現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

もう何も失いたくない。
目を閉じて、耳をふさいで、必死で逃げようとする。
それなのに。
その絵を初めて見た時の感動は、心の奥に鮮明なままで残っているのだ。
――西口友絵。
彼女の名前を初めて知ったのは、散った桜が地面を桃に染める頃だった。
日直の資料整理をさせられて疲れきった瞳に、優しい色が飛び込んでくる。
「先生、これは?」
「ああ……芸術科のね、春の優秀賞の最終候補作品だよ。触っちゃ駄目だよ」
整然と並んでいた絵画はどれも、同じ高校生が描いたものだとは思えない出来だ。しかしその中でひときわ目立つのが、日向で眠る猫の絵だった。
優しい視線を間近に感じられる色彩。
線は安定しきっていないが、そこが逆に魅力に思える。
絵の下に記入された作者の名前を、頭の中に刻み込んだ。
「――でね。友絵ちゃんがね……」
お世話になっている家に帰ると、真っ先に居間に入る。
つけっぱなしのテレビと向かい合って座るのは、同い年のイトコだ。
確か彼女の作品もさっき見た中にあった。技術力だけで見れば、文句なしの一番ではないだろうか。
野間野アスカ。
彼女の父――自分の母の兄は、有名な画家だ。
そのこともあり、アスカは芸術科のエースだという。
「ただいまー」
「おかえり」
短く素っ気ない挨拶を交わすと、自分の部屋への階段に向かった。背後でアスカは、台所に立つ母親との会話を再開させる。
「そう、友絵ちゃんも大変ね」
「まあね、勝負の厳しさを知らないというか……純粋だから。あの子が描く絵と同じで」
これまでずっと興味をもたなかった噂話を聞いて、驚いた。
アスカは『西口友絵』の中学時代からの仲良しな先輩だという。
(へえ……)
あの絵の作者はどんな子なんだろうか。
どんな風に見れば、世界があんなに優しいものに感じられるのだろうか。
アスカの話を耳にするたびに、『西口友絵』への興味は強くなっていった。
自分のことを慕ってくれる、素直で可愛い後輩。
絵に対して純粋にひたむきで、上達も早い。
でも決しておごることはなく、むしろいつも自信なさげにしている。
アスカは両親の前で『西口友絵』のことをそんな風に語った。
あの絵の中で猫が包み込まれていた日溜まり。まぶしそうな瞳はまん丸で、生への喜びと温かみに満ちていた。
課題を解く手を止めて、背伸びついでに天井を見上げる。
「……ルカ」
ぽつり、つぶやいた。
(あの絵を見せてやれたらいいな。あの子にも)
大事な人の微笑みを、頭の中に浮かべる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。