現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

「友絵ちゃん、できはどうかしら?」
「えへへ、実はまだいい題材が見つかっていないんです」
私、西口友絵は話しかけてきた先輩に柔らかな微笑みを返した。
「実はね、私も全然なのよ。題材は先生に相談して決まったのだけれど……。あーあ、みんなピリピリしてて嫌になっちゃう」
同じ芸術科の三年生である野間野アスカ先輩は、そう言って静かにため息を吐いた。
茶色がかったショートヘア。日替わりのヘアピンが大人っぽい。
あっさりした性格で絵もうまいアスカ先輩に、私は前々から憧れていた。
「仕方ないですよー。芸術展に出られる機会なんてめったにないから……。アスカ先輩、頑張ってくださいね。先輩は代表になるって信じてます!」
私は先輩を元気づけようと明るく言った。
アスカ先輩は、疲れた顔に苦笑いを浮かべる。
心なしか、胸元で結ばれたリボンもクタリと元気をなくしていた。
「頑張って、じゃないでしょ。友絵ちゃんも芸術科の一員なのだから。私たちもライバルよ。一年生と三年生とはいえ、芸術に年齢は関係ないもの」
「あはは、そうでしたね。でも私なんてアスカ先輩の足元にも及びませんよ」
――秋にある大きな芸術展。
入賞すれば名が上がる、私たち芸術科の生徒にとっては大きなチャンス。
けれど、そこに出品できるのは学校側から推薦された三作品だけだ。その代表の座をめぐって、我が芸術科では毎年熾烈な戦いが繰り広げられている。
「ありがとう。そういうことを素直に言えるなんてすごい。友絵ちゃんは欲がないわね」
「欲はないかもだけど、意欲は満タンです!」
「そう。誰かを蹴落としてでも有名になりたいとか……思わないの?」
アスカ先輩が不思議そうに聞いてくるけれども、私にしてみればその質問こそが不思議だ。
「誰かを蹴落としてまで生み出した作品で、誰かを感動させることはできないと思います」
「あはは……そうね。一年生はまだ呑気でうらやましいわ。でも覚悟しておきなさいね、二年生になったら芸術科の生徒はみんな敵よ」
そう言ってアスカ先輩は作業に戻っていった。
校内のあちこちを見て回って絵の題材を探しているらしい。いつも余裕しゃくしゃくで悠然としていたアスカ先輩が、今は切羽詰まった顔をしていた。
代表として芸術展に出た生徒は、もれなく難関芸術大学への推薦を受けることができる。そのこともあってか、芸術科の生徒が芸術展にかける意気込みは並じゃなかった。
私たち一年生はまだマシだが、二、三年生にもなると凄いらしい。
ライバルであるクラスメートとは、お互いに挨拶すらもしなくなるというから恐ろしい。
私も手元に目を落とすと、アスカ先輩に負けじと描きかけの絵を再開した。
身内に画家はいない。
けれど小さい頃から絵を描くのが大好きだった。
だから私は高校を受験するとき、迷わずこの学園を選んだ。
専門学科の一つである芸術科には、絵画の道を志す生徒たちが全国から集まっている。
「ふう……疲れたあー」
桜の木に背中を預けて、少し離れたところにある校舎を見渡した。
紙から顔をあげると、立ち並ぶ木々の深緑が目を癒してくれる。
春が終わり、夏がくる。
私はこの季節が大好きだった。
だからこんな天気のいい日は、よく外でスケッチをする。
――そういえば、あの日もこんな風に暖かかったっけな。
私は筆を緩やかに走らせながら、ほんの一週間前のことをぼんやり思い出した。
桜の木の下にたたずんでいた、名前も知らない人。
私はなぜだか彼の姿を忘れられないでいた。
校舎の窓越しに上から見かけただけ。
名前も知らないし顔だって見てない。
それなのに、こんなに気になっているのは何でだろう?
私は桜の根元に筆を立てかけて置いた。
ふう、と一息つきながら自分の描いたものを見返してみる。
何の変哲もない校内の風景だ。
私が見ている景色よりもいくらか淡い塗り。
描き出した学校は、本物よりも優しく思えた。
――今日はこのくらいにしておこうかな。
遠くにある時計塔の針が、もうじき昼休みの終わりを告げるだろう。
私は丁寧に紙をしまうと、キャンパスを片付ける。
立ち上がろうとしたとき、何かが勢いよく私の膝に飛びついてきた。
「きゃあ!」
黒い物体。けむくじゃらで、とてもこそばい。
猫、だった。
呆気にとられた私の頬を、ざらついた舌がペロペロとなめる。
ずいぶん人懐っこいものだ。まだ子猫らしく、ぬいぐるみのように小さい。
私は子猫の頭を優しくなでてやった。
「よしよし……親はいないの?」
私が尋ねると、子猫はまん丸い瞳を丸めて首を傾げる。
どうやら迷子らしい。
私が戸惑っていると、飼い主らしき人の低めで穏やかな声がした。
「ルカ!」
子猫はその声がした方へ、嬉しそうに駆けていく。
「大丈夫かな? ルカが迷惑かけた?」
歩み寄ってきたその人を見て、私はハッと息をのんだ。
柔らかそうな髪には、確かに見覚えがある。
この学校のブレザーにズボン。胸元の校章は緑だから、三年生だ。今どき珍しく、ネクタイをきっちりとしめている。背は高くて、どことなく細長いように見えた。
「探していたんだよ。見つかってよかったー。ありがとう」
嬉しそうな声を聞いて、思わず心臓が飛び跳ねた。
「い、いえ、私は何もしてないです」
なぜか知らないけれど、胸の鼓動が高まる。
普通科の三年生だという彼は、都築 智と名乗った。
さとる先輩、と私は口の中でつぶやく。
「ここ、フェンスに穴が空いているんだ。だから飛び出して引かれてたらと思うと、気が気じゃなかったよ」
「そうなんですか。何はともあれ、よかったですね」
智先輩は子猫――ルカを抱き上げると、ゆっくり体をなでた。
ルカはずいぶんな懐きようで、気持ちよさそうに喉を鳴らして丸くなる。
智先輩の優しそうな目もとを見て、間違いないと確信した。
(あのときの人だ……!)
柔らかく跳ねた、色素が薄く短い髪。校舎の窓から見下ろした姿。
もはや疑いようもなかった。
あのときの彼が目の前で笑っている。
胸がよくわからない熱さで一杯になった。
「それ、もしかして絵? 見てみてもいいかな」
「あ、はい、どうぞ」
脇に丸めて置いた絵を、私は慌てて差し出す。
智先輩は私の絵を広げると、まぶしそうに眺めた。
そういう風な表情で見てくれるのならば、描いた側としてはとても嬉しい。
智先輩が身にまとう空気は、とてもやんわりしていた。どこか輪郭がぼやけているような印象すら受ける。
「―君の名前は、何ていうの?」
ボーっとしながら智先輩を見ていたら、いきなり話しかけられて焦った。
「えっと、西口 友絵です。芸術科の一年A組です」
私がぺこりとお辞儀すると、智先輩は柔らかく目を細めて笑う。
「友絵ちゃんか。いい名前だね。絵のことはよくわからないけど、この絵、色彩が素朴で好きだな」
「あ、ありがとうございます。この仔、先輩が飼ってるんですか?」
私が問いかけると、智先輩は意外なことに首を横に振った。
「いや、餌をやってたら懐いちゃって。まあ、飼ってるってことになるのかなー」
「そうなんですか」
「可愛くてさー、ここでこの仔と一緒に弁当を食べるのが日課になってるよ」
「じゃ、じゃあよかったら私もご一緒していいですか!」
私は思わず身を乗り出すと、頭に浮かんだ考えをそのまま口にする。
智先輩はびっくりしたようだった。目を丸くしてキョトンと私の方を見る。
「その……突然こんなこと言ってごめんなさい。私、仔猫、好きなんです。ダメ……ですよね」
私はうつむき加減に、言い訳めいたことをつぶやいた。
前髪をくしゃりとなでつけるようにして顔を隠す。
初対面の、しかも先輩に向かってこの提案は大胆すぎた。
返事がないのが怖くて、私は頬を紅潮させてうつむく。
不用意なことを言って、智先輩を困らせてしまった。
そう思って立ちすくんでいたら、不意打ちの質問が投げかけられた。
「んー。友絵ちゃん、いつもは誰とお弁当食べてる?」
「え? 私は……私は一人です」
智先輩に見えないように、私はギュッと拳を握りしめる。
(一人、か)
嫌な言葉だった。
「ああ、芸術科はみんなライバルで敵同士だって聞いたことがあるよ。大変だねー」
けれど智先輩は深く突っ込まないで、好意的に解釈してくれた。
「いいよ。おいで。僕も毎日お昼はここに来るから」
智先輩はそう言って和やかに笑ってくれる。
私はバッと顔を上げた。
信じられない思いで智先輩の顔をまじまじと見る。
「ん? 顔に何かついてる?」
「いえっ。ただ、その……ありがとうございます」
「お礼なんて構わないよ。お弁当は一人より二人で大勢で食べた方が楽しいもんね」
含みのない純粋な微笑み。とても暖かい肯定のコトバ。
今の私にはそれが、泣きたいくらい嬉しいものに感じられた。

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