現代ファンタジー小説「私を殺さないで」

(C)ジュエルセイバーFREE

――これだけの高さなら、確実に死ねるはずだ。

私、中井真理は空っぽの心で屋上から見える景色を見下ろしていた。ミニチュアのように小さな屋根がまばらにならんでいる。そのそれぞれが、淡い粉雪のパウダーによって薄化粧されていた。筋になった薄い雲が、空の高いところを流れていく。雲の間から舞い降りる光は弱々しくて、雪の白に反射されなければ、地面に届く前に消えてしまいそうだ。
(そこに、いるのね?)
私はフェンスに手をのせたまま、空を見上げた。
(すぐに私がいく。あなたを一人なんかにさせない)
雲の上にいるはずの彼に語りかけた。枯れたはずだった涙が、私の頬を再び濡らす。
「……っく」
嗚咽がもれた。心の奥に絶望が影をもたげる。いけないかもしれないのだ。私が死んでも、あなたとは一緒になれないかもしれない。
だって、私は罪を犯した。あなたを殺した。
「だめだよ……」
透き通った声が、冷えた空気の中に響く。私は慌てて振り返った。
「そんなことを考えちゃだめ……」
そこには、一人の少女が立っていた。子どもだ。私は肩をなでおろす。しかし次の瞬間、幾多の違和感が頭をよぎった。
ここは町外れにある廃ビルだ。数年前に管理していた会社が没落して以来、放置されている。ビルの中には埃がうずたかく積もり、蜘蛛やゴキブリの居城となっていた。好きこのんでくるような物好きはそうそう存在しない。だからこそ、私は死に場所にここを選んだのだ。
「あら、どうしたのお嬢ちゃん。こんなところで遊んでちゃだめよ?」
私は平静を装って彼女に語りかける。
足音はおろか、声を聞くまで気配すら感じなかった。
少女の腰まである黒髪が、風に流れる。十歳くらいだろうか。あどけない瞳は、純粋な輝きに満ちている。
「……あなたこそ、何をやっているの?」
少女は綺麗な声でそう返してきた。無理もない。私は自分の姿を見なおした。
黒いスーツの襟からのぞく白いカッターシャツ。金色のネックレスが、胸元でひかえめに存在を主張している。細身のズボンは、スーツと上下セットで買った。巻いた髪は落ち着いたダークブラウンに染められている。絶世の美女と賞賛されるほどのことはないにせよ、身なりにはかなり気を使っていた。さりげなくかつ隙のないお洒落アイテムが、私の外見を適度に飾りたてている。もう、どこからどうみても完璧なオフィスレディだった。
そんな私が、町外れの廃ビルの屋上で、フェンスにもたれかかっている。となると、人が連想することは一つしかないだろう。そしてそれは、当たりだ。
「私は別に……」
別に、何だというのだ。子ども相手とはいえ、この状況をごまかすのは難しい。でも怪しいという点ではお互い様だ。何とかやりすごそうと思索をめぐらす。
「……えっと」
白々しい言い訳を言いかけて、私は口をつぐんだ。何を言っても、怪しさの上塗りになってしまうだけだという気がした。
だがしかし。少女の次の言葉は、怪しいなんてレベルをはるかに超越していた。
「あたしは死神なの」
幼い声が静かに響く。完全に不意をつかれた。
「はあ……」
どうリアクションをとったらいいのか、非常に困る。
少女は無表情のままだった。雪の結晶のように綺麗な瞳は、驚くほどにまっすぐだ。
「あなたは死ぬの」
「えーと……」
少女の淡々とした口調に、私はとまどっていた。
「驚かないの? 中井真理さん」
少女が無邪気に訊いてくる。
「驚くとかそういう問題じゃないわよ。お嬢ちゃん、冗談はいい加減に……。って、あれ?」
私の背筋は凍りつく。
中井真理さん。
少女は私の名前を口にした。
「どうして名前、わかったの?」
少女はいたずらっ子の笑みを見せた。
「私が、死神だからだよ」
少女の声はあまりに透き通っていて。私は心のどこかで納得してしまっていた。
「死神?」
「そう。名前はシロっていうの」
「シロ? 黒いのに」
私は改めて少女に目を見やった。
黒いフリルのスカートが、凍てついた風にはためいている。葬式に行く人間の格好だった。幼い身を包むのは、漆黒ただ一色だ。
「名前はね。足りないものを補うものだから」
足りないもの。
確かに、全身黒の死神さんに「白」は足りない。
「へえ? シロ、ね。可愛らしい死神さまがいるものね」
からかうように言う。まだわずかに残った理性が、信じることを拒絶していた。
「私、いつ死ぬの? ――本物の死神にならわかるわよね」
「この屋上から飛び降りるつもりなんでしょ?」
死神の少女――シロがあっさりと答える。その通りだった。
「そうだ、鎌は? 死神には必需品なんじゃないの?」
シロは無言でローブに手を入れる。懐から物騒なものが抜き出された。
「……なにそれ」
「拳銃」
見ればわかる。
鈍く光る金属の塊には、圧倒的な存在感があった。映画のスクリーンを通してみていたそれが、目の前にある。
「死神はこれで肉体と魂を切り離すの」
「鎌じゃないのね……」
「鎌なんて時代遅れだよ。これなら連射もできるから。大規模な事故現場なんかでも、効率よく魂の処理ができるの」
「……はあ」
どこに行っても時代は合理化を求めている。死神の世界ですら、それは例外ではないらしい。
「ねえ。中井真理さん、何かあったの?」
「何って」
「わざわざビルの屋上から飛び降りて死ぬんだもの。それ相応の理由くらいあるのよね?」
シロが、軽い世間話でもするかのように尋ねてきた。
理由。一つしかない。
「私にとって誰よりも大切だった人が、いなくなってしまったのよ」
死んだのよ。そう口にすることだけは、できなかった。口にしたら、認めてしまっていることになるからだ。
「私はね、あの人がいないと生きていけない。あの人がいなくなってしまって初めて気づいたの。あの頃の私がどれだけ幸せだったか」
――幸せだったからこそ。失ったものが大きすぎたからこそ。
その思い出を抱いて生きつづけることが、私にはできそうにない。きっとおしつぶされてしまう。
「そう。要約すると、死んでしまった恋人を追いかけて自殺ってことね。ありがち」
「間違ってないけど……要約しないでよ」
シロの身も蓋もない言いぐさに、私は苦笑した。顔をほころばせるのは、久しぶりだ。
そう。――彼がいなくなって以来だ。
彼を最初に見たとき、笑顔がかわいいなって思った。年甲斐もなく素直で、真面目で、まっすぐで――。
何度も会ううちに、私たちは惹かれあっていった。婚約リングは、まだ私の右手にきらめいている。
「寂しい……」
どうして、あんなことを言ってしまったのだろうか。私が口にしたその一言のせいで、彼は帰ってこなかった。
――私が殺したも同然だ。
「でもわかってる? あなた、ふたり殺すことになるの」
シロが静かに言葉をつむぐ。私は、はっと我に返った。
――ふたり。
あの人を殺して、今度は私自身もだ。
「……わかってる。わかってて決めたことなの」
でも、私にはこれ以外のしようがない。私はきっぱりと言い切った。
シロが薄く表情を崩した。その表情が切なさに満ちている気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
「そう……」
泣きそうなほどに潤んだ瞳。あきらめにもにた感情が、口元に浮かぶ。シロの微笑みは、哀愁に満ちたものだった。
「じゃあ」
シロの表情に見とれていた私は、驚きに息をのんだ。いつの間にか伸びていたシロの細い腕が、私の肩を強く押す。
「……ッ」
背中に当たるはずのフェンスの感触が、なかった。私の視界はぐらりと揺れる。自慢の髪が空に散らばった。
――屋上、空、そして屋根。眼下に街が広がった。
落ちる。
私の全身を、電流のようなものがかけぬけた。
無意識のうちに伸ばした腕が、――フェンスをつかむ。私は鈍痛には耳を貸さずに、力をこめて全身を支えた。
――助かった。
安堵の息をもらす間もない。危機から脱した私の腹わたは、ぐつぐつと煮えくり返ってきた。
「何すんのよ……ッ!」
恐怖が一瞬にして怒りに変換される。シロへと、私は怒声をぶちまけた。
「死ぬかと思ったじゃないのッ!」
私の感情が噴火した後。屋上の沈黙を、雪の白さが強調していた。
私は荒くなった息を肩で整える。
「……」
シロは、純粋な瞳をきょとんとさせていた。そして、口元に手をやり、小さく弾けるように笑う。
「なにが可笑しいのよ」
不満げな私へと、シロは笑みを絶やさずに言う。
「ぜんぶ」
確かに、あれは今まさに自殺しようとしていた人間が言う言葉ではない。
――死ぬかと思ったじゃないのッ!
なんて、ね。
「……どうしてよぉ」
ばふっ。
私はゆっくりと、屋上に寝転んだ。冬の太陽が、ほんのり暖かく世界を見守っている。
「どうして私を置いていっちゃうのよぉ……」
ふいに、薄灰色の空が歪んだ。
舞い降りてきた粉雪が目に入ったのかと思ったけれど、違った。瞳を濡らす水分は、じんわりとあたたかい。私は腕で両目を隠した。
「ねえ、どうしてよ。置いていかないでよ。寂しいよ……」
これまでひた隠しにしていた弱音がもれた。
――寂しい。会いたいよ。
それは、二週間前のクリスマスの夜だった。仕事中の彼の携帯に吹きこんだ留守番電話のメッセージが、私の世界を暗転させた。
――仕事からバイクで帰る途中に、事故に巻きこまれたらしい。
彼の両親から電話があったのは、夜遅くのことだった。焦燥感に満ちた声には、現実味がなくて。すべてが、どこか遠くの世界で起こっていることのように感じられた。
「彼のことは、あなたのせいではないわ」
シロの声が頭上から穏やかに降ってくる。私の考えなんて、見透かされているようだった。
「気休めはやめて。私が悪いの。私があのとき電話なんかしなかったら、あの人は急いで仕事を抜けたりなんかしなかった。事故に巻きこまれずにすんだのにっ!」
――あの人は私のせいで死んだ。
だから私は罪滅ぼしをしなくてはならない。
「でも……どうして?」
頬を生暖かいものが流れ落ちる。
「私……死ぬのが、こわい」
本心から出た言葉だった。屋上から落ちそうになってわかった。
矛盾している。でも、私は、私は……死にたくないんだ。
「そっか」
私はそっと腕をどける。そこには、シロの愛らしい笑みがあった。
「やっぱりね。あなたは、周りが見えずに中途半端に突き進んで、そして落ちていく瞬間に後悔するタイプだと思ったの。そんなのって悲しい。だから、ちょっと乱暴だったけど……目が覚めてくれてよかった。結果おーらい」
「は?」
そこはかとなく、論点がずれている気がする。
シロは死神で。私を連れて行くことが仕事で。
それなのに。
「中井真理さん」
自称死神の少女が、正面から私の名前を呼んだ。
「生きたい?」
それはこの上なくシンプルな質問。
私はゆっくりと、でも確実に。
うなずいた。
生きたい、と。
「よかった」
安堵したかのように小さくつぶやくと、シロは笑った。優しく上がった口角。薔薇のつぼみのようにみずみずしい唇。キラキラと輝く瞳に映る世界は、澄み切っていた。
声はなくとも、子どもらしく快活で。
――どこまでも無邪気で。
見ているこちらが唖然としてしまう。
天使のほほえみ。シロの笑みは、まさにそれだった。穏やかに立つシロの姿は、明るい光に包まれていて――。ああ、この子は愛されて育ったんだなって。そう、思った。
綺麗で。純粋で。幸福に満ちていて……。きっと、このときにシロがみせた笑顔を私が忘れることはないだろう。
気づけばシロの姿はそこになかった。屋上に広がる粉雪のカーペットに残された足跡は、私一人の分しかなかった。

あの日から数ヶ月が経って。私はまた、あの微笑みを思い出す。
粉雪のまぶされた街。灰色の空の下で彼女が見せた、純白の笑みを。
――よかった。
シロ――少女がそう口にした意味を、私はすぐに知ることとなった。私の中には、あのときすでにひとつの命が息づいていたのだ。あの人との子どもだった。
――ふたり殺すことになる。
少女の言葉の意味が、ようやくわかった。
私は小さく笑みをこぼす。
死神なんかじゃなかった。あの子は、シロは私の自殺をやめさせようと必死だった。
守るために。私を。それから――。
大切な新しい命。女の子だった。
私はその子にこう名づけた。あの微笑みを忘れないために。
――真白、と。