異世界ファンタジー小説「さくらとそら」

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「一滴で楽に死ねるよ。でも本当にいいのかい」
僕は受け取った小さな瓶をしげしげと見つめた。中に入った透明の液体が、日の光を受けて琥珀色にきらめく。
「いいのかなんてわかりません。決めたんです」
総平さまへと、僕は静かに告げた。
「そうか。遠野くんが決めたのなら、わしは――医師としては失格かもしれんが、何も言わんよ」
総平さまがしんみりとした口調で言う。僕はまばたきをして総平さまから顔を背けた。
「お世話になりました」
その言葉を最後に、僕は屋敷の門を出た。 涙が零れ落ちないように上を見仰ぐ。瓦が並ぶ街を、春の太陽が優しく包みこんでいた。
僕は大きく息を吸う。肺に満ちるこの街の空気は、どこまでも澄んでいた。
川沿いの道をゆっくりと歩く。土手では剣術の稽古が行われていた。幼い子供達が懸命に竹の棒を打ち合っている。
「遠野」
ふいに背後から呼び止められた。僕は振り返る。そこにいたのは予想していた通りの人物だった。
「やっぱり遠野だ」
彼女――芳野は、春風のように優しく微笑む。
僕は急に息が苦しくなるのを感じた。胸の奥がどすぐろいもので塗りつぶされる。
「駄目だろ、外に出ちゃ」
僕は低く息をはいた。芳野は不安そうな顔をする。
「ごめん。でもあんまり遅いから心配で……。総平さま、何かおっしゃった?」
僕は芳野を元気付けるために、精一杯の笑顔をつくった。そしてこれまでに幾度となくついた嘘を告げる。
「大丈夫だって。少しずつだけどよくなってるってさ」
「本当に?」
芳野がぱっと顔を輝かせた。
――ずきん。
僕の胸の奥に鈍い痛みがはしる。
「本当だよ。でももっとよくするために異国から仕入れた薬が必要だって言われてさ」
芳野の表情が梅雨の空のようにくもる。僕は芳野の肩にそっと手をのせた。
「なんでもない。芳野は何も心配しなくていいよ。ほら早く家に帰ろう」
僕は家へと歩を進める。
七歳のときに両親が死んで住む場をなくした僕と芳野は、町外れに小屋を建てた。そうして幼い頃からずっと、二人で生きてきた。
「薬ってことは、またお金がいるのね」
「大した額じゃない。また総平さまに頼んで仕事を紹介してもらう。一つ増やせば大丈夫だよ」
「嘘! どこが大丈夫なの、遠野もうぼろぼろじゃない」
芳野が痛いところをついてきた。僕は黙って唇をかみしめる。
「最近ろくに寝てないでしょう。食事だって私を優先して、おまけに朝から晩まで重労働。遠野こんな生活してたら倒れちゃうよ」
芳野の言うとおりだった。
着物も食べ物代も、遠野一人が二人分を稼いでいる。しかも芳野の治療費が途方もなく高いのだ。 診療代は総平さまにまけてもらえても、薬代だけはどうにもならない。今の芳野は薬によって発作をおさえている状態だ。それも、いつまでもつかはわからない。さらに最近、芳野の病状は悪化しているらしいのだ。かさむ薬代を支払うために、僕は死ぬ気で働いていた。食わず寝ずの無茶な生活のせいで、自分の体が限界に近いのは僕自身にだってわかっている。
「でもじゃあどうすればいいんだよ!」
僕はこらえきれずに叫んだ。どうすればいいのかだけでなく、どうするのかまで僕は決めたはずだった。それなのにいまさらこんなことを言うなんてばかげている。
僕は懐にしまったあの瓶を取り出した。黙りこんでしまった芳野に声をかけようと息を吸う。
「――ッ」
瞬きほどの間だった。僕へと芳野が手を伸ばしたかと思うと、――瓶は奪い取られてしまった。
「綺麗。硝子でできてるの?」
病的に白くて細い指で、芳野が瓶をつまむ。
「返せよ!」
まだ瓶の中身について言う心構えはできていなかった。僕は瓶を取り返そうと必死で手を伸ばす。芳野はそれをひらりとかわした。春風に芳野の長い黒髪が舞い広がる。墨を流したかのようにつややかな髪はいつもよりも軽そうだった。
「返してほしいなら私を見つけて」
「は?」
いたずらっ子のようにあどけなく笑う芳野を前に、僕はただただ困惑する。軽やかにきびすを返すと、芳野は土がむき出しの道を走り出した。
「待てよ! いきなりどうしたんだよ」
僕も後を追って走り出す。
重病を持つ芳野にとって、激しい運動は発作を誘発する自殺行為だ。
芳野が着物の裾を舞わせて振り返った。そして穏やかな空気を切り裂くように叫ぶ。
「きゃー! 物盗りよ! 誰か捕まえてぇーっ」
僕の目は点になった。混乱から立ち直った時にはもう、土手からかけのぼった子供達に組みつかれていた。
「けしからんやつめ、成敗!」
「とやーっ」
竹の棒での一閃を、頭をかばった腕で受け止める。
「なんだよいきなり! 芳野!」
芳野は十数尺先できらきらと輝くような笑顔を浮かべていた。
僕が子ども達十数人に組み倒されてもがくのを楽しそうに見つめる。
「誤解だ! あいつは俺の片割れ! 何も盗んでないっ」
ようやく子供達から解放された時には、芳野の姿はそこになかった。僕はぼろぼろの体を引きずって家へと帰る。
芳野は家にいなかった。僕は近所を探して回る。
「芳野ちゃん? 知らないよ」
総平さまが不思議そうに言った。ここにも芳野は来ていなかったらしい。礼を言って去ろうとしたら引き止められた。
「遠野くん、芳野ちゃんは幸せだね。こんなにも思ってくれる人がいて幸せじゃないはずがない」
「……だといいです」
朝の街には穏やかな時が流れている。
芳野はどこにも見つからなかった。今の芳野は大きな爆弾をかかえているのと同じだ。発作が起きれば間違いなく生死に関わる。本来は外を出歩く事すら総平さまから禁じられていたのだ。
僕の心には不安がこみあげてくる。くもりのないはずの春の街が急にかげって見えた。ふいに脳裏へと懐かしい光景がよみがえる。
「――っ」
僕は全力で走り出した。温かい空気に包まれた街を駆け抜ける。肩で息をしながら僕は河原を見下ろした。下流からは、さきほどの子ども達の賑やかな声がする。
僕は土手の野をゆっくりと降りた。澄んだ水面は硝子のように煌いている。離れた場所からでも河床の小石がよく見えた。穏やかな川を見下ろすのは、道に沿ってたたずむ樹々だった。舞い落ちる花弁が砂利の河原を桜色に染めている。
芳野は一本の桜のそばに立っていた。
僕は胸をなでおろす。近づいて芳野の細った手首をつかんだ。もう走ったりなんかさせるわけにはいかない。
「芳野!」
芳野は驚いて、僕の手を反射的に振り払った。突然のことに体勢をくずしてよろめいた芳野は、桜の絨毯へと倒れこむ。大丈夫かという僕の問いに、芳野は大丈夫だと微笑んだ。それから楽しそうに言う。
「あーあ。かくれんぼ、私の負けだね」
僕は芳野の隣に腰をおろした。上半身を倒して寝ころぶ。雲ひとかけらのかげりもない透き通った青が、視界いっぱいに広がった。頬をなでる風が気持ちいい。
「私ね、知ってたよ」
芳野があの小瓶を空にかざした。
僕は息をのんで次の言葉を待つ。
「これ毒薬なんでしょ? 遠野が何か思いつめているみたいだから、総平さまを問い詰めてみたの。そしたら教えてくれたよ。どうして何も言ってくれなかったの?」
「……」
「私よくなってなんかないんでしょ? 私の体なんだから私が一番よくわかるよ。どうしていつもいつも遠野は嘘をつくの。笑顔ばっかり作っているの。遠野が辛いと私も辛いんだよ」
芳野の口調は静かだった。でもだからこそ、一言一言が心に迫ってくる。
「ごめん」
それくらいしか言うべき言葉が見つからない。
「挙句の果てに何も相談せずに終止符打とうとする! 私のためだってのはわかるけど、でも遠野一人で抱えこんでないで少しくらい相談してほしいよ」
「――ごめん」
寝ころんだまま僕は目を閉じた。いつかに聞いた芳野の声が頭の中に響く。
――私の名前、染井芳野ってね、この桜と同じ名前なんだよ。
あれは、そう。前にここに来たときだ。
――じゃあ「遠野」の意味も知ってる?
そう聞いたら、芳野はあの優しい笑みを浮かべた。
ここからいちばん遠い野、つまり――。
僕は目をそっと開く。澄んだ青へとまっすぐに手をのばした。
「ここがわかったってことは、覚えてくれていたんだね。あの約束」
両親が死んだ後、ここに二人で来た。同じようにして空を見ながら約束したのだ。
一緒に頑張って生きようね、って。
空へと枝を伸ばした桜の樹が、あの日と変わらずに粉雪のような花弁を舞わせている。
「芳野、いつ死ぬかわからないのって辛くないか?」
真っ直ぐな僕の問いに、芳野はきっぱりと言いきった。
「つらいけど、私はそれでも生きたいよ。死ぬまで生きたい」
その返答を聞いて、僕は立ち上がる。
芳野はくすりと笑って付け加えた。
「それに、いつ死ぬかわからないのは遠野だって同じだよ?」
僕は、芳野の手にある小瓶をそっと取り上げる。
「遠野?」
怪訝そうな顔をして芳野が身を起こす。
僕は数歩進むと大きく腕を振りかぶった。手に持ったものを河原へと思いっきり放り投げる。
手を離れた小瓶は琥珀色の軌跡を描いて――そして見えなくなった。