現代短編小説「柊の見下ろす街で」

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「お父さんを、よろしくね」
お母さんが伸ばしてきた震える手を、僕はぎゅっと握りしめる。白くて細い指は、ぞっとするほどに冷たかった。
「お父さん。呼んでこなきゃ」
僕のつぶやきを聞き、お母さんは淡雪のように優しく微笑む。
「どっちでもいいわ。……あなたは、自分自身で考えて、自分自身で行動しなさい。それができる子になりなさい」
薄い唇から紡がれる言葉を、僕は心に刻みつけた。

この街の駅前も、灰色の冬に染められつつある。まだ、吐く息が白くなることはなかった。しかし肺にすいこんだ空気は、痛いくらいに冷たい。
「あれ、お前、こんなところで何やってんの」
背後からの声に、思わずびくついた。誰かに存在を見咎められたことは、嬉しいことではない。
明るい声は、よく知ったものだった。僕はそちらがわに顔を向ける。案の定、親友のトモヤが手を振りながら駆け寄ってきた。
大きな鞄を持っている。渋い緑の手袋は、一目で高級なものだとわかった。
「トモヤやん。どっか行くん?」
僕は何気なく問いかけた。
トモヤは、白い歯を見せて苦笑する。クラスの女子を一発でしとめる、爽やかな微笑みだ。
「今日は塾やねん。寒いし、嫌やなあ」
大して嫌そうでもない。
トモヤは、幸せかどうかは知らないが幸運な子だ。クラスでも、塾にいっている子は数人しかいない。
僕にとって、何不自由なく育ったトモヤは異世界の住人だ。そんなトモヤが、僕の気持ちを知るよしもない。
僕は、小さくため息をはいた。
「あれ、えっと、後ろのんは?」
トモヤが、僕の背後へと視線を投げかける。
木枯らしが、アスファルトを冷たくなでていった。木の葉が誰かに踏まれて、かさりと音を立てる。
僕は、困惑しながら振り返った。
「……」
一人の女の子が、無言で僕の後をついてきている。家を出てから、ずっとだ。いや。正確に言うと、ここ数日ずっとだ。
大きくて丸い瞳と目が合った。少女の身長は、僕よりもいくぶん低い。二つ年下らしいから、当たり前だ。ぶかぶかのダッフルコート。肩には、ふわふわの巻き毛がそっとのっている。
「知らねえし」
ぶっきらぼうな言葉を投げつけた。
少女が上目遣いに僕を見てくる。捨てられた子犬のような瞳だ。僕は、ほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
「嘘やろ。お前の後、ずっとついて来とるやん」
「……知らないし。関係ないし、あんなやつ」
僕は、そっけなく返す。少女の表情は、直視できなかった。
「あんなやつ? やっぱし知り合いなんやな。あー、かわいそうやん。そんなきつく言ったら」
トモヤが少女の前にしゃがみこんだ。そして、ふわふわの髪を優しくなでる。
「なあ、名前は?」
「あじゅ。前川 亜寿」
少女……亜寿は、気弱そうに目をふせた。トモヤは人好きのする笑みを浮かべる。
トモヤの親指が、後ろに立つ僕を指す。
「そっか。オレは、トモヤ。こいつのお世話係やねん」
「誰がやっ!」
僕のつっこみは、当然のごとく流された。トモヤが、亜寿の瞳をじっと見つめる。
「えっと、このお兄ちゃんのお友達? それか近所の子なん?」
亜寿は、少しだけためらう。
僕は数歩進んだ。目が殴るものを探していることに気づく。無性にいらつくのだ。ここ数日ずっとだ。特に亜寿を見ているときは、胸がかき乱される。
「……妹」
亜寿が、おずおずと口をひらいた。トモヤの目は、文字通り点になる。
「はあ?」
トモヤのうろたえようは、見ていて面白かった。しかし、それを面白いと思う気にもなれない。
「亜寿は、お兄ちゃんの妹なん」
消え入りそうな声だった。しかし、亜寿ははっきりと言った。トモヤが、僕と亜寿を交互に見比べる。
「ほんまなん? でも、お前んち一人っ子とちゃったっけ?」
トモヤの表情は好奇に満ちていた。僕は憎しみをこめて吐き捨てる。
「そうだよ。僕には、妹なんておらん」
そうだ。僕は一人っ子なのだ。お母さんが死んでから数年間、お父さんと二人で幸せに過ごしてきた。だから妹なんて、いない。いらない。
「妹やし! 亜寿は、お兄ちゃんの妹やぁ……」
ふにゃ。そんなやわらかい擬音と共に、亜寿は顔を涙にゆがませる。 亜寿は気弱そのものだった。
僕は悪いことをしたような気になる。でもそれすらも気に入らなかった。僕は、亜寿が許せない。
「嘘つけ。うちは二人家族や! お前なんか知らんし! 父さんの見舞いになんて来んでいい。 あっち行っとけ!」
僕は冷たく言い放つ。亜寿の瞳から、大粒の涙が流れ出した。駄々をこねる子どもの涙だ。気にすることはない。それでも、僕の胸に大きな棘が刺さった。
「な、なんだよ。そうだよな、お前んち、一人っ子って。でも……あれ? え?」
トモヤが首を傾げている。事情がのみこめないようだった。それはそうだ。当の本人である僕ですら、まだ納得できていないのだから。
話は四日前にさかのぼる。
「今日から、この子はお前の妹だ」
はい、そうですか。そういって納得できる人間なんて、いるわけがない。
僕が家から帰ってきて、お迎えの第一声がそれだったのだ。僕が混乱したのも、無理ないと思う。
「と、父さん? 何を言ってんだよ。こいつ、誰だよ」
僕の父さんは、薄くなった頭を申し訳なさそうにかいた。
「母さんがいなくて、お前には色々世話をかけただろ。ごめんな。父さんな、再婚、しようと思うんだ」
「さ……?」
言葉の意味が、わからない。
玄関には知らない女の子がいた。僕の方を、小動物のような瞳で見すえてくる。こんな場面じゃなかったら、きっと僕は少女にみほれた。それくらいに、少女……前川 亜寿はかわいらしかった。
「さ、再婚? 何だよ、それ!」
僕がつい声を荒げれば、父さんは苦笑する。
「ごめん、な。反対されると思っていたんだ。だから話し出しづらくて」
「な、なんだよそれ! わけわかんねえ……!」
話は、こうだ。父さんは再婚する。だから、今日から家族は四人になる。
「そういうことだ。すぐに理解できるだろ。夕方になったら晴さんが帰ってくるから、みんなで外食に行こうな」
父さんは、知らない女の人の名を口にした。僕の思考回路は困惑を極める。
「はるさん? 誰だよそれ」
返ってきた一言で、僕の脳は真っ白に染まった。
「母さんだよ、お前の。今日から母さんになる人だ」
言いたいことは、たった一つだった。
――なんだよ、それ!

「やるな、お前の父さん」
事情を軽く説明した。私情を挟まないように努力したが、できたかどうかは定かでない。
トモヤは、お腹を抱えて笑った。僕の深刻な悩みが、軽く笑いとばされた。
「いきなり、お前の家族だ、って? しかも二人が仕事の間、妹の世話を押しつけられた、って? あーあー、お前、かわいそー」
「笑い事じゃねえし、妹じゃねえ。かわいそうだと思うなら、立場を代われよ。一生の頼みだ」
「断る」
親友の一生の頼みを、トモヤは爽やかに一蹴する。
亜寿は困ったようにこちらを見つめていた。その瞳は潤んでいる。
僕は凶悪に顔をゆがめた。亜寿をにらみつけたくなるのを、かろうじてこらえる。何かを言ったら、今度こそ亜寿は泣いてしまいそうだった。それでも、湧き上がる感情は抑えきれない。
――俺は、お前のことを妹だなんて認めないからな!
僕は、亜寿へと念じた。認めない、絶対に認めない。僕の母さんは、一人だけだ。だから、家に踏み込んできたあの女は、家族なんかじゃない。――亜寿もだ。
いらだつ気持ちをおさえようと、僕は数歩前に進んだ。ところが、亜寿が後ろをついてくる。僕は、できるだけ音量を抑えて言った。
「ついてくんなや、お前」
「お前やないもん。亜寿やもん」
亜寿の声は震えている。僕は、そんな亜寿を一喝した。
「知らへんし! お前なんか認めへん。妹やなんて認めへん! やから名前でなんて呼んでやらへんし! 絶対!」
――認めるものか。亜寿が僕の妹だなんて、認めない。だから、名前で呼んだりしない。僕はそう決めたのだ。
「亜寿は亜寿やもん」
亜寿の呟きは無視する。僕には、自分がなんでむきになっているのか、わからなかった。
「あー、お前ひどいなあ」
トモヤは僕の気も知らずに苦笑している。僕は見下されているかのように感じた。トモヤのこういうところが嫌いだ。トモヤは恵まれているから、他人の気持ちを本当の意味で理解することができない。
「何がひどいやねん!」
トモヤへと怒声を投げつけた。僕のはらわたは、すでに沸騰している。
「だってな。話聞いとったらこの子お前の義理の妹なんやろ?」
トモヤが、簡潔に事実をまとめる。至って冷静だ。そういう一挙一動が、いちいちしゃくにさわる。木枯らしも行きかう車も、トモヤも、すべてが大嫌いだと思った。
「つまり、義理ではあれ、正真正銘の妹なんや。そうやろ?」
うなずくのがしゃくだった。口を開いたら、きっと暴言しか出てこない。だから僕は、無言を返す。
自動販売機の前に立った。ジュースを選んでいるふりをする。僕が言い返さないのを、認めたのだと誤解したらしい。
トモヤは友達づらをして、笑った。
トモヤの手にはめられた手袋が目に入る。あたたかい色だった。僕は、何度かトモヤの家に遊びに行ったことがある。優しそうなお母さんの存在が、うらやましいなと思った。お父さんも、お母さんも家にいる。笑っている。トモヤの家は、僕のあこがれだった。
――おふくろ? 外面いいだけだってば。父さんだって、勉強しろってうるさいし、塾も勝手に決めるしさ。いちいちうるさいんだよな。だから、いらない。
トモヤの言葉が頭によみがえる。頭の中で、白い光がはじけた。腹が暴れて、立っていられない。
「なら、もっと優しくしてやればいいのに。な、お兄ちゃ――」
鈍い音がした。トモヤが、口をつぐむ。一瞬、何が起こったのかわからなかった。亜寿とトモヤの視線が、僕に集中している。沈黙が、重たかった。
ひじがじんじんと痛む。その痛みで、僕は自分が何をしたのかを、理解した。
怒りをぶつけられた自動販売機は、それでもじっと立っている。
「あ、……あはは。なんだよ、そんなにびっくりするなよ」
何とか口を開いた。空気が気まずい。僕は、何か悪いことをしたような気になった。しかし、すぐに怒りを思い出す。
「……んやねん。なんか言えよ」
亜寿とトモヤをにらみつけた。トモヤが、珍しくうなだれる。
「ご、ごめんな」
トモヤがつぶやいた。本当にわかって謝っているのかどうかは、わからない。
――とりあえず、この場をとりもとう。
そういう意図が、透けて見えるような気がした。
「こっちこそ。でも、これだけはわかってほしいんだ。僕は、お兄ちゃんなんかじゃない。そいつを妹だなんて認めない。トモヤには、僕の気持ちがわかるわけないよな。だってトモヤは一人っ子やし、お母さんだってお父さんだっているんだし」
「……うん」
トモヤはため息を吐いた。つきあいが長いから、こういうときの僕に何を言っても無駄だと、わかっているのだ。トモヤは、僕なんかよりもずっと大人だった。
表面上とはいえ味方をなくした亜寿が、唇をかみしめてうつむく。亜寿は涙をこらえているようにも見えた。
「あ、それよりさあ。お前らどうして駅なんかに? どこ行くんだよ?」
トモヤが機転を利かせた。バスが来るまでの数分間を、世間話で無難に済ませようということだろう。僕もそれに応じた。
「父さんのお見舞いだよ。今日、事故に遭って病院だって、電話があったんだ」
僕の父さんは、トラックの運転手をしている。
電話がかかってきたときは、驚いた。でも、父さんの声は意外にしっかりとしていた。
――すぐに病院に来られるか? 亜寿を、よろしく頼む、な。新しい、家族なんだから、な。
僕はいつも、父さんの言うことだけは素直に聞く。でも、最後の言葉には返事をしなかった。
「え?」
トモヤが顔色を変える。逆に僕があわててしまった。
「あ、違うよ、そんなにひどくないんだ。父さんも大丈夫だって言ってたしさ。ただ、保険証がいるんだって」
「そ、そうなんだ……」
トモヤが、ほっとしたように胸をなでおろす。演技か本心かは、僕にはわからなかった。
「ねぇ、お兄ちゃん。あれ……」
僕の服のすそが引かれる。振り返った。亜寿が、僕を見上げている。僕は、視線をそらした。亜寿の小さな手を、汚いものでもあるかのように振り払う。
「何だよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた。お兄ちゃんなんかじゃない。そう言いたかったけれど、言っても無駄だとわかっていた。
「ほら、見えへん。 あれ……」
亜寿が、おずおずと手をのばす。寒さに少し震える指が、自動販売機に向けられた。
「何?」
「開いとる……」
僕とトモヤは、目を凝らす。
「ほんまや」
自動販売機が扉のように、こちら側へとかすかに開いていた。
「おい、まずくないか」
「べ、別に僕のせいで開いたわけじゃ……最初から開いてたのかも」
トモヤが、手を伸ばす。鍵は外れていた。自動販売機の前面が大きく開く。中には、ごちゃごちゃした機械と、綺麗に並んだ缶の列があった。
トモヤが聞こえよがしにため息を吐く。
「仕方ないなぁ、駅員さん呼んでこないと」
「でも、バスに遅れへんの?」
時計が正確かどうかすらわからない。もう、いつバスが着いてもおかしくない状況だった。ここでこの場を離れるのは、あまりにも危険な賭けだ。
「どうする? 俺、塾に遅れるのいやだし。お前らも早く病院に行きたいよな」
見てみぬふりをしよう。トモヤらしい提案だった。
病院とトモヤの通う塾は、隣町にある。田舎だから、隣町へのバスの本数は極めて少ない。乗り逃したら、次は二時間後だ。
街としての体裁を取り繕ってはいるが、所詮はJRにも見捨てられた土地なのだ。
「でも……。駅員さん呼んでこーへんかったら、盗まれてまうし……」
亜寿が、怒鳴られないかびくびくしながら意見する。
「つべこべうるさいな」
僕は押しつけるようにして怒鳴った。
「でも、でも! 駅員さん、困るよ」
僕は、怯える亜寿を見て笑みをこぼした。泣きそうな顔をしているが、泣かない。言いたいことは、相手が誰であろうとはっきり言う。外見より、ずっと亜寿は強かった。
僕は少しだけ、亜寿の評価を変えた。亜寿に足りないものがあるとすれば、それは決断力と行動力だ。簡単なことなのだ。どうすればいいのかなんて、考えるまでもない。
「急げば大丈夫だ、話してる間に、行くぞ! トモヤ! 早よ来い!」
アスファルトを蹴って走り出した。悩んでいる時間が、もったいない。
「ったく。仕方ないなあ、お前は」
トモヤが爽やかな笑みをこぼした。軽いランニングでもはじめるかのように、前へと足を踏み出した。
「ちょ、お兄ちゃん、待ってえな、バス来るやんかぁ!」
亜寿が後ろで叫んでいる。僕は足を止めずに返した。
「決断もできない弱虫に、お兄ちゃんなんて呼ばれる筋合いはない!」
「え、あ」
「お前は、そこで待ってろ!」
亜寿はさらに何かを言っていたが、無視した。ここでもたもたしている暇はない。慎重という名の臆病は、大切な時間を奪うのだ。
急げ、急げと自分に言い聞かせる。
駅の構内に入った。息が切れる。水泳を習っているトモヤは、平気そうだった。僕のほうが早く走り出したのに、すぐ追いつかれる。
ホームには、電車が滑りこんできたところらしかった。改札に人の列ができている。
「まずい、な……」
改札口の駅員さんに話しかけるのは、断念せざるを得ない。僕は一瞬立ち尽くす。トモヤは、さっと方向転換した。
「トモヤ、どうした」
「こっち! たしか売店が!」
トモヤについていく。売店の前まで走りこんだ。売店のおじさんが、怪訝そうな顔をしている。
僕たちは、息を切らしながらも口々に事の次第を説明した。
「こっちです」
「はやく、はやく!」
僕たちは、売店のおじさんを自販機の前まで引っ張っていった。
――改札まで走って戻ってくるだけなら、大丈夫だ。
僕はそう考えていた。甘かった。売店まで走った時間のロスが大きい。しかも、売店のおじさんは熊を彷彿とさせる巨体だった。動きが鈍い。一秒一秒が大切な今は、それが頭にくる。
「トモヤ! 今……何分だ」
僕は、トモヤに時間を聞いた。返ってきた答えは、予想通りのものだった。
――絶望的だ。
おじさんが、半開きになった自動販売機をゆっくりと確認する。わざわざ知らせてくれてありがとうな、とおじさんが言ってくれた。僕らも、どういたしまして、と返した。
「最近の子に珍しく、いい子らじゃのぉ……坊主ら、名前は」
最後までつきあう余裕はない。僕たちは、頭をさげながらきびすを返した。
「!」
そのときだった。僕の頭の中が突然真っ白になる。
「ちょっと、お前、何で急に立ち止まっ」
僕の耳に、トモヤの言葉は入らなかった。
売店脇にはテレビがすえつけてある。天井の光を反射して見づらい画面には、どこかの道路が映し出されていた。
――高速道路で、トラックの事故。
僕は引き返そうとした。でもなぜだか身体が動かない。背中をつめたい汗が伝った。
――乗っていた男性運転手一名が重症。現在、近くの病院に搬送され――。
画面に映し出された地名はよく見知ったものだった。運転手の名前が画面の下に出た。よく知っている名前だった。
どこまでも落ちていくような感覚と一緒に、目の前が真っ暗になった。
――亜寿を頼むからな。
父さんの言葉が、頭の中に浮かぶ。大丈夫だから心配するな、と言った。その声が苦しげだったことくらい、僕にもわかっていた。わかっていながら、必死で現実から目を背けていた。
「……んだよ、それ……」
父さんは、僕たちを心配させないようにしてくれていたのだ。
――なんだよ、それ。家族なのに。
いや、違う。家族だからこそ、だ。
「父さん……」
僕は、ぼうぜんとしてつぶやく。もう、どうすればいいのかわからなかった。
トモヤも、事情を察したらしい。僕の顔色をうかがいながら、同情を顔ににじませていた。
「嘘だろ……ッ!」
それから、それから、僕はひたすら走った。立ち止まったら、感情が溢れ出してしまいそうな気がして、ただ走った。
亜寿を、停留所に残してきてしまった。あれだけひどい態度をとっていたのだ。バスに乗って、一人だけ行ってしまったかもしれない。きっと、僕のことを父さんに告げ口しようと考えているのだ。
小学生とはいえ、バスに乗るくらい亜寿にも一人でできるだろう。病院に着いて、名前を告げる。そしてぞっとするほど白い扉の前に案内されるのだ。そしてそこで、残酷な事実を、たった一人で聞く。
胸がしめつけられて、仕方がなかった。呼吸が苦しい。何も考えられなかった。
バスの停留所につく。肩で息を整えた。凍りかけた空気は、少しだけ痛かった。
少し遅れて、背後から足音が近づいてくる。トモヤだ。
「あ、あれ?」
後ろから、困惑した声が聞こえた。トモヤが、腕時計と目の前のバスを見比べている。バスは、まだ出発していなかったのだ。
どうしてかなんて、どうでもよかった。
僕は大きく息を吐く。ステップを踏みしめた。倒れそうになる身体を必死で支えながら、バスに乗りこむ。もう冬になろうとしているのに、全身が汗だくだった。
前から二番目の座席に、亜寿が座っている。僕の姿を見て、春の花のような笑顔が咲いた。
「おじさんに言って、待っといてもらってんで。亜寿、お兄ちゃんに言われたとおり、自分で決断、してんで」
田舎とはいえ、バスを止めてもらうのはそう簡単ではない。必死でおじさんを説得したのだろう。亜寿は、得意そうな笑みを満面に浮かべていた。
僕は何も言えない。もう、亜寿のことを嫌いだなんて思わなかった。
わかったのだ。
僕は、――ただ、こわかっただけなんだ。
僕の家族が、僕の家族でなくなってしまう。知らない女の人がお母さんになる。僕のお母さんは忘れられてしまう。「家族」から見捨てられてしまうような気がして、こわかったのだ。だから、亜寿たちを拒絶していた。そうすることによって、僕の居場所が守られる気がしていた。
「……どうしたん、お兄ちゃん」
僕はバスの座席に深く腰掛けた。運転手のおじさんに、軽く頭を下げる。ミラー越しに、おじさんが優しく目を細めた。
バスはゆっくりと発進する。見慣れた駅が、少しずつ遠ざかっていった。
僕は、身体を座席に沈みこませる。全身を覆うのは、疲れ、だった。
「大丈夫? すごい汗やぁ」
亜寿が目を丸くして驚いている。ポケットから何かが出てきた。かわいらしいキャラクターが描かれた白いハンカチだった。なんだかそれが、いとしいな、って思った。
「よくやったな。……亜寿」
僕はぼそりとつぶやきを落とす。
――それから、わしゃわしゃと「妹」の頭をなでてやった。
車窓の外に白い花弁が舞い始める。それが今年の初雪だった。