現代短編小説「ガラクタの旅路」

(C)ジュエルセイバーFREE

そのとき、その瞬間、「僕」は死んだ。人の命って、なんて粗末なんだろう。ちっちゃくて、はかなくて、そしてもろい。
そんなことを嘆くほどの時間もなかった。
「僕」は驚いて目をまん丸くする。背中に当たったフェンスが軋み声を上げて、何もない宙に倒れたのだ。
ゴボウみたいにやせこけた「僕」の体。それさえ支えられないなんて、フェンス失格だ。失格だから、その罰が下った。「僕」と一緒に地上へ堕ちる。
硝子玉のように大きく光る「僕」の瞳は、優しく微笑んでいた。
――どうして?
息ができなくなって、泣きたい気持ちになる。叫びだしたいこの気持ちを、なんと呼べばいいのか分からなかった。
この高さから地面に叩きつけられれば、いくら運がいい人でも複雑骨折は避けられない。ましてや「僕」は力の尽き果てた病人なのだ。頭から真っ逆様というこの体勢で落下して、助かるはずがない。「僕」は死ぬ。それはだけは、絶対。確実。変えられない運命。それなのに、「僕」の表情は穏やかだった。まるで愛する人に囲まれて死んでいく老人みたいだ。
だが「僕」はまだ、この時代における平均寿命の三分の一も生きていない。しかもその人生の大半を費やして病気と戦ってきた。痩せ衰えて枯れ木のようになった体に、若さは微塵もうかがえない。
楽しいことなんてこれっぽっちもないと言った。
人生は苦しくて、寂しくて、そして悲しい。
「僕」は病室の窓辺に立って、静かにそう言ったのだ。それなのにどうしてこうも簡単に生を手放せるのだろう。どうして、こんなにも幸せそうに微笑むことができる。どうすれば、まるで人生に不満なんてなかったとでも言うように笑えるのだろう。
胸の奥が締めつけられた。目の前がクラクラする。息ができなかった。
薄雲を突き破って届く日差しは、視界を白く眩ませる。乾いた地面の上にじわじわと広がる血は、薔薇のように鮮やかだった。
「僕」の瞳を見下ろして、じっと、ずっと、立ち尽くす。心の奥に小さな棘が刺さって、抜くことができなかった。
「僕」の最後の微笑みが、あまりにもまぶしすぎて。
ただただ、まばたきを繰り返すことしかできない。
灼熱に燃え盛る太陽の下――こうして、「僕」は殺されたのだった。

「――では、逝け」
上司の厳粛な指令を聞いて、私はフードの縁を押さえた。
予想していた通りの巨大な空気の渦に私は包まれる。押さえられるのは、顔を隠すフードだけだ。足元のローブは自分勝手にバサバサとはためいた。
風と呼ぶには激しすぎる空気の濁流に襲われて、私の体は宙に浮かぶ。足が浮いているような頼りない感覚は、何度経験しても慣れることができなかった。
仕事場所への移動の時、私の上司は「逝け」と言う。普通は逆じゃないかなと思うのだが。天上と地上とを移動するときには、そう言うのがいいそうだ。
私は移動が済んだのを感じて、恐る恐る瞳を開けた。状況を確認するために、まずは辺りを見回してみる。ざわざわとした空気に無理やり静寂を塗り込めたような、それは奇妙な空間だった。
でも、私は知っている。四方を囲んだこの白くて無機質な箱は「建物」だ。
手にした重たい鎌を、私はギュッと握り直す。
これまでのことは何一つ覚えていなかった。そして、これからのこともきっと覚えない。
――この時はそう思っていたけれど。
未来は、そして過去は、どこまでも予測不可能だ。
「……ねえ、そこの君、そんな格好して暑くない?」
少し高い声が聞こえて、私は何気なく振り返る。そこには一人、人間が立っていた。若草色のパジャマに、薄手のカーディガン。私といい勝負じゃないかと思うくらいに痩せ細った肢体。筋肉も脂肪もほとんどない体は、いつ倒れてもおかしくなさそうだった。黒髪はとても短くて薄い。スリッパを履いて、窓際の手すりにつかまっている。健康な人間の持つ覇気が全く感じられない代わりに、瞳だけはやけにキラキラしていた。
「無視しないでくれるかな。僕は君に話しかけているんだけど」
その人間は、血色の悪い唇を開いて妙なことを言う。思ったよりも若くて高い声だったのが気になった。嫌な予感がして振り返ってみるが、そこには誰もいない。
「君だよ。今振り返った、そこの暑そうな格好した君」
信じられないことに、その人間の瞳は真っ直ぐに私を見ていた。
「……私?」
思わず目をぱちくりさせて問う。かの人間は、至極当然のように頷いた。どうやら私は、珍しい状況に遭遇してしまったらしい。
「そう、君。暇だろうから、ついてきて」
こんなことを言われるのは、初めてだった。
ノロノロとついていった先は個人の病室。その人間は入院していて、病状もあまり良くないのだろう。その人間が腰掛けたベットの横に、私は混乱しながら立った。
というのも、普通の人間に私たちは見えないからだ。
黒くて長いローブに、顔まで覆い隠すフード。手には命を刈り取る身の丈ほどの大きな鎌。
――死神、と。
地上の人間は、私たちをそう呼ぶ。
「君、名前は?」
「私……私は私」
名前、だなんて知らない。生きていた時にはあったのだろうが、死んだ時に失った。
「じゃあ、貴方は」
「僕? 僕は僕だ」
何がおかしいのか、その人間――「僕」はくすりと笑む。
根ほり葉ほり質問され、私はとりあえず全てに答えた。
私は魂の回収をしている。それだけの事実なのに、「僕」は偉く感動していた。
「じゃあさ、死神が見えるってことは、僕はもうすぐ死ぬのかな」
あまりにも答えにくい質問に、フードの下の表情を硬くする。それを察して、「僕」は、カラカラと軽く笑った。
「あ、別に気にしないよ? もういつ死んでもおかしくないってことくらい分かってたし、ね」
仕方なく、私は頷いてあげる。死神としての本能でわかっていた。今回のターゲットは、私のそばで笑っている。
「……今日、二時四十六分」
私は、ぼそりとつぶやいて質問に答えた。「僕」は悲しむでもなく、天候の話でもしているかのように平然と頷く。
「ああ、僕の死ぬ時間ね。そうか、今日、死ぬのか」
こんなにもアッサリした人間は初めてだった。
いくらターゲットと言っても、普通なら死神なんて見ることはできない。「僕」は変わった人間だと、私はそう思った。
「その時間になったら発作を起こして死ぬんだね、僕は」
「……死因は知らされていない」
「ふーん、そうなの」
ため息をついた「僕」は、力強い瞳で前を見据える。野生動物のようにぎらついた瞳は、口から出る言葉と不似合いだった。
「よし、じゃあ、死にに行こうかな」
意味が解らない。
押し黙った私を前に、「僕」は妙なことを始めた。ベッドの脇にある棚を開けて、服らしきものを無造作に引き出す。さして時間もかけずに選んだ服を、「僕」はパジャマの下に入れた。
「どう?」
「……さあ」
どう、と聞かれても困ってしまう。
服によってどことなくお腹が膨れている様は、不格好なものだった。
私は以前に魂を狩った子どもの姿を思い出す。私や「僕」よりも痩せこけた幼児は、人というより骨と皮でできた不気味なオブジェだった。詰め物によってお腹だけがプクリと膨れている「僕」は、あの時の幼児と似ている。
あの時といっても、いつのことなのか私には分からなかった。時間という概念があるのは地上だけで、死神は時間と無縁だ。あの幼児の死は過去にあったことなのかもしれないし、これから未来で起こることなのかもしれない。
「まあいいや、行こう」
病室を出て、「僕」は歩き始めた。どうせ暇だから、私も何ともなしについていく。「僕」の歩く速度は遅くて、亀みたいだった。
「ねえ、死神って、いい仕事だね」
「……意味が分からない」
やはり「僕」は奇妙な人間だと思う。
そもそも、私の仕事はいつだって無言だった。ターゲットから話しかけられた経験なんてないから、どうすればいいのか困ってしまう。
「この世界に、絶対に必要な仕事なんでしょう。必要とされているものは、みんな良いものなんだ」
私はいつもうつむいている頭の角度をさらに下げた。
「いいか悪いかなんてない。死神は世界の歯車の一つにすぎないんだ」
何度も上司から言われた言葉を唇にのせる。
歯車は考えなくていい。何も想わなくていい。なのに、どうして私は尋ねてしまったのだろう。
「じゃあ、必要とされないものは、悪いもの……?」
どうしてか、胸の奥が痛かった。変なの、私に感情なんて必要ないのに。
「僕」は何も答えなかった。
向かった先は一階のトイレ。「僕」はそこで着替えるらしい。重病だから本来なら勝手に病室を出てはならないそうだ。そんな規則もどこ吹く風、着替えを終えた「僕」は涼しい顔をして廊下に出てくる。しかし堂々とエントランスを出ようとした所で運悪く捕まってしまった。
「速水さん?」
顔見知りらしい看護師さんが、「僕」を見てきょとんとする。次の瞬間、顔を真っ赤にして寄ってきた。
「ちょっと、その格好は何なの? 病室を勝手に出たりしたら駄目じゃない」
叱りつけられて、「僕」は唇をかみしめる。
待ち合いに座った患者たちが、何事かとこちらを伺っていた。大学病院、という単語が私の頭に浮かんでくる。これは生前に得ていた知識だろうか、死後に得た知識だろうか。
「はい? 何のことですか? ハヤミって誰さー?」
「僕」のとった行動は、単純明快。馬鹿みたいにおどけてしらばっくれた。
――おいおい。
似た人間だなんて言い訳は通用するはずがない。なんせ異常に痩せた「僕」は、どこからどう見ても病人そのものだから。
だが迫真の演技に圧倒された看護師は、数秒の隙を「僕」に与える。まんまと歩いて看護師とすれ違った「僕」は、一目散に駆け出した。
「ちょ、止まりなさい! そんな走って発作が起きたら」
甲高い声を聞き、「僕」は自嘲するかのように口端を上げる。
「発作が起きたら、ちょっと死期が早まるだけだ」
とうとう追っ手が「僕」を捕まえることはなかった。彼らにもそれぞれの仕事がある。他の患者の手前、走って追いかけることもできないのだ。
病院から二、三分走って公園にたどり着き、「僕」はようやく足を止めた。空を仰いで、公園中の空気を独り占めするような勢いで深呼吸する。
都会にある割には、自然が多い公園だった。遊具は二、三しかなくて、代わりに散歩用の道と噴水がある。飽きもせずに形を変えて循環する噴水は、新緑の空気の中に透き通っていた。
私の視界はぐらりと揺れる、揺れる。この景色を、この水の流れを知っている気がした。
「あはは、逃げてきちゃった。僕にもこんなに走る力があったんだねえ」
「僕」は私が何も言わなくても言葉を続ける。こちらからの返事は期待されていないようだ。
「僕ね。外の空気を吸うの、実に七年ぶりなんだ。すごいでしょーっ」
無邪気な表情をつくって、「僕」は誇らしげに笑った。私は無言で返す。同情も憐れみも、「僕」は必要としていなかった。
私は空気。ただそこにいるだけの存在。それ以上でも、それ以下でもない。
ベンチの背もたれに体を支えてもらいながら、「僕」は訥々と語った。これまでの短い人生のこと。そして治らないと言われている病気のこと。
驚いたことに、「僕」はまだ十六歳らしい。砕けた話し方から予想はしていたが、外見と実年齢のミスマッチっぷりが半端じゃなかった。
「僕のお父さん、お金持ちなんだ。それなりに。んで、情けないことに二号さんがいる」
感情を込めない淡々とした言葉たち。一人ごとだとみなして、私はその場に立ち続ける。
「二号さんは強引でね、怖くてね。遺産のためなら僕の一家を殺害しそうなくらいなの」
「僕」の両親は何とかして二号さんから財産を守ろうとしていた。浮気症な父が悪いとはいえ、もとはといえば仲のいい夫婦なのだ。二号さんは両親の敵で、両親は二号さんの敵だった。
「それでねー、二号さんはね、もともと財産目当てだったの。騙された父さんが馬鹿だったの」
財産目当ての二号さんは、何とかして自分の息子を跡継ぎにしようとする。もちろん、二号さんの息子というのは「僕」の父との間にできた子だ。
「でさー、その男の子、僕と同い年でね。小学四年生の時なんて、同じクラスだったの。笑っちゃうでしょー?」
「……笑えないと思うが」
疑問形で聞かれたので、とりあえず答えてあげた。
正妻の子と愛人の子が、小学校で同じクラスになる。これのどこに笑える要素があるのか、逆に私が聞きたかった。
「うん、笑えない。でさ、僕には重圧がかかるのね。両親から。絶対、ゼッタイにあの子には負けるな、と」
どこか遠いところを見ながら、「僕」は優しく笑う。
「両親の期待に答えるために必死で頑張ったよ。あっちも多分、そうだったんじゃないかな。ことあるごとに恐い目で睨んできてたから。でもさあ、考えてみたら馬鹿みたいじゃない? そういうの。妻二人と夫一人のドタバタに、子どもを巻き込むなっての」
そう言って「僕」は立ち上がる。私にも何かが分かった気がした。
「……そういうのが不満だったから、文句を言いに行くのか?」
「僕」はしばらく考えて、力なく笑った。
「そうかもしれない。うん、そうだね。文句を言いに行こうかな。これで多分、会うのも最後だしね」
死神が近くにいて、余命いくばくもないと宣告されている。そんな状況なのに、「僕」は泣きも叫びもしなかった。
「さあて、捕まらないうちに行こうかな。人生で一番、最後の旅に」
「僕」は迷いながらも近くの駅を目指して歩く。病室の棚から持ち出した財布で、割と高価な切符を買った。どうやら生まれ育った家、両親のところに行く気らしい。
「……馬鹿だねえ」
頬杖をついて窓の外を眺めながら、「僕」はつぶやきを落とした。
「最後だってのに、したいことが何も思いつかないや。馬鹿だねえ」
愛人との間に子を作った最低な父親。ヒステリックに叫ぶだけの母親。
――人生の最後なのに、会おうと思って頭の中に浮かんだ人間はその二人だけ。
「泣く気にもなれないや。僕の人生って所詮はそんな程度だったんだ。……ねえ、明日になれば泣けるのかなあ?」
静かにつぶやいていた「僕」だが、隣の席に人が座ると口を閉じた。病院からの道のりがきつかったらしく、窓に頭をもたれさせて寝息を立て始める。年相応にあどけない寝顔を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになった。
私は「僕」の脇の通路に立って、窓の外を見る。日はほんの少しだけ傾き始めていた。
ガタンゴトン。
規則正しく車体が揺れると共に、幾多の建物が猛スピードで駆け抜けていく。ぼんやりとする頭の中に色のない景色が入り込んできた。 声が聞こえる。この身を切り裂く絶叫。責めるような怒鳴り声をあげて男女が激しく争っていた。
一人の少女が、体を縮めて物陰からその様子をうかがっている。
『お前が目を放して置いたままにするから、だから琥珀は病気になったんだ!』
『何をたわけたこと言ってるの。目を離したのは、あなたじゃない!』
『ふざけるな! 琥珀が病気だからあの女につけこまれるんだ。どうするんだ? 琥珀に何かあったら、あの女の思う壺だ』
『勝手なこと言わないでよ。もとはといえばあなたが悪いんでしょう!』
少女は自分の膝を抱きしめて、息を絞り出すように泣いていた。細い肩も、やはり小刻みに震えている。
怒鳴り声が聞こえる度に、心がすくんで小さくなる気がした。
――早く終わって。早く、早く!
少女の両親が言い争うのは、もう毎晩のことだった。
「やめて……やめて……お願い。ぜんぶ私が悪いの」
うわ言のように、少女は許しを乞い続ける。
――私がいるから、ぜんぶ駄目になったの。私が、私が。
私の頭の中で、何かが熱を持って蒸気を出している。視界はぼやけて、何か悪い夢を見ているかのようだ。
「おーい、大丈夫かい?」
「僕」に顔を覗きこまれて、ハッとした。一瞬だけ、泣いていた少女と「僕」の顔が重なる。
――あれ、じゃあ、今のは「僕」の記憶だった……?
電車をおりて、駅前の小さな商店街に向かった。寂れた田舎町の割には、人間たちで賑わっている。
私はふと立ち止まった。ショーウィンドウの向こうから、一人の死神が私を見つめ返してくる。
「どうしたの、ガラス、珍しいの?」
「僕」は不思議そうな顔をして私に尋ねてきた。
「死神さんって、色々な場所で仕事するんだよね。もしかして日本に来たことないの?」
「いや。ただ、仕事をする場所も時間も何もかもバラバラで、上司の気まぐれで決まっているんだ。日本に来たことは何度もあるよ。この時代は……どうだったかな」
ふーん、それは新鮮で楽しそうだね、と「僕」は言う。私には目の前の人間の思考回路が理解できなかった。楽しいと思った経験なんて、私には一度もない。
「奇妙な人間だね。死神になれば分かる。果てぬ時の中をさまようのは、苦痛でしかない」
「へえ、じゃあ君にとっては、今こうしていることが苦痛なの?」
「いや、もう慣れたさ。苦痛に思う気持ちすら麻痺したよ」
そう言って苦笑して、頬の筋肉が引きつっていることに気づく。そういえば、ずいぶん長く笑っていなかった。
「そっかぁ、僕は死神でも何でも、なれるものならなりたいけれどね。病室から変わらない景色を見る以外のこと、したいんだ」
私と同じように「僕」も退屈していたのだろうか。生きていても死んでいても、みんな大差ないのかもしれない。
「今、してる」
私がそう言うと「僕」はきょとんとして、それからコクリと頷いた。
「うん、してる。こうして外を歩いて、空気を吸って、色々なものを見て。うん、そうだね」
――僕は幸せだね。
痩せこけた「僕」は、そう言って泣きそうな表情で笑う。
「幸せ、か」
ポツリと何かを言いかけて、私は口をつぐんだ。胸の奥にじわりじわりと暗雲が立ちこめてくる。私は肺を押しつぶすようにして息を吐いた。先ほどから何かがおかしい。私が私でないみたいだ。
「変なことを言う、変な人間だね。本当に……。どうして私のことが見える?」
「僕」はコリスのように小さく首を傾げた。
「もしかして、見えないの? 普通の人には、君って」
「当たり前だよ。仕事の対象であっても見えない。普通ならね」
生きていた頃に、私はここに来ていたのかもしれない。
言いながら、一つの可能性に思い当たった。もしかしたら私は生前に「僕」と会ったことがあるのかもしれない。もしそうだとしたなら、この奇妙な感覚にも納得がいく。
――そうだ。私は心のどこかで「僕」のことを懐かしく思っていた。
「ふーん、僕はそんなに変わっている? そう言う死神さんって、なんなのかな?」
「死神は死神だよ。昔は人間だったけどね」
「じゃあ、どうして死神やってるのさ」
時間つぶしのつもりか、「僕」はポンポンと思ったことを聞いてくる。私は上司に向かっているかのように、感情を顔に出さないで答えた。
「この世界で一番の重罪は、自分自身を殺すこと。それを犯せば罰が下る」
「へえ……じゃあ君は」
好奇心を露わにしてしまった後で、「僕」は口をつぐむ。興味本位で持ち出してはならない話題だと思ったのだろう。
気を使わなくても構わないのに、と思う。ちっぽけなことで害すほどの機嫌の良さなんて、初めからないのだし……。
「殺したんだろうね、自分自身を。あるいはこれから殺すのかもしれない。未来のどこかで。でも覚えていないし、覚えないよ」
拒絶するかのように冷たく言い放って、体を浮かせる。
「僕」は、ごめんと言ってうなだれた。そうしていると痩せた体が余計に小さく見える。
表情が見えるはずはないのだが、私はフードを引っ張って頭を下げた。
「ところでさ。どうして顔、隠しているの?」
「深い意味はないさ。日の光がまぶしいからだよ」
「そっか……」
それきり「僕」は何も言わなかった。何かを考えているのだろうが、私の知ったことではない。
真っ昼間を少し過ぎたような時間帯、商店街の賑わいも下火だった。見咎める者が少ないからまだいいが、見えない誰かと会話している「僕」は確実に不審者だ。
「少し行くとね、馬鹿でかい屋敷があるの。そこが僕の実家だよー」
「自分で馬鹿でかいとか言うのはどうかなと思う」
それもそうだねと無邪気に笑って、「僕」はタタタと走り出す。何となく、子どものお守りをしている気分になってきた。置いていかれそうになって、慌てながらに追いかける。死のカウントダウンが始まっているというのに元気な病人だ。
「……勝ったのか。馬鹿でかい家に住んでいるということは」
「ん? ああ、跡継ぎ合戦ね。愛人さんには手切れ金払って縁を切ったってさ」
なら、引き分けだろうか。相手が求めていた金を渡してしまったのだから。
まったく、人間社会というのはドロドロしていて面倒だ。
「そうだ、さっきの話の続き、していいかな」
「どうぞ、ご勝手に」
遺言を聞いてやるくらいの優しさは持ち合わせている。
「僕」は苦笑しながらも口を開いた。
――笑いというよりも、口の周りの筋肉を引きつらせているようにしか見えないのだが。
「僕さ、昔、自殺しようと思ったこともあったよ」
「ふーん」
驚いてあげる気にもならない。ここ最近の人間は、むやみやたらと死にたがり屋が多いのだ。それでなくても「僕」は治る見込みのない重病人なのだから、死にたいと一度も思わない方が不思議だった。
「お父さんとお母さん、いつも喧嘩してた。僕のせいだ。僕がいなくならなきゃと思ったんだよ。あれは、そうそう、小学校四年生の時だったかな」
「僕」は最期だとわかって、自分の中にあるものを語り始める。心を軽くして旅立ちたいとでも思っているようだった。
私は「僕」が死ぬ刻限まで暇なので、黙って話を聞いてあげる。
「入院しなきゃダメだったの。次に発作が起きたらヤバいってお医者さんに言われたの。でもね、僕は入院することを拒否したんだよ」
――死にたかったから。
薄っすらと微笑みながら、「僕」は台本を読み上げているみたいに語った。
「今、考えてみると、それって受動的な自殺だよね。いつ発作があるかもしれないのに……」
「ふーん。それで? それで、うまく死ねたのか?」
私の馬鹿みたいな問いに、「僕」は悲しげな表情を作る。ほんの少し、ドキッとした。
「死ねなかった。……あはは。発作、起きたのに、死ななかったよ僕は」
「僕」は掠れて乾いた笑い声を上げる。なんて、か弱い声なんだろう。
気がつけば「僕」が死ぬまであと一時間もなかった。
巨大な耳なりがして、私は頭を抱え込む。
――琥珀ーっ!
誰かの叫び声が聞こえた気がして、ハッと目を見張った。
「そういえば、さ。発作を起こした時に病院まで連れてきてくれたのが、例の二号さんの息子だったんだ」
おかしいよね、と「僕」は緩く笑う。私は黙ったままで、何を言うこともできなかった。
――今のは何なんだろう? もしかして、私が人間だった時の記憶……?
だとしたら、私は、何をどうすればいいのだ。
「僕」の話は、私なんてお構いなしに進んでいく。
「僕がいなくなればいい。そう強く思っているはずだったのにね。僕を憎んでいる、嫌っている立場の人間なのに」
なのに、愛人の息子は「僕」を病院まで連れて行ってくれた。
敵だったのに。見殺しにしてしまえば、都合がよかったのに。
「応急処置が終わって、病室を出たとき、その子だけが喜んでくれたんだよ。僕が死ななくてよかったって言った」
「僕」は片手を軽くかざして空を見上げる。油の切れた機械みたいにぎこちない動作だった。若いのにつぎはぎやひび割れだらけで、不便そうな体だと思う。
「お父さんとお母さんは相変わらず、僕の発作はどっちの責任かと喧嘩していて、二号さんは僕を死ねばよかったのにって目で見ていたけれども」
でも、救われた気がしたんだ。そう言って「僕」はどこか寂しそうに微笑む。
「誰かに、生きていていいよ、って言われた気がして。生まれてきたことを許された気がして。すっごく、嬉しかったんだよ。……僕、その子のこと敵だとみなしていたのにね。おかしいくらいに優しい人だよね」
私には「僕」が何をしたいのか分かってきた。つまり、自分は幸せだったと信じて死にたいのだ。だから誰かに、この場合は私に、自分は幸せでしょうと問いかける。
「やっぱり君は変わっているな。経済的に発展した社会の人間というのは総じて、すぐに自分は不幸だと口にしたがるものだろう?」
「僕」は首を傾げて、ポツリポツリと言葉を発した。
「まあ、人によりけりでしょう。でも自分は不幸だと言える人は、自分の周りに気づいていないだけだと、そう思うけれどね」
「そうなのか」
「だいたいさ、本当に不幸な人間は、自分が不幸だなんて口にしない。できないよ。不幸だと言える余裕がある時点で幸せじゃないのかなあ」
よくわからない。わからないけれど、「僕」の言いたいことは薄々わかる。
「じゃあ、君は今、幸せなんだな」
「さあね。わからない。考える余裕、ないよ」
「僕」は急に表情を曇らせ、鋭い光を瞳に宿らせて続ける。
「でも、今思えばさ……みーくんにしたって……優しいっていうか……偽善者だよね。結局さ、目の前で死なれるのが後味悪いってだけだよ」
「……偽善者か」
「うん。それでも……ああして名前を呼んでもらえたことは、幸せかな?」
「ずいぶん安い幸せだな。私でよければ、名前くらい呼んでやってもいいぞ」
珍しく軽口を叩いた自分に、驚いた。
「いーよ別にっ。いらない」
「僕」は口を少し尖らせて答えた。幼くてかわいらしい表情を見ていると、「僕」の本当の年齢を思いだす。
――本当はとっても若い。僕はまだまだ生きたかった。幸せに、生きたかったよ。
その瞬間、私の頭の中に白い光がはじける。落雷のような衝撃と共に、圧縮された音が天から降り注ぐような感覚があった。
――じゃあ君は今幸せなんだな。さあねわからない考える余裕ないよ。琥珀。大丈夫か発作が起きたら大変なことに。爆発する時刻の決められていない時限爆弾を抱えて生きていくようなものだと。死神はいいな。誰かにこの世界に必要とされて存在することを許されているのでしょう。きっと僕は言ってもらいたかったんだよ誰かにそこにいてもいいよと許されたかった。でもそれができなくて苦しい逃げ出したかった。じゃあねバイバイ僕はやっと消えられるよ殺してくれてありがとう。こんな僕を殺してくれて、ありがとう。
「……っ!」
誰かの声が、頭を突き破って出てきそうなくらいに激しく飛び交う。頭を抱えたくらいでは我慢ができなくて、私はその場にしゃがみこんだ。
「ん? どうしたの。さっきから、どこか悪いの?」
「……いや、大丈夫だ」
深呼吸して心を落ち着ける。「僕」を安心させようと、私は平静を装った。しかしどこかが確かにおかしい。私が私でないみたいで、頭の中が混乱する。私が私でない……ならば、私は、一体、誰なんだ?
私は深く息を吐いた。足元がふらふらとしておぼつかない。
変だな、おかしいな。こんな風になったこと、今まで一度もないのに。
生きていた頃、私はここにいた。だからその時の記憶が突っつかれる。
私の頭がようやく落ち着いてきたころ、誰かが「僕」を呼び止めた。「僕」は声のした方を振り返って、表情を引き締める。そこには一人の女性が立っていた。肩の上にのった髪は上品に巻かれていて、金持ちの奥方といった印象を受ける。年齢からして「僕」の母親なのだろうかと思う。けれどもそれにしては「僕」を見る目が険しかった。
女性が持っていた買い物袋が、ドサリと大きな音を立てて道に落ちる。
「奈美さん……」
どうしてここに? と「僕」は暗い声でつぶやく。
奈美というらしい女性は、唇を引き結んで「僕」を睨みつけた。汚らしいものでも見るような視線を浴びて、「僕」は体を緊張させる。
母親ではないなと思った。実の母親を下の名前で呼ぶなんて、他人行儀にもほどがある。
「あらあら、琥珀ちゃんじゃないの」
毒々しい色の唇を三日月の形にして、奈美はにこりと笑った。
「僕」はゴクリと唾をのみ、挨拶だけはなんとか返す。
「こんにちは。お久しぶりです」
道端に並んだ街路樹が、太陽の光を浴びてじりじり焦がされている。車が時折、思い出したかのようにアスファルトの上を通っていった。
中年にさしかかろうという若作りの女性が、「僕」と対峙している。その脇に立った黒づくめの私は、薄ぼんやりと思考を巡らせた。
――琥珀。こはく。
その名は私の頭のなかで痛いくらいに響く。そして「僕」が琥珀と呼ばれた。
意味が分からなくて、私はただただ困惑を極める。
「どうしてここに? あなたは病院にいるはずでしょう」
「えへへ……抜け出してきちゃったんです」
ぺろりと舌を出した「僕」だが、奈美の表情が緩むことはなかった。
それどころか真顔で、
「ふうん、そう。あなた、まだ死んでなかったのね」
なんてことをさらりと言ってのける。
いくら人を傷つけても平気だという顔をした奈美のことが、から恐ろしく感じられた。
奈美の余命はまだ三、四十年は残っていると、死神の本能で察知する。数十年もの長い間、この女はどれくらいの人を傷つけるのだろうか。
「僕」は青い顔をして黙り込んでしまった。言い返すほどの気力がないらしい。
そもそもこの女に何を言い返しても無駄だと思えた。
「……お母さんは?」
ようやく口を開いた「僕」は、小さくかすれた声で問う。奈美は馬鹿にしたような表情をありありと浮かべて嘲笑した。
「出て行ったわよ、あなたの母親なら」
「僕」の姿を見ていられなくて、顔を逸らしたくなる。
「じゃあ、みーくんは?」
気丈にも質問を重ねる「僕」の顔は、いつ倒れてもおかしくないほど青白い。
みーくん、と聞いて奈美は不愉快そうな表情を浮かべた。
「関係ないわよ。あなたには」
「関係ある。だって、兄弟だから」
みーくんというのはどうやら奈美の子どものことらしい。となると「僕」の異母兄弟にあたるわけだ。
「知らない、あんな馬鹿な子。あなたが入院してからしばらくしたら家出して、それっきりよ」
「じゃあ奈美さんはお父さんと二人で暮らしてるんだ」
「そうよ。悪い?」
奈美は胸をそらせて目の前の人間を威嚇した。一方の「僕」は小首を傾げて奈美を見返す。
「今、奈美さんは幸せなのかな……」
「はあ?」
「奈美さんが何をしようが悪いなんて言わないけれど、それだけは疑問だ」
馬鹿にされたとでも思ったらしく、奈美は顔をカッと赤くした。ルージュの塗りたくられた唇が、みるみるうちに歪んでいく。
「何が言いたいの? うるさいわね。誰からも必要とされない死に損ないが」
ドスの効いた声と共に、奈美は「僕」を静かに睨みつけた。もしも声に色彩があるのだとしたら、今の奈美の声は間違いなく黒だ。全部の絵の具をぐちゃぐちゃにして混ぜたような、夜の闇よりも汚く濁った色。
私は思わず手にした鎌をぎゅっと握りしめる。その様子を見て「僕」は首を小さく横に振った。
朝露のように儚い笑顔だった。
「残念ねー、ここにはあなたが帰れる家なんてないのよ? 分かったらとっとと帰りなさい」
「僕」は無言で方向転換をして、その場から駆け出す。
奈美は腰に手をあて、勝ち誇ったような顔で「僕」の背を見送っていた。
何も言えなかったのは「僕」の弱さで。
何も言わなかったのは「僕」の強さだ。
「……どこだ? ここは」
「見晴らしがいいでしょう。小さい頃によく勝手に入って遊んだんだ、僕」
廃ビルの屋上で、「僕」は柔らかく笑う。奈美の元を去った後、「僕」は迷わずこの古いビルへ向かった。
走ったり階段を登ったりするのは体が辛そうだと思う。けれど、もっと辛そうなのは……空虚な笑顔でごまかそうとしている、「僕」の心だ。
「帰る場所なんてない……か。そりゃあ笑顔で出迎えてもらえるとは思わなかったけれど」
私は黙ったまま、葉擦れのように弱々しい「僕」の言葉を聞く。この期に及んでも精一杯「僕」は微笑もうとしていた。
「まさか奈美さんがいてお母さんがいないなんて、予想してなかったな。……やっぱり、僕はバカだなあ。考えが足りなさすぎて嫌になる」
フェンスに両肘をついて、「僕」は自嘲するかのようなつぶやきをこぼす。
「考えが足りないのは長く生きていないからだろう。どうにでもなるさ。これから……いや、何でもない、聞かなかったことにしてくれ」
私は軽率すぎる自分を後悔しながら口をつぐんだ。
――これから人生経験を積めばいい、など。
あと数時間しか生きられない人間に向ける言葉ではない。
「し、しかし、それにしても大きな屋敷だな」
気を害させたかと焦りながら話を変えれば、「僕」は快く応じてくれた。
「お父さんはこの辺りのいわゆる名士だからね」
そこからの景色はそれなりによく、「僕」の家も見下ろすことができる。 改めて全貌を望んでみると、結構なお屋敷であることが分かった。屋根の面積が、周りの住宅のざっと三倍はある。
「――でも、やっぱり私には理解できないな。あんな家に、金に、どれだけの価値がある?」
私の問いに「僕」は首を傾げた。どうやら「僕」にも理解できていないらしい。
「んー、価値はかなりあるんじゃないかな? お父さんの財産、割と多いよ、多分ね」
「だが他人の家庭に割り込んでまで得たいと思うほどのものか?」
本物の答えは返ってこないと知りながら、それでも聞いてみた。きっと本当のことは奈美自身にしかわからないのだろう。
「さあねえ。何を大事に思うかは人それぞれだ」
「それはそうだが。でも家や金は、死んだときに手放さなくてはならないだろう?」
「うーん」
唸りながら、「僕」はまっすぐな瞳をこちらに向けた。純粋な好奇心の満ちた口調で、私という名の死神に問う。
「じゃあさ。いったい、何なら天国へ持っていけるの?」
それはあまりに不意打ちの質問で、私は言葉に詰まってしまった。
「それは……」
生きていた時の私は、何を大切にしていたのだろう?
それが何であったにせよ、こうしてここにいる私はその何かを無くしてしまっている。
――自分が誰であったのかという記憶ですら。
だからきっと、死の先へは何も持っていけないのだ。そう考えれば考えるほど、人の生の意味が分からなくなってくる。
「僕」の問いにどう答えていいものか、皆目見当もつかなかった。
「……何もない。死したら全てを無くす。少なくとも私はそう思うが」
「そっか。寂しいね」
寂しい、などと。
私は思ったこと、ないのに。
やはり「僕」は奇妙な人間だ。
「……女の子、だったんだな」
ポツリとつぶやけば、「僕」は面食らったように目を円くする。
「どうしてわかったの? ……ああ、奈美さんにちゃん付けで呼ばれたからか」
「それで確信したのも確かだが。一目で分からないほど勘は鈍くないさ」
そう、「僕」は女だ。最初に会った時から薄々は感づいていた。
私の指摘に「僕」は感心する。短い前髪を細い指に巻きつけた。
この年代の少女に特有の柔らかい脂肪が、「僕」の身体には微塵もついていない。髪型といい言葉づかいといい、取り立てて男らしくもないのだが、決して女らしくもなかった。
「そっか、鋭いねー。この前なんてさ、病院の購買のおじさんがね、僕は白くて細くて女の子みたいだなって」
「そんなことを言われたのか」
「うん、頭にくるでしょう。誰が坊ちゃんだっての」
「僕」は怒ったような口調で愚痴るが、おじさんの言葉はもっともだと思う。
私は黒い服の裾を握り、ゆっくりとまぶたを下ろした。暗闇の中で心を落ち着けながら、感覚を研ぎ澄ませる。
――五分四十三秒。
まぶたの裏の暗闇にぼんやりと浮かぶデジタル時計の数値……それが、「僕」の余命だ。思っていたよりもずいぶん短いことに驚かされる。
「僕」に声をかけられてからの数時間は、本当にあっという間だった。
気にならなくなっていた頭痛が、不意に勢いを取り戻す。鈍い痛みに眉をしかめる私の前で、「僕」はフェンスに背を預けた。ぎい、と軋む音は、何かの、誰かの、悲鳴みたい。
「まあ、ねえ。僕は女の子じゃないんだけどね」
「はあ」
意味が分からなくて、不機嫌になりながら問い返した。
「それは冗談なのか。だとしたら面白くない」
「僕」は何がおかしいのか、ははっと乾いた表情で笑う。
「冗談じゃないよ。面白くなくてごめんね」
「僕」の瞳には深い闇が満ちていて、見つめていると吸い込まれそうだった。
どこまでも底のない漆黒、それでいて水のように透き通っている。
「僕は女じゃないよ。だって赤ちゃんを生めないから」
病におかされた弱い身体を抱えて、「僕」は切なげに目を細めた。
「だから僕は自分を僕って呼ぶ。私って呼んだら女の子みたいで嫌だから。自分じゃないという気がするから」
間違っている。そんな気がしてならないのに、「僕」を否定する上手い言葉が見つからない。
女の子でないなら、「僕」は一体、何なんだろうと思った。
――ああ、痛い。
耳から入った「僕」の声が、私の頭の中でひどく響いている。
「子どもが生めないから女じゃないなら……そういう理論でいうなら……君は人間じゃないってことにならないか? もうすぐ死ぬから」
途切れ途切れになりながら、私は心だけで言葉を紡いだ。何も考えていないのに、私の頭には誰かの声が浮かび上がってくる。
そうだ、昔、私は、同じことを聞いた。
死神に。
僕とそっくり同じ顔をした、おせっかいな死神に。
それに気づいた瞬間、私の目の前は真っ黒になる。
「そうかな。うまく言えないけど、そうなのかな。……僕は」
空から降ってくる蝉の声が背景だというのに、「僕」の声は嫌にハッキリ響いた。
「ねえ、考えたんだ。死の先へ行く、その方法を。君は言ったね、自分を殺せば死神になると」
「僕」の薄い笑みは、私にはもう、見えない。ただ、頭が割れそうなほどに痛かった。
「僕は誰にも必要とされなかった。だから、どうせ死ぬなら君みたいになって、何かに必要とされたい」
「私が何に必要とされていると? 冗談なら面白くないっ」
本当に、冗談ならいいのにと思う。私は柄にもなく心が揺れている自分に気づいた。
「冗談じゃない。少なくとも僕は、君のことが必要」
「は?」
「頼みがあるんだ。頼まれてくれないかい?」
ーー何を言い出すのかと思えば。
私は「僕」のことを鼻で笑う。
「私にできることならね。私にできることなんてなんにもないけど」
数分後に死ぬ人間に向かって、優しくない言い様だ。けれども、嘘をつくほうが、ずっとずっと優しくないだろう。
「それでも頼む。…………みーくんに会いたい」
「僕」の頼みは、予想外のものだった。
「もちろん、もう時間がないのはわかってる。会えないのもわかるけど……。だから、代わりに、君に」
「代わりに? 私に会ってくれと?」
予想外の、そのさらに上をいくような願いだった。
「なんの意味があるんだ、それ……」
完全に呆れて呟く。死の恐怖で頭がおかしくなったのかもしれない、と思った。まあ、もともとかなり変な人間ではあったが。
「いーじゃんか、意味なんてないよ。死にゆく者のわがままだよ。黙ってあのひとの幸せを見届けてよ、僕の代わりに」
「滅茶苦茶だな」
「うん、わかってる。……僕はさ、ホントは自分のことちゃんと『私』って呼びたかったよ。両親が家で喧嘩せずに笑っていて、ちゃんと学校に通って、友達作って、たまには道草して喫茶店に寄ったりとか。そういう、普通の女の子の生き方に憧れてたんだ」
憧れてはいたけれど何ひとつ手に入らなかったと「僕」は言う。
「分析するに、恐らく好きだったんだ。僕は、みーくんのこと。言えるはずないけど。別にね、自分が世界一不幸だなんて思っていないよ。不幸比べをしたら、きっとたくさんの誰かに負けるんでしょう、僕は。それでも、自分が幸せだと胸を張って言える材料が、もっと、あと少しでもたくさんあればよかったのに」
「僕」は頬をひきつらせて、口端を無理やり上げた。なんて哀れな微笑みなんだろう。残り少ない「僕」の命の灯火が、ぼんやりと一瞬だけ揺らいだ。
「……僕、走ったりしたから心臓が嫌な感じなんだ。もうすぐ発作が起きて、僕は死ぬんでしょう? なら、この命、自分で殺しても大差ないかな。せめて死の先で、誰かに必要とされないかな。君みたいにさあ」
やめろ、と。
かすれた声で私は叫ぶけれど。
その声はすぐ近くにいる「僕」にすら決して届かない。
私はどこまでも、どこまでも無力な子どもだった。だから変わりたいと思ったのに、願いが形を持つことはない。
「君がうらやましいよ。自分のことを私と呼べて。ちゃんと何かから必要とされて」
違うのだ。「僕」は、とんでもない間違いをおかしている。
「やめろッ! 僕が誰かに必要とされているだなんて……そんな大嘘を吐くな!」
乾いた喉をかすれさせて、私は「僕」を怒鳴りつけた。
――今、何て言った? 今、私は何て言ったんだ。
巨大な耳なりに体が飲み込まれる。立っていられなかった。頭を抱え込むようにして、その場にしゃがみこもうとする。その刹那、力の入らない体がぐらりと傾いだ。踏み出した足が柔らかく曲がり、私の体は支えをなくす。
「――あ」
倒れ込んだ先にはフェンスの切れ目で、足元に30センチほどのコンクリートの出っ張りがあるばかりだ。私の体の重心はいとも簡単に屋上の外へと移動する。黒いローブの裾が風に流されて旗みたいに広がった。呆然とする私の方を向いて、「僕」は手を真っ直ぐに伸ばす。立ち枯れた木の枝みたいに細い腕が、なぜかとても力強いものみたいに思えた。
「僕」の伸ばした手は私の服の裾を確かにつかみ、コンクリートボックスの中へ引き戻す。死ぬ間際の病人のどこにこんな強い力があったのか不思議だった。
しかし反動を抑えきれなくなったらしく、今度は「僕」がバランスを崩す。白い手は投げるような反動をつけて、私の服の裾から離れた。とっさにしがみついて助けようとするけれど、私の指先は落ちていく体にかすりもしない。

「琥珀っ……!」

仰向けで落下する「僕」の瞳に、恐怖の色は欠片もなかった。何もない空間に身を投げ出した状態で、ゆっくりと体をひねって上を向く。「僕」は――彼女は、ただ優しく、そして柔らかく、笑った。細められた瞳の中に映る世界はとてもまぶしい。泉の水みたいに澄んだ青空を瞳いっぱいに映して、「僕」は静かに微笑んでいた。
「僕」の視界の中、一人の姿だけが黒く濁って日の光を遮っている。泣きそうな顔をした一人の少女が、瞳の中の世界でまっすぐに手を伸ばしていた。
真っ黒な服を着たその少女は、「僕」の瞳の表面で何かを叫ぶ。
風に吹かれたフードの下、「僕」と全く同じかたちをした少女の素顔が露わになった。
――届かない。
いつだって届かない愚かな指先を、「僕」は愛おしげに見る。
窒息死しそうなくらいに密度が濃い時間の中で、やがて「僕」は瞳をそっと閉じたのだった。唇が動いたような気もするが、遺言は聞きとれないまま――そのとき、その瞬間、「僕」は死んだ。

屋上から「僕」が落ちていった後、私は馬鹿みたいに呆然として座り込む。立ち上がる気力はなかったけれど、そうも言ってはいられなかった。屋上から降りて「僕」を見下ろしているうちに、段々と頭痛がおさまってくる。鮮血に濡れた「僕」の頭が、私の痛みを肩代わりしてくれたのかもしれないと思った。
冷たい頬に一粒の水滴が落ち、そのまま地面へと伝っていく。
「僕」は何も言わなくて、でも微笑んでいるような死に顔だった。寒気を感じて、私は私をぎゅっと抱きしめる。
「私……なの?」
落ちる瞬間、「僕」の瞳に映った少女は、確かに「僕」と同一人物だった。自分自身を殺してしまって、その罪で私は死神としてここにいる。
あれは殺したことになるのだろうか、とぼんやり思った。
私がふらつかなければ僕も屋上から落ちなかった。だからやっぱり、私が殺したことになるのだろう。
そう――僕は、私だ。生きていた頃の私が、「僕」だったのだ。
「面白い偶然だな」
含み笑いするような声が聞こえて、私の心には冷や水がさされる。
「そうですか? 貴方が仕組んだんじゃないですか」
精一杯、感情を面に出さないように気をつけて返した。背後に立った彼――私の上司は、大嫌いな冷たい声で笑う。
「何を言うかな。仕組んでなんかいないさ。偶然だよ、偶然」
飄々とした上司のことが私は以前から大嫌いだった。睨みつけたいけれど、今はあいにく振り返ることができない。
「人だった頃の自分自身の魂回収が仕事になるだなんて珍しいねぇ。因果だねぇ」
黙ってろ。そう言わんばかりに、私は片手の鎌を力一杯握りしめた。そうして、いつものように標的へ向けて振り下ろす。人の魂を回収するには、体から切り離さなくてはならないのだ。
いつもしている行為なのに、なぜだかこの身を斬られるような痛みを感じた。僕の体に刺さった鎌の先が、うまく抜けない。私は自分が思っていたよりもずっと不器用みたいだった。
「仕事、完了しました」
「ん、了解。次行くぞ」
上司と無機質なやりとりを交わして、私は僕の死骸に背を向ける。黒いフードを深々とかぶりなおした。
今そこに転がっている少女と同じ顔を隠したくて。私は、黒いフードを深々とかぶりなおした。
――幸せ?
そんなものがこの世界にあるのかどうかさえ、疑わしいと思う。だけど確かに、何も分からない中にでも、「僕」は存在していた。
私は小さくつぶやいて、そっと静かに瞳を閉じる。
「ちゃんと、自分のこと、『私』って呼べるようになったね、僕は」
何が得られたのかも、何かを失ってしまったのかも見えない。
でも――。
あのとき見えた鮮やかすぎる青空は、一人の少女が伸ばしてくれた手の平は、私のまぶたの裏にしっかりと焼きついている。