現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

「――アスカ先輩」
学校からの帰り道、見慣れた後ろ姿に声をかける。
アスカ先輩は大人びた笑顔を浮かべて微笑んでくれた。
「あら、友絵ちゃんじゃない」
アスカ先輩は誰より遅くまで残って絵に向かっている。
みんなからは天才だと言われているけれど、私は違うと思う。アスカ先輩は天才かもしれないけれど、その前にまず、努力の人だ。
「先輩、何かいいことでもありましたか?」
夕日に染められたアスカ先輩の頬が嬉しそうに見えたので尋ねてみた。
「ううん、別に。でも、何もかもが順調よ」
「そうですか。それは何よりです」
自分が落ち込んでいるから、相対的に他の人が幸せに見えるのだろう。アスカ先輩のいつもと変わらない様子を見て、そう思った。
アスカ先輩に誘われて、一緒に帰ることにする。
私には家の近い友達がいなかった。
ライバル同士ということで、アスカ先輩も友達関係がギスギスしているらしい。ならこれからも一緒に帰ろうと誘われて、二つ返事でオッケーしてしまった。
「友絵ちゃん、智と何かあったの?」
久しぶりの名を聞いて、私の心臓は跳ねる。
智先輩は、アスカ先輩や家族に何かを言ったのだろうか。
「どうしてですか?」
「最近あいつ、元気ないみたいなのよ」
呆れたような表情で、アスカ先輩はさらに続けた。
「あいつに笑顔がないと調子狂うし家の中が暗くなるし、本当に迷惑」
「智先輩は家の中のムードメイカーだったんですね」
そう言うと、アスカ先輩は実に嫌そうな顔をした。
「どこが! あんなよくわからない奴、空気よ、空気。今、湿度が通常より十パーセントアップしているの。超不快なの。――原因、わかる?」
「それは……」
私は口ごもってしまう。
智先輩が落ち込んでいる理由といえば、思いつくのは一つだった。
「ルカのこと……やっぱりショックだったのかな」
一人ごとをつぶやいたつもりだったけど、アスカ先輩にはばっちり聞かれてしまった。
「ルカ? ああ、最近また調子がよくないんだってね……。智が三日に一回は通ってる。あんな幼い子が、可哀想にね」
アスカ先輩のしみじみとした言葉に、私は強烈な違和感を覚える。
どうも話が食い違っていた。
「あの、調子ってどういうことですか? 可愛い子って……先輩が言っているルカって」
「え? 智から聞いたんじゃないの? ルカは私のイトコだけど」
つまりは智の実の妹ね、とアスカ先輩は付け加える。
私は足元の地面がぐらりと傾ぐのを感じた。
智先輩は妹さんと同じ名前を黒い仔猫につけていたのだ。
「本当は、ハルカっていうの。都築 はるか。みんな縮めてルカって呼ぶけどね。本当に可愛い子なのよ。面接禁止されてるから数年会ってないけど。――六歳まで生きられないと言われていたのよ」
確か小学三年生だと聞いた。
つまり今、八歳か九歳ということになる。
――文化祭に妹を連れて来ようと思うから、そのときにでも。
面会禁止になるくらい妹さんの病状が酷いというのなら。
あのとき智先輩が言ったことは嘘だ。
文化祭になんて来られるはずがない。
「……ルカって、私てっきり猫のことかと」
「猫? ――そういや、この前の猫が引かれた事故もあいつにとってはショックかも。思いっきりトラウマ引き起こしそうだもんね」
「トラウマですか?」
私が聞き返せば、アスカ先輩は大きく頷いた。
「そう。両親のときも智は目の前で見ていたっていうから」
「両親……?」
私がオウム返しに訊くと、アスカ先輩は大きく息を吐いた。
「なんだ、智は友絵ちゃんにも言ってなかったのね。まあ言いたくはないだろうから仕方ないかな」
「智先輩のご両親が、どうかしたんですか?」
アスカ先輩は口を引きつらせて、しまったとでもいうような表情をする。
「あー、ごめん。ストップ。やっぱりこの話、聞かなかったことにしてくれない?」
「教えてくれませんか。智先輩のご両親が、どうかされたんですか? トラウマって……何のことなんですか」
話題を打ち切ろうとするアスカ先輩に、私はなおも食い下がった。
「うーん。智が言ってないのに私がペラペラ喋っていいのか分からないんだけど……」
「お願いします。知りたいんです。教えてください!」
アスカ先輩はしばらく黙っていたが、やがてため息をつく。
「……まあ友絵ちゃんにならいいかな。でも気持ちのいい話じゃないよ。それだけは覚悟してね」
私が頷けば、アスカ先輩は開き直ったように話し始めた。
「――あいつ、智はね。まだ小学生だった頃に、ご両親を亡くしているのよ」
言葉をなくした私を前にして、アスカ先輩は淡々と語る。
「私は親戚たちからの噂で聞いただけなんだけど、事故が起こって。智のご両親の死に方っていうのが、結構なものだったらしいのよね。智の目の前で、その」
アスカ先輩はどこか遠くを見て、話しづらそうに言った。
「……あの時の猫みたいな。そんな感じだったそうよ」
――両親が事故で死んだ。
まだ幼い子どもの頃に。
数日前のルカみたいに、目の前で、ぐしょりと潰れて。
私は後頭部を殴られたような衝撃を感じた。
両親が死に、残された唯一の家族である妹。その名を冠した猫が、あんなにも無惨な死に方をした。
(あの時、智先輩はどんな気持ちだったんだろう)
昔、飼っていたハムスターの仔に友達の名をつけようとして叱られたことがある。ペットはすぐに死んでしまうから。死んでしまうのは、とても縁起が悪いから。
「それで智先輩は、アスカ先輩の家に」
「両親同士の仲がよかったからね。それと、私の父が、画家になるために稼業を継ぐのを妹に――智の母親に押しつけたっていう負い目があったから。亡くなったのが仕事中の事故だから、なおさらね」
アスカ先輩が静かな微笑みを浮かべて言う。
「智は元々手がかからない子だし、上手くやってるわ。家事でも何でも器用にこなすから、実の娘である私にとっては、目の上のたんこぶ。正直、何かと比較されて不愉快」
「はは……正直ですね」
智先輩もアスカ先輩も、きっと私なんかでは想像もつかないような苦労を重ねてきたんだろう。
私が裏庭で呑気に絵を描いているときも、智先輩は重い荷物を背負っていたのだろうか。
そう思うと辛かった。
独りだった私は、智先輩に助けられたのだ。
――助けてもらうだけ。
何も返せていない。
だから、智先輩に会いたいと思ってもらえなくても仕方ない。
「私は智が嫌いよ。だって解らないもの」
アスカ先輩の細長い影が足を止めた。
私もつられて立ち止まると、視線を上げて空を見る。
あのとき染みついていた血のような赤が、夕暮れの空を支配していた。
「両親がいなくて、妹のために死ぬほどバイトしまくって、それなのにどうしてヘラヘラ笑っていられるの? 心なんて傷まないし辛くなんてないみたい。智はまるで――世界に自分以外の人間がいなくても平気みたい。そういうのって、得体が知れなくて、嫌い」
違う、と思う。平気なんかじゃない。
きっと、智先輩は強がっているだけだ。けれど、それをアスカ先輩にうまく伝えられる言葉が見つからなかった。
「だから、智と友絵ちゃんが仲良いって知ったときね、びっくりしたけど、嬉しかった」
アスカ先輩は夕日を見上げたまま、まぶしそうに瞳を細める。
私は思わず視線を下げて、自分の影を見つめた。
針金のように細長い影が、道端に線を引いている。
ルカを引いたタイヤの跡が、不意に目の前へと浮かんで消えた。
「他人に興味を持って、ちゃんと友達を作れるんだ、って。……あいつ、友絵ちゃんと会ってから本当に笑うようになったの。以前はバレバレの作り笑顔だったのにね」
「アスカ先輩は、本当は智先輩のこと……嫌いなんかじゃ」
私が言いよどめば、アスカ先輩は口元に人差し指を立てて笑う。
「言ったでしょ? あいつが元気ないと家の中の湿度がアップして超不快だ、って」
家族だからね、とアスカ先輩は瞳に優しい光を灯した。
降り注ぐ夕陽は、いつの間にか血の色から暖炉の日溜まりの色に変わっている。
(……素敵な家族ですね)
アスカ先輩が照れてしまうのがわかりきっているから、口には出さないけれど。
智先輩は不幸じゃないと思った。
アスカ先輩や、アスカ先輩の両親がいる。
血がつながっていなくても、ちゃんと想ってくれている。
紛い物じゃない、本当の『家族』だ。
「私……」
「どうしたの?」
私は顔をあげて、アスカ先輩の顔を見据えた。
幼い頃の智先輩が直面していた現実に比べれば。私の目の前にある壁なんて、大したことない。
(智先輩もアスカ先輩も、強い人だな)
今はとてもかなわないけれど。
いつの日か、先輩たちみたいに私も強くなれたらいい。
だから……絶対に、私は負けない。
「私、何が何でも、くじけないでいます。――文化祭の代表も、全部、諦めません」
絵をめちゃくちゃにされたくらいで落ち込んでいた私は、とても幼い。
アスカ先輩は私の言葉を聞いて、心なしか瞳を黒く濁らせた。けれどすぐに、私の好きな大人びた微笑みを浮かべてくれる。
「そう。ライバルだから応援はできないけれど、頑張ろうね」
「はいっ!」
――頑張ろうね。
アスカ先輩の言葉が本物だと、この時の私は信じて疑いもしなかった。
もちろん今だって――。
信じていられるのなら、信じたいのだけれど。

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