現代恋愛小説「エスケープ・ラブ」

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「わ、私に何をさせたいわけ?」
私は声の震えを必死で抑えて問いかけた。乱れた前髪の隙間から、目の前にいる奴らをにらみつける。
この日のためにわざわざ染め直したウェーブの茶髪。繁華街の古着屋で揃えた、安くも可愛いおしゃれ着。
午前中に家を出たときには、こんなことになるだなんて予想すらしていなかった。心を弾ませてアパートを出て――階段を降りているときに、手提げ鞄のポケットに入れたケータイが振動した。そして鳴りだした安っぽい着信メロディーが、私をここに連れてきたのだ。
見渡せばそこは、ごじんまりとした和室である。素足にあたる黄緑色をした畳の感触が、どことなく冷たい。六畳ほどの部屋。四方を囲う壁のうち、三面は障子だった。張り替えたばかりらしく、黄ばみなく白々と清らかだ。よくよく見れば、障子に張られた和紙には透かしの花模様が入っている。小さい割には品がある部屋だ。並みの庶民の家ではないな、と私は直感した。
小学生時代、両親の目をごまかして友人の家を訪ねたことがある。そのときの衝撃は言葉に表現できないものだった。確か、あろうことか私は友人の家を指さして「これが犬小屋なの?」と尋ねてしまったのだ。私は――今なら素直に認められる――世間知らずの箱入り娘だった。
私にとっては無邪気な言葉にすぎなかったけれど、その日から友人は口をきいてくれなくなった。吐き出したいくらいに苦い味がする思い出だ。
「聞こえてる? 答えなさい、命令よ。どういうつもりなの、アナタたち」
周囲の状況を確認して、私は気丈にも言葉を続けた。声が相変わらず震えるのは、この部屋に暖房がかかっていないからに違いない。
私の目の前には、数人の人間が直立不動で立っていた。
「ちょっと、答えなさいよ……!」
私の声に彼らは答えない。出口である障子を背にして、番人の役割を全うしているだけだ。
「……申し訳ございません。旦那さまはもうすぐいらっしゃるはずですわ。それまでどうか大人しくしてくださいませ」
端の方に立っていた若い女性が、困ったように微笑んで言った。そして横にいた初老の男性に肘でつつかれ、しまったとでも言うように口を押さえる。どうやら私と会話してはいけない決まりになっていたらしい。番人に口はいらないのだ。
「旦那さまぁ?」
私は抵抗した際に乱れてしまった襟元を直しながら、呆れて眉をしかめた。どうやらその「旦那さま」が彼らに命令して私を誘拐させたらしい。カーテンで締め切られた高級車によって運ばれてきたから、ここがどこかはわからない。しかし入ってきたときに廊下から見えた景色は大層なものだった。
木から溢れ出した生気がそのまま形を持ったかのように、松の緑は萌え盛る。それでいて、空に指先を伸ばした枯れ枝はどことなく寂しげで。十二月の冷たい空気がそう狭くない庭全体に緊張感をもたらし――無秩序にちりばめられた黒灰色の踏み石が、景色を見事に調和させている。優美にして慎ましやか。荘厳にして躍動的。これがもし個人の邸宅だとすれば、私の実家と同レベルか、もしくはそれより上の家柄の者が建てた家なのだろう。少なくとも、私の小中高校生時代の友人の家――庶民的な住宅と一線を画していることは確かだった。
思い出した庭の魅力に癒やされ、私は少し落ち着きを取り戻す。服を直していると、先ほどの女性が手鏡を差し出してくれた。
――妙ね。
悪意のない親切を受け取って、私は首を傾げた。何かがおかしい。悪意がないどころではない。誘拐にしては私の扱い方が懇切丁寧なのだ。国家VIPとまではいかなくても、誘拐されたと私自身が自覚できないくらい優しく扱われている。下手すると、扱われているというよりもてなされているのかもしれないとすら思ってしまう。
そう――その違和感だけを除けば、これはまさに誘拐だった。目的はわからない。やはり身の代金だろうか。
『緊急の用がある。すぐに帰って来い』
実家からの――それも父が直々にかけてきた電話に、動揺しなかったと言えば嘘になる。私はタクシーで駅に急行し、実家への新幹線に飛び乗った。もちろん用件が気になったのもあるが、急いだ一番の理由は「自家用ヘリに迎えに来られてはたまらない」だった。大学の友達に目撃されないとも限らない。私はそういうことで目立つのが大っ嫌いだった。
駅を出たところで黒服の男たちに囲まれ、なすすべもなく車に乗せられた。抵抗の意味もなく目隠しされた私は、ふかふかのソファーに優しく横たえられ。ドライブの後についたのは純和風な日本庭園を持つ麗しき大邸宅で――そして冒頭のシーンに戻る。

私は礼を言って女性に手鏡を返した。
思い返せば、最初に私を囲んだあの男たちもどこか丁寧だった。私が暴れるから仕方なく力づくで抑えつけるといった様子だった。それでも私にはかすり傷一つついていない。危害を加える意志が向こうになさそうで、ひとまず安心した。と、不意に障子の向こう側が騒がしくなる。
「……でも抵抗されたら」
「問答無用。その時は無理やり脱がせろ」
野太い男の声が聞こえたかと思うと、障子が乱暴に開いた。そして数人が狭い部屋に立ち入ってくる。
(ちょ、ちょっと待った! 前言撤回っ!)
私のお嬢さまらしからぬ悲鳴が、障子を裂くようにして庭園にまで響き渡ったのだった。

「最悪最悪最悪最悪最悪さいあく……っ」
私は椅子に座ったまま、不機嫌さを隠そうともせずにブツブツつぶやく。
「最悪っ……!」
「本日、四百三十八回目の『最悪』ですね、お嬢さま」
「最悪っ!」
四百三十九回目、と言って微笑むばあやを、私は鏡越しに睨みつけた。
「どこが最悪なのですか? お嬢さまは美しゅうございます」
ばあやに気の抜けるような口調で言われて、私は鏡に映った自分を見直してみた。鮮やかに目に焼きつく橙の着物には、大きな牡丹が咲き誇っている。夕焼けを思わせる帯のグラデーションは美しくも艶やかだ。なめらかな白磁の肌に映える、澄んだ瞳。春の小川のように清らかな髪は、桜色に色づく頬を緩やかに縁取っている。淡い茶色の髪が春の香りを漂わせ、ウェーブが軽やかに肩の上を流れていた。
「これ誰よ?」
「お嬢さま、あなたです」
久しぶりに和装をした感慨はさておき……。動きにくいな、と私は唇をとがらせる。別に着物が不満なわけではない。納得いかないのは、このなんとも理不尽な状況だ。
「おお! 蓮妃、美し……」
「帰れ」
障子を開けて入ってきた男に、私は近くにあったティッシュの箱を力いっぱい投げつける。
「蓮妃ちゃん酷いっ」
私の攻撃を受けた禿頭の男は、ティッシュの箱をキャッチしたくせに可愛い子ぶる。目つきの悪さから、どうしてもまともな仕事してそうに見えない男だ。表向きは建築業を営んでいるが、影ではどんなことをしているかわからない。
作屋 和麿――私の父は、泣く子も黙る『地獄鬼の作屋』として恐れられているのだった。しかしそんな男であっても、実の娘には甘々シュガーなのだ。
「うるさい! 実の娘をわざわざ誘拐するやつがいるかーっ!」
「ここにいる」
ばあやが苦労して今し方つけ終えたかんざしを外すと、ダーツの要領で投げつける。手首のスナップを利かし、狙うは憎き親父の禿頭だ。
「しかもいきなりムリヤリ服を着替えさせるとか最悪!」
「にしてもあんなに暴れたり叫んだりすることないだろうに。隣の部屋まで揺れてたぞ。そんなに和服が不服か? 今からドレスを用意させてもいいが」
「あー、もう、この服でいいっす」
ドレスを用意させようと本気で無線を構える親父を前にして、私は半ば投げやりに答えた。
先ほど私を着替えさせたのと同じメンバーが、私の周りにひざまずいて服や髪を整えている。和服に着替えるとき、私はいつも彼女ら――古参の使用人である老女たちに着付けを任せていたのだった。
ネタを明かせば、不思議でも何でもない。私を誘拐したのは、我が作屋家に雇われた人たちだったのだ。それなら私を丁寧に扱っていたのにも納得がいく。しかしわからないのが、この親父のふざけた思考回路だ。
「蓮妃、言葉づかいに気をつけなさい」
「はいはいはいはい」
「はい、は一回!」
「はいはい」
親父は大仰にため息をつくと、私の方を目を細めて見てくる。
小さな頃、親父は――父は、私にとっての壁だった。父の言葉は絶対であり、父は神より偉い。私は誰よりも父を恐れ敬っていた。
――でも、いつ頃からだろう? 父がどんどん小さく感じられるようになったのは……。
「蓮妃、立派になったな」
「はぁ」
父が目を潤ませて言う。私は何と言っていいかわからずに、ただため息をもらした。
「いつか来るとはわかっていても、やはり寂しいものだな」
「……は?」
「思い返せば十九年。天塩にかけて育てた娘の晴れ姿がこうも早くに見られることになるとは」
父は、手を伸ばせば届きそうな天井を仰いで感動する。
「旦那様、おばばも嬉しゅうございます!」
おばばもつられて、涙をほろりとハンカチに染み込ませた。ポカリと口をあける私など、目に入ってすらいない。二人に影響されて、周りの使用人たちまでもが感動し始める始末だ。話題の中心は私なのに、私だけが取り残されている。不愉快だ。
「ちょっとタンマ。これどうなってるのよ。全く意味がわからないんだけど……?」
苛々とした声で状況を問えば、父は当然のようにこう言ってのけた。
「これから蓮妃のお見合いなんだ。正確には、挙式の前の顔合わせ、だな」
「はあ」
意味がわからない。父が口にする単語は、まるで未知の言語のように感じられた。
オミアイ。キョシキ。
その言葉の持つ意味が喉に突っかかってしまい、うまく飲み込めない。
「まあ決まったも同然だがな。喜べ蓮妃、向こうの両親もどうやらお前を気に入ってくれたようでな、籍を入れた後には郊外に一戸建ての住宅をプレゼント――」
そこまできて、私の脳はようやく理解することを始める。
「お見合い……? お見合いってあの、婚期を逃しそうな男女に両親や親戚がおせっかいで提供する出会いの場みたいな……」
「他にどんなお見合いがある?」
「はあ」
あまりの事態に、私はまともな返答をすることさえできなかった。
――まさか、まさかね。私の勘違いだよね?
頭の中にこの状況に対する一つの答えが浮かぶが、信じたくはない。
「まあ今回はだな。可愛い可愛い蓮妃に悪い虫がつくまえにという、この父のおせっかいだな。相手は厳選した。娘の婿として最高の人材を探した!」
「はあ……って、えええっ?」
ここまで来れば理解できた。
父は、私に、結婚をさせる気だ。
「なにそれ勝手に! 信じられない……最悪っ」
私は怒りに任せて立ち上がると、父に背を向ける。
「ちょっと待て蓮妃。と、父さんはだな、お前の幸せを思って……」
「ふざけんなクソ親父。はっきり言っておく。私、お見合いも結婚もしません。そういうことなら帰らせていただきます」
結婚しないと聞いて、ばあやは悲しそうな顔をする。良心が痛んだが、今はそれどころじゃなかった。障子を開けて部屋から出ようとする私に、父が情けなくも泣きついてくる。
「待て蓮妃! 今まさに、隣の部屋に相手と親御さんがいらしてるんだ! 頼むから挨拶だけでも!」
「そりゃあ好都合ですわ。私が挨拶もせずに帰ってお父さまの面目をつぶして差し上げます」
絶対零度の微笑みを浮かべて言うと、父は悲壮な表情になった。
「蓮妃ぃ! 卑怯な手段で連れてきたことは謝る! でも、こうでもしなきゃここまで来てくれなかったろう?」
「もちろんですわね。とにかく、私は帰りますわお父さま。その手を離してくださらない?」
「蓮妃……」
演技かそうでないかわからないが、父の瞳は潤んでいる。障子にかけた手に力を入れられない自分自身が、恨めしかった。
こんな父だけれど、いつも私のためを思って行動してくれているのだ。母が死んでから十四年。一人娘として大事に育ててくれた父に、私は根本的なところで背けない。
今回も、父の気持ちは痛いくらいによくわかる。どうせ、愛娘にふさわしい婿を探すのに数年かけたのだろう。
私に、幸せになってほしい。そんな思いが根底にあるから、父は私にとって厄介な存在なのだ。
「今日は駅前でライブなの。遅れるわけにはいかないわ。離して」
あくまでも静かに言いながら、ちらりと腕時計を確認する。私は大学のサークルでバンド活動をやっている。ライブ開始予定時刻まであと二時間だった。これは急がないとまずいかもしれない。リーダーに連絡して休むなんて、もちろん選択肢にない。今、私の人生はバンドに支えられているのだ。
ピアノにバイオリン、お琴に三味線。小さい頃からそういう楽器にばかり触れていた私は、軽音楽のド派手な響きに憧れを抱いていたのだった。
小学生時代に他の子との差異を意識して以来、私は『普通』に執着している。恋い焦がれていると言っても過言じゃないかもしれない。
町で一番の名士の娘――そんな時代遅れにも思えるレッテルを張られてきたのだ。地方の密接な近所付き合いの中で、いつも見張られているように感じていた。
地元の高校を卒業して、待っているのは地元の大学への進学。そんな決められた未来が嫌だった。黙っていればきっと、『人生』と言う名のビデオが私の目の前を淀みなく流れていっただろう。幸せで、暖かで。――無難で、平坦で。すでに作り上げられた映像のような人生が、私は嫌だった。だから抜け出したのだ。
もちろん簡単じゃなかった。父の意向に背いてまで家を出るのだ。周りを納得させるためには、偏差値のバカ高いお坊ちゃまお嬢様大学を受験するしかなかった。
家を出たい。自由に生きたい。そんな思いだけが私を動かしていた。必死の受験勉強の末に合格を勝ち取り、地元から遠く離れた地で一人暮らしを始めたのが今年の春だ。
――生まれ変わった気分だった。
私は大学でなら、ただの『蓮妃』でいられる。『作屋さんとこの蓮妃お嬢さま』と呼ばれるのなんて、もうこりごりだ。そして、そんな風にして探し求めた都会という名の新世界で……私は『彼』に出会えのだ。
「ライブ?」
「ええ。内緒にしてたけど私バンドでキーボードやってるの。時間に遅れてメンバーに迷惑をかけるわけには――」
「バンド? そんな軟派なものに参加していいと言った覚えはない」
父が表情を険しくするが、私も負けじとにらみ返す。
「参加するかどうかは私が決めます。お父さまは関係ありません」
「しかしだな蓮妃」
「それに私は結婚相手くらい自分で決めます。自分の幸せは自分で決める。それができないほど子どもじゃないわ」
「でも一生に一度のチャンスだろう?」
なんとか私を丸め込もうとする父だが、私は負けない。
「バカ言わないで。あたしはまだ十九歳よ?」
「だが……」
父は引き下がらない。私の中の『ムカツキ度メーター』がだんだん高い値を示し始めた。
「人生に一度のチャンスなわけないじゃないの、三十路過ぎたおばさんじゃあるまいし」
なんとか父に言い勝とうと、ついつい声が大きくなってしまう。
「しかし、こんなにいい相手とは二度と……」
「そんなにいい相手だと思うなら、お前が再婚を申しこめばいいだろ! この頑固オヤジっ」
抑えていたつもりだが、最後にはつい怒鳴ってしまった。このあまりに物わかりの悪い父が、いけないのだ。
「いい? 私はまだ十九歳なの。自由な女子大生ライフを謳歌したいのっ」
力をこめて、父の瞳をじっと見据える。――やっとのことで見つけた、私の、私だけの人生。壊されてたまるか。
せめて、大学卒業するまでは自由に生きたいと思った。青春時代は、私の人生に一度きりしか来ない。
「またむちゃくちゃ言う。聞き分けのない子だな。これもみんな、蓮妃のためだ。納得しなさい。いつか、これで良かったと思う日が来る」
父は訳知り顔で私を懐柔しようとする。いつもの従順な私なら、父に従ったかもしれない。でも今回だけは、負けられないのだ。
「バンドやめて大学やめて嫁入りするなんて嫌! 絶対に嫌あ!」
「蓮妃……ちょっと落ち着け……」
私がヒステリックに叫べば、父はうろたえ始める。可愛い娘のためを思って組んだ縁談だ。多少の反抗は想定していただろうが、ここまで激しく拒絶されるとは思ってもみなかったのだろう。
「これが落ち着いていられる? ――何よ、みんなして。私に死ねって言うのね?」
「そ、そんなことは言ってない!」
「嘘よ。結婚なんて人生の墓場じゃない! この歳で墓場になんか誰が入るかーっ!」
父に向かって、私は不満のすべてをぶつける。
不安だった。なんだかんだ言っても、父の持つ権力は強い。黙っていたら、きっと私はまだ見ぬ男と結婚させられてしまう。
「お嬢さま、あああ……どうか落ち着いて……」
私と父のやりとりを聞いたばあやは、泣きそうなくらいに絶望していた。父から都合のいいことだけを聞かされて、浮かれていたらしい。
――このばあや、お嬢さまの晴れ姿を生きているうちに見られるとは……感激にございます!
父とばあやのやりとりが頭に浮かぶようだった。
「旦那さま……お嬢さまにおっしゃられてなかったのですね……」
ばあやが肩を落としてつぶやけば、父も引きつった笑みを浮かべる。
「ああ……こんなことなら睡眠薬を飲ませて、縛って連れて行けばよかったな……。セッティングを済ませた披露宴会場まで」
またふざけたことを言うから、私は頭の血管を浮き上がらせて叫んだ。
「睡眠薬を飲ませたなら縛る必要ないでしょうが!」
「お嬢さま、論点がずれてます」
しかし、これではらちがあかない。
父は私の幸せのためなら、どこまでも突き進むのだ。いったん暴走を始めたら、たとえ私の言葉であろうと耳を貸さない。父は自分の信じた道を曲げない人間だ。この様子なら、実際に睡眠薬を盛りかねない。観念した私は、とっておきの切り札を出すことにした。
――できれば出したくなかった、最後の切り札。
「ねえ……聞いて、お父さま」
そっと父の両手に触れて、目を潤ませる。
「ど、どうした?」
愛娘の可愛らしさに、父は多分ぐらりと来たのだと思う。話を聞こうと耳を傾けてくれた。
「私ね……」
私は覚悟を決めて静かに告げる。
「私ね、好きな人がいるの」
その瞬間、和室に流れていた時間が静止した。
――ああ……。
言ってしまった。
私はあまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にする。見合いを逃れるための嘘だから、気持ちを揺らすことはないはずだ。でも『好きな人』と口にした時、私の脳裏には彼の脳天気な笑顔が浮かんでいた。そのことが、どうしようもなく気恥ずかしい。
「――ね? だから私、見ず知らずの人と結婚なんてできない」
逃げるなら、時間が凍りついている今しかない。私は早口で告げると立ち上がった。見合いということなのだから、ここはさしずめどこかの高級料亭だろう。しかし、やけに静かなのが気になる。VIPルーム貸切り……なのだとしたら、父も奮発したものだ。いや、見合い相手の家が会場を用意してくれたのかもしれない。とにもかくにもとりあえず部屋を出ようと、私は一番近い位置のふすまに手をかけた。
「ちょっ……ダメだ、待て!」
父が狼狽した声を上げるが、知ったこっちゃねえ。私はふすまを勢いよく開け放った。そしてその瞬間、何人もの視線が自分に集中したのを感じる。
――は?
障子の向こう側は、廊下ではなく部屋だったのだ。今いる部屋の数倍の大きさだ。真ん中には木目の麗しい机がおかれ、その向こうに三人の人間が座っていた。それぞれが目をぱちくりとさせ、私を見ている。
「――失礼し……」
隣の部屋へ続く障子を間違えて開けてしまったのだ。そう理解して顔を赤らめ、勢い良く頭を下げる。そしてとっさに障子を閉めようとする私に、容赦ない怒声が降り注いだ。
「蓮妃い! 挨拶くらいまともにできんのか、お前は!」
「――え?」
父の言葉の意味が理解できなくて、私は首を傾げる。もう一度、今度は少し落ちついて部屋を観察した。座っている三人はどうやら親子らしい。左端にいる老人は上品なスーツに身を包んで、厳しそうに眉をしかめていた。右端に正座した老夫人は、どうやら彼の妻らしい。こちらも夫に負けず品のある人だ。年を感じさせないさっぱりとしたパステルカラーのスーツに、緩い巻き髪。私の姿を見て、少し困ったように微笑んでいる。
「すみませんすみません、うちの娘が……!」
妙な空気に耐えきれなくなった私の父が、後ろから頭を押さえつけてきた。
「……っ。何するのよ! 痛い!」
強制的に頭を下げさせられ、私は抗議の声をあげる。父のオロオロした態度で、私は直感した。
――彼らはどうやら、見合い相手の両親なのだ。
隣の部屋で待たれている。確か父はそう言っていた。廊下に出るつもりで開けた障子が、よりによって見合い相手が待つ隣の部屋に通じていたとは。
「あらあら、元気な娘さんね。私どもは構いませんわ。どうぞ頭をあげて」
老夫人の言葉で、父は私の頭を押さえていた手を離す。それでも、私は顔を上げることができなかった。この薄い障子だ。先ほどからのやりとりも、全部筒抜けだったに違いない。穴があったら入りたいと、心の底から思った。
「すみません……」
あの横柄な父が柄にもなくうなだれている。悪いことをしたような気がして、私の良心にチクリと痛みがはしった。しかしすぐに思い直す。そもそも悪いのは強引に結婚話を進めた父だ。
私はバンドのある大学生活を楽しみたい。どこの誰とも知らないような男――それも金持ちのひ弱な坊ちゃまと結婚なんて、絶対にしたくない。
「あの……聞いておられたかもしれませんが、これは父が勝手に進めたことです。私――」
私、結婚なんて絶対にしません。
覚悟を決めてそう言おうとして、私は言葉につまった。あんぐりと口を開け、目を見張る。座っていた三人のうち、真ん中にいた男と目が合ったのだ。
「……へ? アル? 何で……?」
そこにいたのは、二十歳になるかならないかくらいの若い青年だった。背筋を伸ばし、肩の力を抜いて堂々と座っている。スッと通った目鼻立ちに、少年のように幼い笑み。温厚そうな目元は、隣にいる老夫人とそっくりだった。彼は私の突然の乱入にさして驚いた様子もなく、穏やかに微笑んでみせる。
「奇遇だね、サクちゃん」
彼――アルこと桐村 灰次は、私が所属するバンドのリーダーだった。
「趣味は和楽器ですの? まあ素敵。ね、あなた」
「うむ」
老婦人が話題を振り、その夫は重々しく頷く。
「ありがとうございます。いやあ、うちの娘なんてまだまだです」
私の父はペコペコして相手方のご機嫌をとっていた。当の私といえば、呆然としたままだ。予期せぬ事態に困惑して、思考回路が知恵熱で爆発してしまったらしい。そんな私の隙をついて、父たちは勝手に見合いを始めた。もちろん子に発言権はない。私だけでなく彼――アルも、微笑みを浮かべて相槌を打つだけだ。話題の中心にいるべき張本人たちを置きざりにして進む見合いに、私は今更ながら危機感を覚えた。
私は机に手をおくと、勢い良く立ち上がった。
「どうした……?」
隣に座った父が、不安げにこちらを見上げてくる。私はおしとやかに微笑んで言った。
「失礼します。ちょっとお手洗いに」
そして、アルに鋭い眼光を送る。親たちに気づかれないように配慮する余裕はなかった。アルはこちらを見なかったが、背筋にはゾクリと寒気を感じたらしい。ちょっと来い、という意思は通じたようだ。
「あ……すみません。僕もちょっとお手洗いに……」
その言葉を背中で聞きながら、私は廊下に出た。ひんやりと漂う風が、暖房に慣れきった頬を冷やす。庭の美味しい空気を堪能しながら、私は数歩進んだ。背後でピシャリと障子が閉じられる。私から少し遅れて、彼がついてきた。
「――にしても、まさかこんなところでサクヤに会うとは思わなかったなあ」
にはは、と脳天気に彼――アルが笑う。私は苛立たしげに振り返った。
「それはこっちのセリフ。何やってんのよ、こんなところで」
「何やってるって、サクヤとお見合いだよ?」
「そんなことは聞いてない!」
部屋にいる親たちに聞こえないよう、小声でやりとりを交わす。
「でも、こんなところ呼ばわりは酷いな。ここは俺の実家だ」
「へ……そうなの?」
アルはどうやらかなり金持ちの家に生まれたらしい。意外だったけれど、納得できた。金持ちの坊ちゃまとして育てられたから、こんなにものんびりとした性格になったのだろう。私が感心していると、アルは困ったように頭をかいて要点をさらりとまとめた。
「うちの親は強引だからね、無理やり正装させられて、気づいたらこの状況だった。正直なところ、何がなんだかさっぱりだよ」
「ああ、素晴らしく私と同じ状況ね……!」
私は、見合いの相手がよく知った彼だということに安心する。そしてどうやら、彼は私とまったく同じ立場にいる同士だ。仲間だ。
「――ところで『サクヤ』ってあだ名だったんだ? みんながそう呼んでるからてっきり本名かと」
「……本名よ」
私が小さく言うと、アルは首を傾げる。
「ん? ああ、作屋建設のお嬢さま……だったっけ? 作屋だからサクヤか。そのまんまだ」
「じゃあアルは? みんなアルって呼んでるけど、本名と一字も合ってないわよね?」
「小学校の時からのあだ名だからな……俺の名前、灰次だろ。ハイジ、だからアルプス。んで、略してアル」
「うっわー何その微妙な連想ゲーム」
思わずくすりと笑えば、アルは少しムッとする。
「微妙で悪かったな」
「別に悪いなんて一言も……ってこんな雑談してる場合じゃない!」
私は我に返った。そろそろ、お手洗いにしては遅いと不審に思われるような時間だ。
「ああ、でも見合いの相手がアルでよかった! これが不幸中の幸いってやつね」
「……どういう意味だよ?」
複雑そうな顔で尋ねられて、私はあっさりと返す。
「そのまんまの意味よ。共同戦線を張って戦える仲間ができて私はすっごく嬉しいの」
アルはいつでもマイペースだ。肩の力を抜いて生きている……とでも言えばいいのだろうか? 私より一つ年上だが、先輩だということをまったく感じさせない。大らかなアルと話していると、いつも安心感があるのだ。のんびりしてるように見えて芯は強く、バンドのみんなをまとめあげている。そんなアルが仲間なら……なんだか勝てる気がするのだ。理不尽な親たちに。
「ん? いまいち意味が分からない……」
わかってくれないアルに、私は質問を投げかけた。
「ねえ、アルは彼女いたっけ」
「いないけど、いきなり何?」
アルは不審そうな表情になる。私はホッと胸をなで下ろし、次の質問に移った。
アルに彼女がいないとは、少しだけ意外だった。頭も顔も悪くないし、性格がよく友人も多い。学業やバンドにのめり込んでいるせいで、他のことに目を向ける余裕がないのかもしれない。
私は遠慮なく次の質問をぶつけた。
「じゃあ、好きな人とか、いる?」
「えっと……」
「いきなりでごめんね。いる? いない?」
私の質問に答えられずに顔を紅潮させた様を見れば、答えはすぐにわかった。
「いるのね? ね?」
「ま、まあ、一応な……」
それだけ確認すると、私は演説をし始める。
「なら、今回の話になんか納得できないわよね? 私たちはまだまだ青春真っ盛りなの。二十代といえば人生の黄金期よ。そんな時期を無駄に過ごしていいと思う?」
「いや、結婚イコール人生の無駄ってわけじゃ……」
「じゃあ何よ? アルは親のいいなりになって結婚するの? 嫌よね、そんなの。私たちは子どもじゃない。家の都合のいいように動く歯車なんかじゃない。見てろよ親父い! 私たちは戦ってやる! 絶対負けないから!」
「……もしかして私たち、って俺も入ってる?」
アルが恐る恐る聞いてくるから、私はため息混じりに頷いた。
「当たり前よ。さあ、どうやってこの見合いをぶち壊すか、二人で考えましょ」
「ああ、そうか。サクヤはそういうつもりなんだ。この見合いをぶち壊したいんだ……」
アルが何かを諦めたような口調で、私の意思を確認する。
「へ? アルもそうじゃないの?」
「いや、俺は別に……」
歯切れ悪く言うアルに、私は半ばつかみかかるようにして言った。
「何言ってるの。諦めないで! 一人より二人で戦うの! アル、好きな子がいるんでしょ? なら許せないよね、親に勝手に相手を決められるなんて。だったら諦めないで戦わなきゃダメ!」
「……それは、その……えっと」
アルは至極頼りなく言う。私は語調を荒くした。
「その、何よ?」
「その……見合いの相手によるというか……」
アルは意味のよくわからないことをつぶやいている。私は細く長いため息を吐いた。
「ここで話していても埒があかないわ。どこかに落ち着いて話せる場所、ない? とっとと計画を立てなきゃ」
勢いよく障子が開く。中から顔を出した父と目が合った。私とアルが話し込んでいる様子を見て、父は口に深い笑みを刻む。
「ほほう、計画とは一体何のことかな?」
「人生の計画ですっ!」
「サクヤのうそつ……」
言いかけたアルの口を、私は慌ててふさいだ。
「親密そうだな。結構、結構。ゆっくりと今後のことを話し合うがいい」
父はニヤニヤしながら扉の向こう側に引っ込んでいく。私は再度、大きなため息をついた。
「若い男女が二人で人生の計画……完璧に誤解されたね」
「アル、あんたを殴っていい? わかってる? これが人生の大問題だって」
私は握り拳に息を吹きかける。アルは相も変わらず呑気に笑った。
「わかってるわかってる。大問題だなー」
「先輩は何もわかってないということがよくわかりました」
私はアルに頼るのを諦めて、自分の頭だけで計画を練る。――思えば、最初に会ったときからアルはこんなだった。
(そこの君キミ、バンドに興味ない?)
入学式の後、コチコチに緊張していた私に、和やかな声がかけられたのだ。
(綺麗な指だね。何か楽器やってたんだ?)
のほほんとした笑顔にほだされて、私は軽音部の部室についていくことになる。
初めて聞いたアルの歌は、一言で言い表せないくらい衝撃的だった。耳にでもなく腹にでもなく、頭に直接響く声。激しくて穏やかで、心に心地よい旋律。アルの歌は、上手いの一言で言い切ってしまうのがもったいないくらいに上手かった。技術や歌唱力の問題じゃない。不思議と心に訴えかけてくる音色に、私は心底憧れた。
「歌っているときの先輩は格好いいのにな……」
「何か言った?」
「何でもない」
アルは訝しげな表情を浮かべたが、私は首を振ってごまかす。
――見合いの相手がアルでよかったというのは、正真正銘ホントの気持ちだ。
ほんの少しだけ、抵抗を止めようかという気持ちもある。けれどやっぱり、私のことを好きじゃない人と結婚するなんて嫌だ。
――例えばそれが私の好きな人だったとしても。
私は覚悟を決めて薄く微笑んだ。最後の最後まで抗ってやる。それがアルのためにもなるのだ。
「もう何でもいいや。一緒に走って逃げよう」
私はアルに手を差し出した。そして握ってくれるのを待つ。走るだなんて、笑ってしまうくらいアナログな脱出手段だ。
少し戸惑った後、アルは手を握り返してくれた。
「ガレージまで歩けば車があるよ。なんならタクシー呼んでもいい」
「ありがとう。……どこまででも逃げ切ろうね」
親の敷いてくれたレールはありがたいけど、私たちは私たちの道を歩く。
「ああ。ここまで来たら付き合うよ。サクヤがそれを望むのなら」
アルは少し淋しそうに微笑んだ。風が涼しくなっていく中で、握った手だけが温かい。
私たちは渡り廊下をそっと抜け出した。見咎められないように細心の注意を払って進む。広々としたアルの家の庭は、噴水のある公園のようだった。
「なんかこの状況さー、事情を何も知らない人から見たら、駆け落ちしてるみたいだよな」
そう言ってアルは掴みどころのない柔らかな笑みを浮かべた。私はギョッとして立ち止まる。
「もういっそこのまま駆け落ちする?」
「アルのばか。大バカ!」
私は動揺を必死で押し隠して、それだけ答えた。
冷たい風の手のひらが、火照った頬をひんやりとなでていく。
「あはは、冗談だよ。ところで、ずっと気になってたんだけどさ。サクヤって」
珍しく言いづらそうにアルが口を開いた。私は黙って次の言葉を待つ。
「サクヤって……サクヤの好きな人って、誰?」
私は口をぽかんと開けた。答えが頭の中にふわりと浮き上がる。
――言えるわけがなかった。
私はやり場のない恥ずかしさのようなものを、怒りに変えてアルにぶつけた。
「な、何言ってんの、ふざけているの?」
「まあね、ふざけてるよ」
アルの表情は相変わらず飄々としている。しれっとした言葉を聞き、私は頭を抱えた。目の前の先輩が何を考えているのか、まったく読めない。
「冗談だよ……って、サクヤ後ろ!」
「へ?」
アルが緩んでいた表情を急に険しくした。何事かと振り返った私は、後ろにいた不審人物を目にする。どこかで見たようなスーツ姿の、大柄な男がすぐそばに立っていた。帽子を深々とかぶっているせいで、表情はよくわからない。
瞬きほどの間に、私の喉元には物騒なものが突きつけられていた。
「ひゃっ……」
喉に触れた冷たい感触に、思わず悲鳴を上げかける。
「動くとどうなるか、わかるかね?」
男が低く押し殺したような声で言った。私は震える声で答える。
「わ、わかりません」
「よろしい。ならば、動くな」
私の後ろの茂みから、大人二人が姿を現した。私は眼球だけを動かして様子を確かめる。現れた二人も、不似合いな帽子を深々とかぶっていた。
「何やってるんだよ、お前ら。サクヤを放せ!」
アルが鋭く言う。これまでに私が一度も見たことのない、とても険しい表情だった。
「お前らの目的は何だ?」
アルが言いながら一歩進む。男は楽しげな笑みを口に刻んだ。しかし、質問に対する答えは返ってこない。
「目当てはうちの金か? なら外れだな。彼女はこの家とは一切関係ないんだ」
アルが軽い調子で嘲るように言った。男は私に刃物を突きつけたまま微動だにしない。アルの様子を静かにうかがっているようだ。
私はただ刃物に対する恐怖を抑えるのに必死だった。
(助けて……!)
届くかわからないけれど、私は目に精一杯の力をこめる。アルは、ふう、と諦めたような長いため息を吐いた。
「ちきしょー」
軽く舌打ちして、アルはさらに足を進める。両手を軽くあげて降参の意志を示すと、強張った頬で笑った。
「――俺は桐村 灰次。この家の長男だ。うちに何かあるのなら、俺を人質にとれよ」
「何、言って」
私は途中で口をつぐんだ。喉元に当たっている刃物がいやに冷たい。見れば、男は笑いをこらえるかのように唇を結んでいた。
「人質なら俺がなる。だから彼女を解放しろ!」
アルはいつになく真剣な表情で、まっすぐに男と対峙する。
「人質交換か。いいだろう」
低く唸るようにして、男が言った。
「両手をあげてこっちに来い。ゆっくりだ」
アルは男の指示に従って歩き始める。その唇はきつく結ばれていた。
「アルのバカ! 何で言いなりになってるの? 私は放っておいて逃げて!」
男の目的が桐村家の金なのだとすれば、私に利用価値はない。けれどアルが人質になってしまえば、桐村家はどんな要求にでも肯かざるをえなくなる。
私の言葉を聞いて、アルは軽く柔らかい微笑を浮かべた。
「サクちゃん、男には退けない時っていうのがあるんだよ」
「でも……」
「誰に何と言われても――好きな子が刃物突きつけられているのに、逃げられるかよ」
男が私を解放してアルの腕をつかもうとする。その一瞬で、形勢は逆転した。
鋭く息を吐くと、アルは大きく踏み込んだ。男が驚きに表情を変えるよりも早く、正確な一撃が男の手の甲を打つ。男は痛みに顔を歪めると、手を押さえてよろよろと数歩後ずさった。手から叩き落とされた刃物が、音もなく地面に転がる。
「サクちゃん、後ろに下がってて」
アルが言うけれど、素直に従うような私じゃなかった。私は手を鳴らしながらジリジリと男に近づく。
「この作屋 蓮妃を人質にとるなんて、いい根性してるじゃない。お礼はたっぷり三倍返しよ」
「ひぃっ……誤解だ、すまん! た、頼むから命だけは!」
男は恐れおののいて無様に命乞いした。どこかで聞いたような、情けない声だ。私は男に妙な既視感を覚えた。
「サクちゃん怖いよ。その辺で止めてあげたら? 親孝行は忘れずにね」
見かねた先輩が、後ろからやんわりと私を止める。見れば、アルは薬を噛んでしまった時のような苦々しい笑いを浮かべていた。どうやら、私の直感は当たりだったらしい。
「やれやれ……誰がこんなじゃじゃ馬娘に育てたのやら」
憔悴しきった表情で、男が頭にかぶった帽子をとった。その下から現れた顔は――。
「これはどういうことなの? お父様」
「いやー……あはは」
私はこめかみを押さえて聞いた。男――私の父、作屋 和麿はごまかすようにして曖昧に笑う。
「その……ずいぶん君たちがずいぶん親しげなのは様子を見ていればわかった。けれど、親としてはどうしても不安でな……灰次君が本当に蓮妃のことを好きなのか」
「へ?」
「立案は私だ。騙してすまなかった。怒られても仕方ないな」
私が困惑していると、後ろから低く穏やかな声が聞こえた。
「父さん? 母さんまで! どういうことだよ」
アルが驚きに目を丸くする。振り返った先には、桐村夫婦がかぶっていた帽子をとって立っていた。
「私たちも、灰次から話は聞いていたけれど、それでも不安だったの……蓮妃さんが本当に我が家に相応しいお嬢さんなのか」
「うむ、けれどよかった。あの状況で、自分を放って逃げろと言えるなんて……彼女みたいないい子はめったにおらん。合格だ」
「え? あ、ありがとうございます」
私は何が何だかわからず、とりあえず誉めてもらったことに対して例を言った。
「試すようなことをして、悪かったと思っているよ。灰次も、蓮妃さんも」
「は、はあ……」
アルと私は言葉もなくうなずく。どうやら、イタズラ好きの親たちが意気投合し、一芝居うったらしい。
「でも灰次もさすがねー。ばっちり告白聞いたわよ」
「母さん!」
アルが顔を赤くして怒鳴る。私は、アルの顔をまともに見られないことに気づいた。
(好きな子が刃物突きつけられているのに、逃げられるかよ)
私は確かにこの耳で聞いた。思い出して、顔がカッと熱くなる。
――好きな子。
聞き間違いじゃなければ、アルはそう言ったのだ。
――私、は……。
私はどうなのだろうか? そっと両手をあわせて考えてみる。
アルは先輩で、育ちがよくて。春の海のように穏やかな人で。アルがいたから、あの歌を聞いたから、私はバンドに入った。新しい世界を知ることができた。そういう意味では、とてもとても大事な人だ。
(ん……?)
私はそこまで考えて、口をへの字に曲げる。今、とても重大なことを思い出したような気がした。
「あ……アル!」
私は『それ』を思い出して、大声をあげる。
「ライブ!」
その三文字ですべてを悟ったアルは、しまった、と顔を青くした。慌てて腕に目をやる。
「やべ……サクちゃん、走れ!」
「ちょっと待ってよ。私、着物」
私の声も聞かずにアルが全力疾走しだした。あまりに突然の事態に、桐村夫婦も私の父も困惑するばかりだ。
私にはここがどこだかわからない。けれどアルの様子を見ていれば、ヤバいということは充分に伝わった。
小さな歩幅で、精一杯アルの背中を追う。意外と大きなアルの背中は、すぐに見えなくなった。と思えば、建物の影からいきなり自転車が現れる。
「サクちゃん、乗って」
運転席に座ったアルが、切羽詰まった表情で言った。私は言われた通り、横を向いて荷台に腰掛けた。
「飛ばすから、しっかりつかまってて」
アルの声が聞こえたと思ったら、自転車は急発進した。屋敷を出てしばらく行けば、そこにあるのは夕暮れの河原だ。冬の澄んだ空気を切り裂くようにして自転車は進む。二人分の影は、とても長い。
「ごめん、俺、嘘ついたんだ」
ペダルを猛スピードでこぎながら、アルが言った。
「嘘……?」
「最初の、親に強引に連れて来られたってやつ。あれ、大嘘だ」
「そっか……私もね」
私はくすぐったいような嬉しさをかみしめて微笑んだ。水面をなでて届く涼風が心地いい。

「私も本当は、言ってないことが一つあるんだよ……」

白々と澄み渡る十二月の空に、一番星が瞬いた。