現代もの小説「死にたがり屋」

(C)ぱくたそ

ガラクタの旅路 ―前日譚―

――琥珀ッ!
そう叫んだ後のことを、オレはあまり覚えていない。琥珀を失いたくないという思いだけが体を動かしていたからだ。恥ずかしいくらいに無我夢中だったのだと思う。とにかくオレは気づいたら病院にいて、診察室の扉を莫迦みたいに睨んでいた。
奥に行くにつれて壁がくすんでいるように見える廊下で、薄汚れたベンチに腰掛ける。隣に座った母は眠っているかのように目を閉じていた。眉間には不機嫌そうなシワが深く刻まれている。
窓の向こうを鳥が泳いでいくのが見えて、のんきなものだと呆れた。
琥珀が緊急処置室に連れていかれてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。秒針が静かに時を刻んでいる中、病院のざわめきがとても遠くに聞こえた。クーラーの動くかすれた金属音が、高まった心臓の鼓動をなだめてくれる。それでもまだ扉が閉じられた音の余韻が耳に残っていた。
「琥珀……死ぬのかな」
無意識のうちに漏れたオレの呟きは、薄暗い廊下に頼りなく漂う。感情が麻痺していて、自分が悲しいのかどうかすらわからなかった。
「琥珀、なんて呼ばないでくれる?」
冬の荒波みたいに冷え切った声が、斜め上から降ってくる。オレは驚いて母の横顔を見上げた。目を閉じてはいるものの、眠ってはいないらしい。鮮やかな赤のルージュを塗った唇は、嫌悪感に歪められていた。
「死ぬのかな……か」
母の吐き出すため息には、煙草の臭いがまとわりついている。
「さあね。でもあの女はさぞかし必死で祈っているでしょうね、娘の無事を」
母は毒々しいほど赤い唇の隙間から、淡々と呪詛を紡ぎ続けた。細々としているくせに怒鳴り声なんかよりもずっと恐ろしい声だ。
生まれたときからずっと、オレは母と二人で小さなアパートに住んでいる。
父は地元の名士で、母とは比べものにならないくらい金持ちだった。そして琥珀の母と琥珀と一緒に、お城みたいに大きな家で暮らしている。
オレの母は「あいじん」だと聞いた。琥珀の母は「せいさい」だという。何がどう違うのか、よく分からなかった。
――あの子にだけは負けちゃ駄目よ。
小学四年生として迎えた今年の春、琥珀と同じクラスになったオレは母に繰り返しそう言われた。琥珀は憎い敵らしい。
――あの子は最悪よ。血も性格も根性もね。
けれど実際に話してみるとすぐ、母から言われたことは嘘だとわかった。琥珀は変だけど努力家で、そして何よりも優しい人間だ。同じ父から生まれた兄弟として、それから同じクラスの仲間として、オレは琥珀を好いている。だから琥珀が発作を起こした時、助けの手を差し伸べたのもごくごく自然なことだった。母の敵と仲良くすることで、罪悪感を覚えなかったわけではないのだけれど――。
「本当に……あの女の子供なんて、初めから存在しなければよかったのよ」
その一瞬、母が何を言ったのかが理解できなかった。頭の奥に言葉が入ってこない。オレは母の顔を呆然として見つめた。横に座っているのは母ではない。別の生き物が人間の仮面をかぶっているのだ。そんな風に思えて仕方なかった。
(存在しなければよかった? 琥珀が?)
緊急処置室の扉を憎悪の視線で睨みつけている母の顔は、鬼女そのものだった。続く言葉に、オレは我が耳を疑う。
「迷惑だわ、自殺なんて。でもまあ当然よね。罪は償わなくちゃ。あの子は存在自体が罪……どうせなら、もっと早くに自殺してくれればよかったのにね」
もうオレには母の考えていることがさっぱり理解できなかった。
(琥珀の存在が罪って、どういうことだよ?)
大人になれば分かるのだろうか。それならば大人になんか絶対なりたくない。
ふと気づけば、母の鋭い視線の先に「あの女」がいた。看護士との会話を終えて、つかつかとオレたちの方に歩いてくる。「あの女」――琥珀の母は、気のせいか前に見たときよりも随分やつれていた。私は苦労していますと顔に書いてある。
「聞こえてます。あなた、自分が何を言っているかわかっていらっしゃるの!」
音量を抑え切れていないヒステリックな叫び声がオレの頭を貫通した。琥珀の母は、ベンチに腰掛けたオレたちを目一杯高圧的に睨みつけてくる。それを他人事のように観察しながら、オレは「琥珀って両親に似てないな」なんて思った。父ともオレの母とも琥珀の母とも違い、琥珀の瞳は生きている。死にそうでも、確かに瞳は活きているのだ。
「何って、ありのままのことよ」
オレの母は臆することなく平然と返した。
「ふざけないでいただける。私の娘が自殺? 何を根拠にそのようなことをおっしゃるの!」
「あら。だってそうじゃない。あんなに重たい病気を持ちながら入院しないってことは、初めからこの事態を望んでいたということよね」
得意げに嘲笑を浮かべるオレの母とは対照的に、琥珀の母は顔面蒼白で今にも倒れそうだった。
そう、琥珀は幼い頃から体が弱い。発作の恐怖に怯えながらも入院しなかったのは、琥珀のわがままで――消極的な自殺とみなされても仕方なかった。
「私の娘は、水瀬家の大事な跡取りです。死ぬだなんて、縁起でもないことを言わないでくださる?」
娘である琥珀の命よりも跡取りの心配をしているように聞こえた。
いや、違う。琥珀の母が心配しているのは水瀬家の、父の財産だけだ。琥珀が家に帰りたくないと言っていた理由がよくわかる。琥珀の母にとって、娘は財産のくっついた依り紐にすぎないのだ。そして多分、オレの母にとっても……。
「そのことなら平気です。跡取りなら、ここに、あなたの目の前にいます」
オレの母はおもむろに立ち上がると、オレの肩に手を置いた。オレはそのまま琥珀の母の眼前へと引っ張りだされる。琥珀の母の視線が痛いくらいに突き刺さった。遠からず実際に刺し殺される日が来るかもしれない。そんな恐怖をありありと感じた。
「さっきから何よ……あなたは琥珀の死を願っているの? 小学生の女の子が必死で病気と戦っているのよ。なのに何よ。この人でなし。財産目当ての雌狐が!」
琥珀の母が人目を気にもせずに声を荒げる。オレの母は軽蔑するように眉をしかめた。
「どうせじきに死ぬ弱い子を持つあなたが何を言っても負け惜しみにすぎないわ」
「な……ッ」
琥珀の母は、わなわなと唇を震わせる。
「哀れだからあなたの戯言を聞いてあげてるけど……勘違いしないでね。水瀬家の跡継ぎはね、間違いなく陸也なのよ」
自信たっぷりにオレの母が宣言すれば、琥珀の母は言葉をなくして顔を凶悪なほど歪めた。言いかえせないのがよほど悔しかったのだろうか、琥珀の母はしばしの沈黙の後に背中を見せて立ち去った。
オレの母は、ざまあみろとでも言いたげに鼻をならす。
「どうほざいたって、関係ないわ。あの女が正妻? それが何よ? 陸也が跡取りになりさえすればいいの。戸籍なんかどうにでもなるわよ。あの女の娘が死ねば。早く自殺を成功させてほしいわ」
――これは琥珀が精一杯考えた覚悟の結果だ。自殺だなんて薄っぺらい言葉で片付けてほしくない。そんな風に思うけれど何も言えなかった。
琥珀は自殺しようとしたんじゃない。無責任な大人たちに追い込まれたんだと叫びたい。頭の中が怒りで真っ白になった。琥珀を病院まで連れて来たことに対する後ろめたい気持ちが、じゅっと音を立てて蒸発する。
琥珀は可哀想だ。自分が死ねばみんなが幸せになれると信じこんでいたのだから。大人たちなんか財産や世間体のことしか気にしていないのに。
琥珀は可哀想だけれど、一歩引いてみればオレも同じだった。琥珀と同じ状況になっても、オレのことを心配してくれる人はきっと一人もいないだろう。財産ではなくオレ自身のことを思ってくれる人は、この世界にはきっと存在しない。そういう意味で、オレと琥珀は仲間だ。
オレは膝の上で拳を強く強く握りしめた。何も目に入らない。心に不安が満ちていた。黒い潮騒が押し寄せてくる。どことなく現実離れしていた目の前の出来事が、急にリアルな質感を持って迫ってきた。
灰色の扉はずっと沈黙している。
オレの思考は同じ位置を何度もぐるぐると廻った。
――琥珀が死んだら、どうしよう。本当に、どうしよう。
かけがえのない仲間の無事を、オレは心の中で祈り続ける。
ようやく扉が開いた時、母は隣にいなかった。動転したオレに電話で呼び出されたから来ただけで、琥珀に会うつもりなんか毛頭なかったのだろう。
「あ、みー君だー」
看護士さんに付き添われて扉から出てきた琥珀は、オレを見るなり目を丸くした。長い間ずっと待っているだなんて思っていなかったのだろう。
「琥珀、大丈夫か」
琥珀の顔は漂白されたみたいに生気が抜けていたけれど、だんだん人間らしい色が戻ってくる。
ブランドものの子ども服をまとった体は、やっぱり陶器みたいに白い。手足なんか細くて、ちょっと力を込めて触れば折れてしまうのではと思うほどだった。
「えへへ、今回はラッキーだったけど、次もそうだとは限らないって言われた」
他人事のように言ってからからと笑う琥珀に、オレは全身の力が抜けていくのを感じる。
「……でも僕は絶対に入院しないよ。今度こそ、って思うんだ」
琥珀はたんぽぽの綿毛みたいにふわふわしてつかみどころのない微笑を浮かべる。
背後に控えた看護士は何か言いたそうだったが、ぐっとこらえて唇を引き結んだ。
「なんでだよ莫迦。お前をここまで連れてきたオレの気持ちも考えろよ」
オレが生まれたのは「気の迷い」で「魔がさした」にすぎないらしい。そう、琥珀の両親はもともと仲が良かったのだ。オレの母は巧みにつけ込んだのだという。幸運なことに琥珀は重たい病にかかり、おまけに琥珀の母はもう子どもが産めない体だった。
つけ込まれる原因になった娘の病気のことでいがみ合う両親を見るのは、琥珀にとってつらいことだという。
「……なんで連れてきてくれたの」
オレは予想外の言葉に瞳を大きく見開いた。琥珀は二、三度まばたきしてから続ける。
「みー君、なんで僕を助けたのかな。だって僕が死んだら、みー君のお母さんは絶対に喜ぶよ」
琥珀が死んだらオレの母は喜ぶ。それだけは間違いなかった。
「みー君だって、大きな家に住めたら幸せでしょう……?」
僕も両親の喧嘩するところを見なくてすむなら嬉しい、そんなことを琥珀はかすれた声で言った。
(幸せ? 琥珀が死んで父の家に住めるようになることが、幸せ?)
オレは琥珀の頭をポンポンと労うように優しく叩いてやる。
「莫迦だな。琥珀は本当に、本当にバカだ。オレはそんな幸せなんかいらねーよ」
その瞬間、こらえていたのであろう涙が琥珀の瞳から溢れ出した。
「あれ……おかしいな」
強がっていた琥珀の表情はみるみるうちに崩れていく。不憫すぎて見ていられなかった。
「なんでだろう、止まらないや……っ」
頑固で優しくて意地っ張りな琥珀は、必死で涙を隠そうとする。
オレは抱きしめるようにして琥珀の頭に手を回した。
「生きろよな」
「……っ」
琥珀の細い肩がかすかに震えた。オレは遠くを見据えて、力強く言い放つ。
「わがままかもしれないけど、オレは琥珀に生きていてほしい」
それ以外にも言いたいことはたくさんあったはずなのに、胸が詰まって言葉にならなかった。視界が熱くにじみ始める。ぱちぱちと何度も必死でまばたきを繰り返した。耐えきれずに頬を伝った熱い滴が、琥珀の頭にポツリと落ちた時――。
こくり、と。琥珀は小さく……でも、確かに頷いてくれた。

あの後、琥珀はとうとう入院することを承諾した。病院にいれば、発作が起きても医師がすぐに来てくれる。いつまで保つかは分からないが、きっと家で暮らしているより長生きできるはずだ。
それが琥珀にとって幸せなのかどうかは、分からない。だから生きろと言ったのはあくまでもオレのわがままだ。
オレが琥珀のいない小学校を卒業した頃に、父と琥珀の母は離婚した。今となってはどうでもいいが、別れろと脅迫されてひどい嫌がらせを受けていたらしい。
代わりにオレの母と父がめでたく結婚して、オレは大きな家に住むことになった。父は母の言うことなら何でも聞くくせに、子どものオレには厳しい。父は躾をするために「叱る」のではなく、ただ理不尽に「怒る」のだ。そのことに気づいたオレは、自分勝手な大人たちのことを嫌悪するようになっていった。
幾度となく家出して、そしてふらりと気まぐれに舞い戻る。ふわふわとして気だるい時間を延々と過ごした。
そうして中学校を卒業する直前に舞い込んできたひとつの知らせが、オレのその後を決める。
「小学生時代にあんたの同級生だった、琥珀とかいう子――死んだんだってさ」
突然の電話を受けて、母は何の感情もなく平然とそう言った。喜びも悲しみもしない。母にとってはもう、琥珀のことなんかどうでもよかったのだ。
治療費を払わなくてよくなったから、父はちょっぴり安堵していた。
オレは琥珀に酷なわがままを押しつけてしまっていたのかもしれない。
頑固で、優しくて、意地っ張りで、死にたがりだった琥珀。死因は廃ビルの屋上からの転落――自殺だった。
オレは琥珀のことが本当に好きだったのだと、死の知らせを受けて初めて気づいた。
気づいたところでどうしようもない。けれど琥珀を追い詰めた大人たちと、無責任に生きろと言った自分だけは絶対に許せなかった。
中学校を卒業した日の深夜、オレは自分の部屋で荷物を学生カバンにまとめる。両親のもとを出ていく――そんなことでしか反抗心を表現できない自分は、やっぱり幼いままだった。
琥珀がいたら何というだろうか? きっとオレの顔を見て柔らかく切なげに微笑むのだろう。
父と母と共に暮らす家に琥珀が言ったような幸せとやらは存在しなかった。
今にも降ってきそうな煌めく満天の星の下、オレは長い旅に出る。
「元気でな」と短く呟いて空を見上げれば、小さな光が祝福するかのようにきらりと瞬いた。