおじいちゃんなのだ。そう言えば、さすがの長老も愛娘の夕菜さんに対しては甘々だった。
「しかも説得……って。眠らせる術をかけて瞬間移動じゃダメなのかよ?」
「ダメじゃ。そんな手荒な真似はしたくない」
――長老の口からそんな言葉が飛び出すとは。
陸也は条件の緩和を諦めて、素直に作戦を練り始める。
「説得ねえ……下手なことをして、きゃー誘拐されるーとか悲鳴あげられたらどうするんだよ」
「そうならないようにするのが任務じゃ。まあ歳の近いお前なら多少警戒は薄れるだろうて」
作戦が思いつかなくて、陸也は頭を抱えこんだ。
「説得……まあなるようになるよな……」
悩んでも仕方ないから立ち上がった。
「とりあえず……昼ご飯を作んないとな」
「チャーハン希望じゃ」
「今から? ……はいはい、わかりましたわかりました」
長老のかわいいわがままを聞いてやる。
「そろそろ、動き出す頃かの……」
背中越しに聞いた一人ごとの意味は、今の陸也には判らなかった。

翌日、授業が終わると陸也は荷物をまとめてトイレに駆け込んだ。念には念を入れて個室の鍵をかけると、いつものように風の紋章を思い描く。
『瞬間移動!』
小さくつぶやいて瞳を閉じれば、体がふわりと浮くような錯覚に襲われた。突風が止んで目を開ければ、そこには閑静な住宅街がある。周囲を見回して誰もいないことを確認すると、陸也は安堵のため息を吐いた。
能力を使うのを一般人に見られるのは重罪だ。しかし一々移動先の状況を確認するのも面倒で、陸也はいつも危ない橋を渡っている。
「こんなことしてたらいつか長老に叱られるよな……まあ構わないけど」
ターゲットの家の前を歩きながら、それとなく様子を観察した。現時刻から察するに、ターゲットはどうやらまだ帰っていないらしい。学校にいる間は安全だろうということで、見張る義務はないのだ。
暇だな、と独り言をこぼした時、陸也はターゲットの家の扉が開くのを目にした。
「やべやべ……」
つい昨日、姿を見られるという失態をおかしたばかりである。陸也はとっさに瞬間移動した。隣家の庭にワープして、植え込みの隙間からこっそりと様子をうかがう。青々と茂った葉のおかげで、あちらに気づかれることはないだろう。しかし、こちらの家側から見れば明らかに丸見え。不審者だ。
オレは一体何やってるんだろうな、と苦笑いした。その数瞬後、陸也は予期しない事態に表情を凍りつかせる。
ターゲットの家から、よく見知った能力者が出てきたのだ。
細長い印象を与える身体に、大人しそうな顔つき。短い髪は、少し抜けた性格を表すかのように柔らかく跳ねている。
陸也は思わず何かを言おうとしたが、口から出たのは空気だけだった。
彼――陸也の幼なじみでもある都築 智は、辺りを用心深く見回す。そして、陸也が隠れている垣根の辺りに視線を固定させた。陸也はギクッとしながらも息を潜めるが、無駄だった。
「いるんだね。水瀬 陸也くん」
「――相変わらず鋭いな、智!」
名前まで当てる鋭さから、人間違いではなく本人だと確信する。そしてそこにいるのが智本人なら、隠れても無駄だ。陸也は観念して立ち上がると、智の前に『移動』しようとした。
使おうとした能力は、透明な意志に阻まれる。陸也は仕方なく、普通に歩いて道路に立った。
「里の外で能力使うなよな」
「それはこっちのセリフ。――陸也君は本当、最後に会った時から変わらないねー」
陸也の苦情に、智は大人びた口調で応じる。
――最後に。
智がさりげなく口にしたその単語が、陸也の胸に爪を立てて引っかかった。
「まあ、たった数ヶ月ぶりだからな、智が里をふらりと抜け出してから。――そう言う智は何か変わったのかよ」
「……僕?」
「変わんねーよな」
「僕……僕は変わったよ?」
穏やかだった智の表情から、笑みがフッと消えた。
「僕はもう以前の僕じゃない。陸也君とは違って、もう長老になんか縛りつけられないよ」
不意に、目をあけていられないほどの突風が巻き起こる。草木は嵐の予感にざわめき、アスファルトの上の小石が転がった。
「何言って。おい、これって……智!」
その風の正体に気づいた陸也は慌てて声をあげるが、もう間に合わない。
『――発動!』
片手に持った宝珠を目の前に掲げて、智は鋭く言い放った。短い詠唱と共に、手の上の宝珠から紅の光が溢れ出した。月見里家をピタリと囲むようにして、炎の紋章が描かれる。普通では有り得ないくらいの大きさを持つそれは、目標を定めると牙をむき出した。智が握りしめた指の間からは、宝珠につながれた細い鎖がこぼれ落ちている。
彼のものではない能力――宝珠に込められた炎が、歓喜の雄叫びを上げた。紋章が立体化したかのような炎の壁が、月見里家を囲んで燃え上がる。
陸也は困惑や焦りよりも先に、怒りと驚きを感じた。
「これはどういうことなんだよ」
「陸也くんは知らなくていいよ。わからなくていいよ」
「オレはわかりたい。お前一体どうしたんだよ……?」
陸也は相手の目をまっすぐに見据えて問いかける。真剣な表情に気圧されて、智は一瞬だけ瞳を伏せた。
「――僕は普通だよ? ただ昔とは変わっただけ。それだけだよ」
燃え盛る炎は、形を変えずに揺らいでいた。極めて高レベルな炎の術を、智が結界で制御している。陸也にはこの炎の能力の持ち主に覚えがあった。
――獣のような牙をむく、どう猛な破壊の化身。
陸也が妹のように思っている月見里の少女、桜ノ宮 南も同じような炎を使える。けれど彼女の炎は力強くも優しい。今目の前で燃え盛る凶悪な炎とは全然違った。大嫌いな炎能力者のアイツがいるとすれば、これはまずい。
陸也は地面にしゃがむと、低い位置でなめらかに指を踊らせた。
『我が名の元に、力を解き放て。――水飛沫……』
しかし指先から放たれた水色の光は、紋章を形作る前に途切れてしまう。まるで手のひらで湖の水をすくおうとしているみたいだ。
「結界解除してくれ、水を浴びせるから。中に人がいるんだよ!」
「いるねー。知ってる。長老の娘夫婦にー、僕の相棒も。でも結界は解除しないよ? 仕事だから」
「仕事って……暗殺かよ」
陸也は慌てて家の中に瞬間移動しようとした。しかし能力行使はすべて結界に阻まれてしまう。
「任務内容が暗殺か生け捕りかは知らないよー。今度ロゼットに聞いてみたら? 今、中にいるんだから」
智の呑気な言葉は、にわかに信じがたいものだった。
「嘘だろ。アイツがいるのかよ。智、お前まさか」
陸也は目を見開き口をおさえる。思わず数歩後ずさりした。信じたくないし、信じられない。そんな現実を目の前に突きつけられた気がした。
「あはは――しゃべりすぎたね……。でもまあ、これだけは」
智がきびすを返し、月見里家の玄関の扉を開ける。不思議なことに、燃え盛る炎は智の前にだけ道を空けた。
「――僕はさ、やっぱり長老を許せないんだよ」
きっぱりと言い切った智の表情は、どことなく険しい。
優柔不断な智は、きっと長い間迷ってきたのだ。おそらく、両親が長老に見殺されたときから、ずっと。
思いつめて思いつめて、今この場所に至った。
結界を使う智を前にして、もう陸也にはできることがない。
智の背中を飲み込むようにして、静かに炎の壁が修復された。兄弟よりも家族よりも強く分かり合えていたはずの智が、今は全然見えない。
「ちきしょー……」
陸也は悪態をつくと立ち上がった。燃えているのは家の周囲だけだが、結界のせいで中に入れない。
陸也は水や風と相性のいい能力を持っていた。魔導書で学んだ術を持ってすれば、炎をかきわけることくらい簡単だ。
しかしそれも家を囲む結界がなかったらの話。智が敵になれば、陸也は無能力者も同じだった。
耳に痛い不意打ちの悲鳴が、辺りの閑寂を引き裂く。陸也が反射的に振り返ると、道の向こうに一人の中年女性がいた。幸いなことに、陸也の姿は見えていないみたいだ。彼女はヒステリックに騒ぎながら、曲がり角の向こうへと引き返していく。
陸也は素早く自分の部屋に『移動』した。下手に姿を見られたら、放火犯だなんてことになりかねない。
「陸也にぃお帰りーっ」
「あれ、一人?」
自分の部屋に瞬間移動した陸也を待ち受けていたのは、好奇心に目を輝かせた南と央だった。陸也が一人だと知ると、急に元気がなくなる。
「連れてくるんじゃなかったの? 長老の孫」
「どんな子なのか早く見てみたかったのに」
東といい、桜ノ宮の子どもたちは長老の孫が気になって仕方ないらしい。
「驚くくらい普通の子だぜ……」
陸也はドサリとベッドに倒れ込んだ。
「疲れてる? 大丈夫?」
「そんなに大変だったの?」
心配そうな南と央に、大丈夫だという意味を込めて小さくうなずく。疲れたのは、身体よりもむしろ心だった。
窓から入ってくる夏の陽光で、部屋の一部分だけがきつく照らし出されている。充満したセミの声が、うるさくて暑苦しい。
『扇風機スイッチオン』
能力を使って部屋に風の流れを発生させた。両目を片腕で覆うようにして目を閉じる。
「どんな人間か判断するために、またお前らは冷たくするんだろうけど……ぬくぬくと育った普通の子だからな。泣くかも」
陸也はポツリとつぶやいた。あの子は今、泣いているだろうか?
「ははっ。なら付き合っていけないよな」
「そうね。最初のいじめでダウンするような弱い人間、この月見里にはいらないもの」
桜ノ宮の子どもたちは里に来た新入りを容赦なくいじめる。それは新入りがどんな人間かを確認し、仲間だと認めるかどうかを決める月見里流のテストなのだ。
「莫迦。お前らが仲間だと認めようが認めまいが、付き合っていかないとならないんだぜ」
相手は長老の孫。例え気に入らなくても、将来的には従わなくてはならない相手だ。
「そうなんだよな……バックには長老がいるんだし、最初から媚びといた方がいいかな」
「央の弱虫。私は嫌だからね、媚びるなんて」
南と央の言い合いを聞きながら、陸也はぼんやりと考えた。
――里長が変われば、月見里も変わるだろうか?
朝菜という新しい里長が、優しい人間なら。長老のやり方に反発できる強さを持っていれば。
月見里は変われるかもしれない。もう誰も……両親を見殺しにされた智と杳みたいに、つらい思いをしなくて済むかもしれない。
奏に少し似た雰囲気を持つ彼女の姿を、頭の中に思い浮かべた。
暖かい光の中で微笑んでいた幼くあどけない少女に、そこまで期待するのは酷かもしれないと思いながら。
それでも、期待を抱かずにはいられなかった。

今、黒ばかりを身にまとう一人の少年がイカダの上に立っていた。無感情な漆黒の瞳が、月見里を抱く緑の海を見下ろす。そよぐ風の向きが変わったのを感じて、彼は静かに瞳を閉じた。
誰かの希望を巻き込んで、運命の歯車は静かにまわり始める。
さあ――。
超能力者の隠れ里をめぐる物語を、始めよう。