短編小説「桜前線」

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彼女はゆく。春のおとずれを告げるために。




本編

――ざ、ざ、ざ、ざっ。
一歩。また一歩。
体に刻み込まれた心地よいリズムと共に、彼女はゆく。見渡せば、はるか遠くに白銀の地平線。ぽつりぽつりと立った民家は、雪の重みにじっと身をかがめ、眠ったように息を殺している。
足の裏に、大地が押し返してくる確かな感触。氷よりも冷たい、つんと張り詰めた空気が肺を満たし。彼女の吐く息は、生命の喜びに震える。
――ざ、ざ、ざ。
クリスマス・ツリーに飾られていた綿を季節外れだと引き裂いてしまったような、薄い雲。そして、うっすらと青に浸された、寒々しい空。露草で染めたような水色、とはよく言ったものだ。現代ならば、さしずめ、アリス・ブルーのアイシャドウ、とでも表現するのだろうか。
――ざ、ざっ。
河川敷のぬかるんだ道。枯れていた雑草の林が、生きた色を取り戻す。置き忘れられた雪の塊が、おっくうそうに水に流されていく。川底の砂利に移った小魚の影が、ぴんと弾かれたように動いた。
やがて彼女は山を越え、森を抜け、里山を通り過ぎていく。無機質なビルとビルの隙間。都会のデッドスペースに、忘れ去られた児童公園。ぽつりとたたずむ錆びたブランコ。約束もないのに誰かを待って、人に、時に、世間においていかれる寂しさを、無言で語りかけてくる。彼女が通りかかった時、ブランコは雪にのしかかられて、いちどきり、重たそうにキイときしんだ。やがて、ブランコの真下には、新しい季節の訪れを告げる黄色い花が、守られるようにしてひっそりと咲く。
――ざざ、ざ、ざっ。
彼女が踏んだ土からは若葉が芽生え。アスファルトの上に張り付いた氷が、肩から力を抜いたように、形をなくしていく。そしてできた水滴の湖は、夏のぎらつきとも冬の冷たい視線とも違う暖かい陽光を反射して、透明なビー玉をばら撒いたようにきらめいた。
――ざ、ざ。
南から北へ。田舎や都会をいくつも通り過ぎて。はるかなる道を歩ききり、彼女はそっと振り返ってみる。そこには、どんなに優れた才を持った画家でも決して表現できないような、美しくも幻想的な光景。
彼女が来た道には、桜の樹々が陽光の祝福を受けて咲き誇っている。満開に咲いた花びらは、桜の樹の生命力そのものであるかのように、細い枝一本一本の先からあふれ出していた。
ざあっと、これまでとは違う温度を持った風が一直線に吹き抜ける。彼女の頬を、風の手のひらが優しくなでていった。
空から桜の粉雪が降っている。狂ったように踊る花びらのあまりの美しさに、見る人の心は空っぽになる。
舞う桜の花弁によって、風が形を持っていた。強い春風に舞い上げられた花びらは、一瞬だけ空を背景に静止する。時が止まったかのようだった。そして時は万物に平等に、情け容赦なく流れ出す。花びらが粉雪のように軽く、渦を巻きながら舞い降りてくる。
永遠という言葉を知らない、風と花の共演。同じ風景が保たれる瞬間などない。今年の、今日の、今の、この瞬間だけ。
彼女は、そっと宙に手をかざした。
ふわり。一枚の花びらが、手のひらの上に着地する。彼女は、拳を花びらごと、とても大切なもののように、そうっと握りしめた。
足音の余韻。大地を踏みしめた跡。通り過ぎた跡に吹く、優しい風。彼女の歩いた遥かなる道のり。彼女の背中を見た人は言う。

――ああ、春が来た。と。