ホラー短編小説「古井戸の底」

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小川 更紗が死んだ日も、空は憂鬱な鈍色だった。
「嵐になるかもしれないわね。危ないから、遠くに行かないようにね」
母がそう言ったのを、おぼろげながらに覚えている。
もちろん母は、更紗に対して言ったわけではなかった。母も父も更紗を疎んじていたからだ。
――更紗は忌み子だ。間引かなかったのが失敗だった。
そんな風に両親は思っていた。だから更紗は満足に食事を与えてもらえなかった。服もお古で、みずぼらしいものばかりだった。そして、いつも更紗は頭上からの怒声に怯えていた。
更紗は呪われた子だ。
それを一番よくわかっているのが、更紗本人だった。
友達になる子どもは一人しかいない。その一人だって、更紗を見下していた。
更紗といれば自分はもっと可愛くて優しくて素敵に見える。大人たちから褒められる。
――更紗なんかと遊んであげるなんて、まるで天使みたいに優しい子だわ。
彼女は大人たちにそう言われたいがために更紗を人間のようにあつかっていたのだ。そして、それすらも表面上だけだった。彼女――更紗の片割れの羅紗だって、心の中では更紗を蔑んでいたに違いない。私にはわかる。私だけにしかわからない。
そうして誰からも愛されずに、暗くてみずぼらしい更紗は死んだのだ。
灰色の――いや、血塗られた人生は、たったの十三年で終了した。
薄暗い森の古井戸に落ちてしまったのだ。その辺りは更紗の他には羅紗しか近づかない秘密の遊び場だった。
発見されたのがあまりに遅すぎた。
森の外から来た警察が山奥の古井戸を発見した時にはもう、館から更紗の姿が消えて二週間がたっていた。そして……。正確に言えば、古井戸の中から見つかったのは、彼女の履いていた深紅の靴だけだ。世間的には死んだとされていたものの、更紗の死体を見た者はいない。もし仮に葬式に出ていたならば、もちろん皆、泣きまねくらいはしただろう。しかしそれでも本物の涙は一滴もなかったはずだ。
事故か自殺か他殺かだなんて、どうでもいい。いなくなってくれさえすれば、それでいい。更紗は、それくらいに疎ましく思われていた。もしかしたらそれは、更紗を恐ろしく思う気持ちの裏返しだったのかもしれない。
結局、更紗の葬式が行われることはなかった。
更紗が消えた一週間後に、あの血塗られた夜が訪れたのだから……。

そして四回目の命日が近づいていた。
私は湿気た土を踏みしめる。あの血塗られた館で客を迎えなくてはならないのだ。
葉擦れの音が招き人の来訪を告げる。感じた気配に、私は感覚を澄ませた。薄暗い木々に囲まれた獣道を、一人の少女が歩いている。私は木の影からこっそりと様子をうかがった。
中学生だろう。オレンジのラケットバックを背負っていた。集団からはぐれてしまったらしい。ショートヘアの、それなりにかわいい少女だった。不平をこぼしながら進んでいる。口を開いていないと怖さで足がすくんでしまうのだろう。
少女の健康的な小麦色の肌は、この薄暗い森に不似合いだった。
「……くす」
私は唇を歪めて小さく笑んだ。
少女が顔をあげて、私とは逆の方へと声をなげかける。
理由は、すぐにわかった。草木をかきわけて一人の少年が姿をあらわしたからだ。少女と同じぐらいの歳だろう。黒い学生服を身にまとっている。真面目で誠実そうという第一印象で、これといって目立った特徴はなかった。
現れた少年は少女と言葉を交わしながら、鋭い視線でこちらを射抜く。そこにあるのは、殺気にも似た敵意だった。
あの井戸の底にいるかのように、息がつまる。
私は眉をしかめた。小賢しいことに、彼は少女を守るつもりらしい。
――まあいい。好きに足掻くがいい。更紗が起こす血の宴は、誰にも止められない。
私は静かに一歩を踏み出す。
木々の上から見える景色は、雲一色だった。更紗が死んだ日と同じだ。
こんな日はきっとまた彼女に会える。そんな気がする。
――さあ行こう。彼女はあの館にいる。
あの山奥の朽ちかけた洋館で、今もなお呪いに縛られながら生き長らえている。

――ああ、自己紹介を忘れていた。私の名前は、小川 更紗という。