現代災害もの小説「泥の海」

(C)ぱくたそ

明けない夜なんてない、そんなことを誰かが言った。

平成十六年十月二十日、午前八時二十五分。
教室の窓の外を眺めて、私は泥のように重たいため息をつく。昨日の夜から降り続いている雨は、弱まる気配など微塵も見せずに、それどころかますます力を強めているようだった。濃い灰色の空を見上げている限りでは、とてもじゃないが今が午前中だとは思えない。もう一限目が始まろうという時間なのに、二年三組の教室は、外の雨音にも負けないほど騒然としている。
「警報発令したんだってー」
扉を開けて駆け込んできたクラスメートの土井が、教室中に聞こえる弾んだ声で言った。どこで仕入れてきた情報なのだろうか。職員室で盗み聞きでもしたのだろうか。だとしたらご苦労なことだ。
警報発令、と聞いたとたんに教室中の空気が色めき立つ。
「おー、じゃあ帰れるな」
「こんな雨の中帰るん、面倒やな」
担任の教師はつい先ほど、臨時の職員会議があるから自習するようにと言い渡して出て行った。けれど、もちろん自習をするような奇特な生徒などこのクラスに存在しない。
「ちなみに何が出てるって?」
私は、土井を呼び止めて問いかけた。
「大雨、洪水、暴風、波浪」
気象警報のオンパレード。あとは大雪、高潮、暴風雪が加われば最凶だ。
日本海沿岸に台風が上陸――なんて、毎年のように起こる出来事だから、さして面白くもおかしくもなかった。大体、警報で学校が休みになったとしても、どうせ補講があるのだ。喜んでいる人の気が知れない。
ふう、と私は本日二回目のため息をついた。
水の槍を降らす雨雲はどこまでも暗くて、ぼんやりと見ていると、空に吸い込まれて落ちていってしまいそうな眩暈を覚える。

平成十六年十月二十日、午後一時十分。
不思議なことに、家に帰れという指示がない。
普通ならば、警報が出ればすぐに担任がそれを伝えに来て、一斉下校となるはずだった。
教室の中のざわめきは雨音を圧倒して、生徒たちの不安が噂に形を変えて飛び交う。クラスメートの世論を統合した結果、危険だから帰宅させずに様子を見ようと教師たちが判断したのではないかという結論に達した。
台風なんてこの地域では珍しくもない、けれども今回のものはどうやらいつもよりかなり強いらしい。
「さっき管理棟で盗み聞きしたんだけど、警戒水位を突破したって」
情報通の土井が、なんだか嬉しそうに報告してくれる。市街地の中心を走る二級河川の水位が、台風の影響で上昇しまくっているようだった。
「警戒水位って、百二十一センチだっけ?」
「違うよ、百五十一センチ」
「は?」
百五十一センチ。その数字は私の心の中に、岩のような重量を持って落下する。私の家は、ちょうど河川のほとりにあるのだ。いつも見ている土手と水面の高低差は、さて、どれくらいだっただろうと考える。
「はいはい、着席、着席ー!」
扉の脇にたむろしていた生徒をかき分けるようにして、ようやく担任が教室に帰ってきた。クラスメートたちは素直に座ったが、ひそひそ話の混ざり合うざわめきは止むことがない。
「えー、先ほど、河川の水位が警戒水位を突破しました。知っている人もいると思うけど、本当は朝から警報が出てたんや。でも危ないから帰宅は見送ってたんやけど……」
担任はそこで一旦言葉を区切る。教室の中は、水を打ったように静まり返った。
「今のうちに帰らないと帰れなくなるかもしれないということで、全校生徒は一斉下校です」
一斉下校、という単語を聞いて、教室中がわっと沸き返る。よっしゃ、とガッツポーズをする男子。やったね、と友達同士でハイタッチする女子たち。なんだかんだ言っても、授業がなくなるのを喜ばない中学生はいない。
台風に圧迫されて陰鬱としていた空気が、一瞬にして阪神が優勝を決めた時のように浮かれたものへと変わった。
「河川を越える人が大半だと思うけれど、くれぐれも気をつけてね!」
担任の注意も耳に入らず、クラス全員が喜び勇んで帰宅の準備を始める。
――後にして思い返せば、家に帰れることに単純に喜んでいただけの私たちは、この上なく滑稽だった。

平成十六年十月二十日、午後一時三十分。
頭上からも足元からも吹きすさぶ豪雨に、目を開けていることすらつらい。地面に当たった雨粒が跳ね返るなんてものじゃない、地表全体が雨水を噴出すスプリンクラーになったようだった。
傘は学校に置いてきた。どうせ、開こうものなら一瞬でコウモリ傘になるだろう。
水を存分に吸い込んだ服が、重たい。鞄の中身がひどいことになってしまっているだろうと思うと、憂鬱の一言だった。
荒れ狂う暴風に、足が地面から離れてしまわないかと、言いようもなく不安になる。けれど歩き続けて、なんとか家に帰ることができた。
玄関の戸を閉めた瞬間、全身が震えに襲われる。外にいる間は寒さを意識する余裕もなかったのだ。安堵する間もなく、私は家族の手伝いをしなくてはならなかった。まずは家中の窓にガムテープを張る。ふちを囲い、バツ印に張っておけば、万が一何かが飛んできてガラスが割れても飛び散らないで済むのだ。
ひっきりなしに叩きつける雨に、家がまるごと叩き潰されやしないかと、そんな不安にさいなまれる。
窓ガラスに無数に走った雨の筋。その向こう側には、一縷の前照灯さえ見えなかった。

平成十六年十月二十日、午後三時二十分。
玄関の段を越えて、廊下にまで泥が浸水してくる。それは水とはとても呼びたくないような色をしていた。みるみるうちに畳がどろどろの茶色に侵食されていく。とうとう恐れていた事態が起こってしまった。
私と家族は必死で、床に散らばっていたものを机の上に避難させる。
濁った汚水が、畳を完璧に覆い隠してしまった。靴下が浸されて、冷たさよりも先に気持ち悪さを感じる。
この泥水は、いったい、何を溶かしているのだろう?  そう考えれば考えるほどに、吐き気が喉にこみ上げてきた。
浸水はとどまることがなく、水位は少しずつ、少しずつ増していく。温度計の純水銀が上昇しているのを観察しているような気分だった。そして、何の前触れもなく、その時はやってくる。
ふっと目の前が見えなくなった。電気が消えたのだ。いつもの――床を浸す泥水以外はいつも通りの居間が、残像を引いて私の視界から消えうせる。
突然のことに、私は何も言えなかった。暗闇の向こうから、安否を問う家族の声がする。大丈夫、と震える声で応えた。視覚がなくなった分、他の感覚が研ぎ澄まされていく。それまで聞こえなかったものが聞こえ、感じられなかったものが感じられるようになった。
家を押しつぶさんばかりに叩きつける雨音の嵐の向こうで、警報サイレンの低い音が不気味に唸っている。それを聞いていると、私たちだけが町に取り残されてしまっているのではないかという不安に苛まれた。
近所の家の人たちはすでにみんな避難してしまっているのではないだろうか? たとえばそう、丘の上にある、中学校の体育館。あそこならば、土砂崩れの危険はあっても、きっと水にはつかないだろう。
小さな虫の寄ってくる蛍光灯。逃げてきた人たちが不安げに座る、埃っぽい床。荒れ狂う雨風を遮ってくれる、ところどころ剥げた木の壁。
決して綺麗ではない、けれど……けれども少なくともここよりは、居心地がいいはずだろう。
暗闇の中で膝下まで泥水につかりながら、私はひとり、本日三回目のため息をついた。からっぽのため息に、感情なんかこもっていない。この泥のように重たい空気にのしかかられているせいで、肺に積もった不安を吐き出すことさえできなかった。

平成十六年十月二十日、午後六時。
腕時計をしているのに、光がなくては文字盤が見えない。停電してこの場を動けなくなってから、どれほどの時間が経っただろう? それは三十秒にも、三時間にも、三日にも思えた。時間の感覚なんてものは、とっくに麻痺してしまっている。鼓膜を直接打つような雨音だけが、時間が止まっていないことを私に教えてくれていた。
水はすでに腰にまで達している。たまに流れてきた棒のようなものや布のようなものが体に当たったりへばりついたりした。
やがて目が慣れてきて、暗闇の中でも家族の輪郭くらいは見えるようになる。けれどやっぱり腕時計の文字盤は読み取れなかった。
「サイレン、変わったね」
家族の声が数メートル先から聞こえる。一日も経っていないことは確かだというのに、見知った人の声がなぜか懐かしかった。
「え?」
「ほら、鳴る間隔」
そう言われて耳を澄ましてみる。サイレンの鳴るパターンが、確かに先ほどまでとは違うようだった。何かを周辺住民に伝えようとしているのだろう。
でも、何を? 私には分からない。それに、分かってもきっとどうしようもないだろう。
私たちは腰の上まで水に浸かっているのだ。雨に辛うじて耐えている古い木造住宅を出れば、文字通り溺れることしかできない。
雨に叩かれ、風に殴られ、泥の中にのまれていく――。それは、考えるだけでも恐ろしいことだった。
逃げる場所などない。逃げることなどできない。数時間前にはあったかもしれない逃げる手段も、もうここには存在しなかった。
「本当だ……。なあ、この水、どのくらいまで行くんやろう?」
泥の水は留まることを知らず、どんどん私の体を這い上がってくる。まるで蜘蛛の巣にかかってしまったようだと思った。逃げることもできずに、ただ恐ろしい怪物が去るのを待っていることしかできない。
「もう止まる。雨も止むよ。台風はすぐに東に行くと思う」
思う、ではなくて、思いたい、の間違いだ。だが、私は何も言わずにうなずいた。思いたいのは私も同じだったからだ。

平成十六年十月二十一日、午前零時。
寒さに耐えかねて自らの肩を抱きしめるけれども、全身の震えは止まらなかった。
風も雨も、やむ気配がない。
天井まで水が満ちたら、内臓を泥水に満たされて、もがき苦しみ死んでいくことになるのだろうか。
死に方を選べるとするならば、私は絶対にそんな死に方だけは避ける。それだけは確かだけれど、このままだと選ぶ権利すら与えられないかもしれない。
ほしいもの、できなかったこと、そしてしたかったことがぐるぐると頭の中に濁流を作って渦巻いていた。
……私は今日までいったい何をしていたのだろう?
こんなにもしたいことがたくさんあるのならば、どうしてこんなことになる前にしておかなかったのだろう。
(馬鹿だ、私は)
後悔と自己嫌悪、そして迫りくる水に対する恐怖だけが、今の私を形作るすべてだった。

平成十六年十月二十一日、午前二時三分。
時間の感覚だけでなく、全身の感覚がなくなっていく。顎が震えてしまって、歯がかみ合わなかった。
水位は胸の辺りまで来ている。
テレビのドキュメンタリーで洪水なんかが扱われたりするが、あのVTRは嘘ばっかりだと知った。本当に氾濫した水は、あんなに綺麗じゃない。瓦礫を流して色々な物体を混ぜ合わせ、濁った汚い色をしているものなのだ。
汲み取り車が通過した道に充満している空気からアンモニア臭だけを抜いたような悪臭が、周囲だけでなく鼻や気道にまで詰まってしまっている。
もう思考をめぐらせる気力さえもなかった。ただ体を支え、ただ呼吸するだけの、私は泥の海に浮かんだか細い葦だ。

平成十六年十月二十一日、午前三時五十分。
あんなに激しかった雨音は少し静まり、その代わりに風が空気を乱暴に切り裂く音が時折耳に届いた。幸いなことに、どうやら水位はもう上昇していないようだった。
「……っ」
私は唇を少しだけ開き、細く息を吐き出す。小さな空気の振動が、静寂に沈む部屋の中に響いた。
電灯の下にいたならば、きっと吐息が綿菓子のように白く染まって見えただろう。震える唇から今にも消えそうなほど細く細く紡ぎだされるのは、よくカラオケで歌った流行歌。その明るく弾んだ旋律が、私の頭の中に自然と浮かんできた。

――明けない夜なんてない。……だから私は、明日を信じて今日を生きるよ。

まっすぐで、爽やかで、ありきたりな歌だ。そのありきたりさが、私は好きだった。
体の芯が、風邪を引いた時みたいに熱を持っている。嗚咽がこみ上げてきて、私は唇をかみしめた。鼻の奥がつんとして、周囲の暗闇がじわりと滲む。あふれ出した熱いものが、やけに乾いた頬の上を伝い落ちた。消え入りそうな声はさらに震えたけれど、私は歌うことをやめない。
目の前に浮かぶのは、数週間前に行ったカラオケボックスの中の光景だった。暖かい照明に、柔らかいソファに、喉を潤すドリンク。そして、笑顔を向けてくれる友達。ここにそのうちの一つでもあったなら。そう思えば、さらに目頭が熱くなっていった。頬に筋を作る涙は、すぐに冷やされて、ひんやりとした感触を残すのみになる。
何も見えない闇の中、その暖かさだけが確かだった。

平成十六年十月二十一日、午前五時零分。
皮がくっついてつぶれてしまうのではないだろうかと思うほど、喉が渇いていた。歌うことをやめて、唇の端をなめる。少ししょっぱくて、アサリに混ざっている土のようなざらっとした味がした。
ガムテープの張られた窓の向こうから、ほんのりと熱を持った白い光が差し込んでくる。
――朝が来たのだ。
それを理解した瞬間、私の体は崩れ落ちそうになった。体力の限界をとうに越してたち続けていたのだ。
けれどもう少し、もう少しで助かると言い聞かせて、両の足に力を込める。
水はすっかり引いていたが、部屋の中の景色はがらりと変わってしまっていた。白かったはずの壁は、三分の二が汚い泥の色に染まっている。床に残った水には木の葉や、何なのか正体の分からない瓦礫が浮いていた。異臭漂うそこは、とてもじゃないが人の住めるような状態ではない。
私たちの「日常」は、粉々に粉砕されてしまっていた。
けれど――私は生きて、ここにいる。

朝のまぶしい陽光が、泥の海に浮かんだ町を優しく包み込んでいた。
明けない夜の先にある明日に、私はようやく出会えたらしい。