現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

「友絵! 今日は学校に行く?」
「ん……行く」
窓から差し込む朝日に瞳を開ける。
季節外れの風邪は、意外に長引いた。
二日連続で学校を休んだというのに、体は重いままだ。
でも今日は文化祭――代表が発表される日だ。
なんとしてでも学校に行って、代表選考の結果を見届けたい。
――舞台の中央に飾られる三作品。
その作者が、秋の芸術展への栄えある切符を手にするのだ。
「ああ、そういえば今日が文化祭だっけ? 最近、絵ばっかりだったのに」
「仕方ないよ。みんな代表目指して必死だから」
朝ご飯を食べながらも、まだ実感がわかない。
今日が文化祭。
いつもならおいしく感じられるご飯の味が、よくわからなかった。
「普通科はクラスごとに準備をして出し物をするみたいだけどね。芸術科にそんな余裕はゼロ」
「ふーん……」
母は弟と父のお弁当を作るのに意識を向けている。これから仕事だから、娘の文化祭を見に来ることはできない。
(でも寂しいなんて思わない。幼稚園の運動会じゃあるまいし)
「ごちそーさま」
箸を置いて手を合わせると、私は席をたった。
病み上がりのせいか、まだ頭が少し痛い。
足もふらふらとして、階段を上がる時にもたついた。
風邪で倒れたのが絵を完成させた後でよかったと思う。
「おはよう。いよいよだね」
「うん。おはよう」
学校につくと、真由と二人で講堂を目指した。
朝早いというのに、学校の敷地はざわついている。見慣れた制服以外の人が大勢いて、違和感を覚えた。
いつもと違う学校の空気を肌に感じて、今日は特別な日だと再確認する。
普通科の人たちはお化け屋敷や飲食店、劇などの催しで駆け回っていた。
芸術科の生徒は、代表選考の結果が発表される講堂に集まり始めている。
普通科と芸術科の間には、同じ高校生だとは思えないほどの違いがあった。
人種が違う、といえば言い過ぎだろうか。
その人を形作る脳の中身。
見るものや求めるもの。世界を測るモノサシが違う。
芸術科にとっての世界とはつまり、絵画だ。
今日、芸術科全員の絵が体育館に飾られる。
特に秀でているとされた十枚は、ステージの上に並べられ、それ以外のものは体育館の中に一列に並べられる。
その時点で、だいたいの結果は察することができる。
ステージの上になかった者が最優秀賞に選ばれたことは、この学校の歴史上、一度としてない。
一般の来場者や生徒たちの投票が行われた上で、高名な画家の先生たちの審査がある。そして明日、選ばれた三枚の絵の右肩に、最優秀賞の栄光を讃える華が飾られる。
「あー、アスカ先輩が代表でありますように!」
扉が開くのを待つ間に、真由は両手を合わせて祈り始める。
たいていの一、二年生はすでに自分が代表になることを諦めていた。
毎日絵と向かい合っていれば、自ずと自分のレベルも分かってくる。
そして少し観察してみれば、周りのレベルもつかめた。
優秀賞すら、諦めている生徒が大半だろう。だが、心の隅ではきっと、期待を捨てられていないはずだ。
もしかしたらステージの上に、自分の二ヶ月を捧げた作品があるかもしれない――そんな淡い期待は、誰しもが持っている。
絵だけを見つめて生きてきた人たちの中で、選ばれるのはたった三人。
選ばれないほとんどの者たちにとって、現実はそびえたつ断崖のように残酷だ。
「アスカ先輩と……山本先輩か島崎先輩かどっちかは入ると思うの。私は島崎先輩に千円。友絵はどう?」
「やめてよ、そういうの。これは遊びじゃないんだからね」
「あはは、ごめんごめん」
全く反省していない様子で真由は頭をかいた。
睨みつけてくる上級生たちの視線には気づいていないようだ。
二、三年生はみんな目つきが鋭い。神経質に周りの様子をうかがっている。
「では、これより展示を始めます」
私の担任でもある難波先生が厳かに言い放った。
ざわついていた生徒たちが、途端にシンと静まる。
鍵を開ける先生に視線の束が集中していた。
芸術科の生徒みんなが、固唾をのんで様子を見守っている。
小さな金属音がして鍵が開いた。
先生が扉を押し開けていく。
視線は一斉に扉の向こうへと向けられた。
視線がまっすぐ、ステージの上へと吸い寄せられた。
高校入試の合格発表で、補欠合格校の掲示を最初に見るひとがいないのと同じだ。
誰もが、まずは第一志望の番号を確認する。
講堂の奥には、十枚の絵が飾ってあった。
十枚それぞれが、高価そうな木製の枠に縁取られている。
額縁の下には作者の名前が書かれてあった。
(え……嘘……)
講堂の中へ中へと生徒たちが流れていく。
人の流れに逆らって、私は立ち尽くした。
「きゃー、アスカ先輩の絵よ! やっぱり素敵ね! ……あれ、友絵? どうしたの? 友絵!」
いくらかはしゃいだ声で真由が問いかけてくる。
「ある……」
私は、かすれた声でつぶやいた。
身体の芯から、じんわりとした温かさが染み出て、全身を包みこんでいく。
「え?」
真由が戸惑ったように、首をかしげた。。
十枚の真ん中に飾ってある絵は、私の大好きな景色だ。
青空が透けた新緑の葉。
折り重なる椿の緑色。
毒々しいまでに美しく存在を主張する、ツバキの花弁。
見下ろしたようなアングルだから、立っている彼の表情は読み取れない。けれどもどこか寂しげで、儚げな後ろ姿だった。
私の心の中に今でも焼き付いている、忘れられない場面。
私がやっとの思いで描きあげた絵が、誇らしげに額縁に入って、少し高いところから嬉びと落胆の入り混じる生徒たちの様子を見下ろしていた。
風船を膨らましたみたいに、私の身体の中に喜びが膨れた。
そして、絵のしたにある名前が、その風船を無残に破裂させた。
私の眼球は、凍りついたかのように動かなかった。
私の大切な思い出……確かに私が描いた絵だ。
――私の絵、それなのに。
野間野アスカ、と。
私の絵の下には、そう書いたプレートが貼ってある。
行き交う生徒たちの声は、まるで荒波のようにうるさかった。
ざわざわと頭の中に得体の知れない黒雲が広がっていく。
手足がジンジンとして、ここに立っているという感覚がなかった。
(どういうこと……?)
何かの間違いだ。そう自分に言い聞かせる。
いてもたってもいられなくなって、私は走り始めた。
(何かの間違い……だよね)
盗作という単語が不意に頭をよぎる。
(まさか、でも、そんなことって)
そんなの、考えたくもなかった。
「先生! 難波先生ッ!」
文字通り職員室に飛び込む。
人数こそは少ないものの、そこにいた先生たちが私に注目した。
「に、西口!」
「先生、講堂に展示してある絵のことなんですけど。私の絵に」
「ち、ちょっとこっちに来てくれ!」
勢い任せの私の抗議が始まる前に、先生は話を途切れさせた。
他の先生に聞かれたくない――というのは私の穿った見方だろうか。
面談用の小狭い個別ブースに連れて行かれる。
掃除用具入れにしては大きい、程度の小さな部屋だった。
壁を埋め尽くす資料の山によって、二つの椅子以外に人が立てる場がない。
「先生、私の絵のところのプレート、作者名が野間野アスカ先輩になっているんです。何かの間違いですよね。訂正してもらえますか?」
「そのことなんだが……」
ふう、と先生は大きなため息をこぼす。
「西口の絵は本当に上出来だった。だから、その……。俺は反対したんだが……代表に選ばせてもらった」
「代表に選んでいただいたことは、ありがとうございます。でも名前が」
間違っているから、直してほしい。
先生は私が言っていることを汲めないほど鈍くなかった。
だから私の言うことを理解できないのは、理解しようとしていないからだ。
「――野間野アスカが、最近調子が悪いのは知っているか?」
また私の声を遮って、先生は無理やり話をそらした。
「え……まあ」
「なら話が早い。野間野アスカは将来有望な画家の卵だ。彼女の父親も立派な人で、寄付や講演会など、我が校に多大な貢献をしてくれている」
「は、はあ……」
声に苛立ちがにじんでしまう。
「それが……今回、調子が悪くて作品を仕上げられなかったんだ」
先生は言いづらそうに言葉を区切りながら、信じられないことを私に告げた。
「だから学校長との相談の結果、こういうことになった。西口には悪いと思っているよ」
みんなの期待の星、アスカ先輩は今回不調だった。
だから私の絵を――適当な生徒の絵を見繕って、アスカ先輩の名で展示したという。
(何それ……!)
目の前がぐらりと怒りに揺らいだ。
「実は、春の優秀賞で西口の絵を強引に推したのは俺なんだ」
「え? 先生が」
「まあな。でも生徒や保護者からのクレームが殺到した。なんせ、野間野は彼の有名画伯の娘だからな。学校側としても、今回野間野アスカに受賞させないわけにはいかないんだ。体裁というか、立場上な。お前は賢いからわかるだろう」
「そんな。だからって何でこんなことを」
大人の事情なんて、さっぱり理解できなかった。
「でも、アスカ先輩は? アスカ先輩がこんなことを許すはず」
「すまない。わかってくれ、西口」
申し訳なさそうに先生は頭を下げる。
これ以上の話は、通じそうにもないと思った。
もう、何も考えたくない。
以前、先生とアスカ先輩が深刻そうに相談していたことがあった。あれは、このことについて話していたのだ。
だから私が部屋に入ってきて、二人とも気まずそうにしていた。
「実はな、西口の絵にしたいと言ったのは野間野なんだ」
「私は、野間野先輩に憧れていましたから。タッチとか、真似て練習しましたから」
私の絵はアスカ先輩の絵に学んでいる。だからどことなく似ている部分はあった。
「そうか。まあ、お前が今さら何を言っても無駄だ。あの絵は野間野アスカの絵として、今この瞬間も大勢の人に見られている」
「そんな」
「お前が声を上げたところで意味はないさ。それどころか、目立ちたがり屋の一年生が野間野の絵を自分のものだと言い張っている――と反感を買うだろうな」
(そんなのって……ひどい)
中学生のとき、アスカ先輩の絵に一目惚れした。
描かれた人の表情はリアルで、心の中がそのままのぞけるようだった。
憧れていた。
憧れていたのに。
「じゃあな。気を落とさないで、来年また頑張れよ。今回は残念だけれど、俺はお前に期待しているんだ」
そう言い置いて、先生は部屋を出て行く。
抗議の声をあげる隙さえなかった。
(……ひどい)
私は夢遊病患者のように、ふらふらと廊下を歩く。視界がにじんで、歩くことで精一杯だった。
私は惨めだ。
裏切られて、心がズタズタ。
痛くて痛くて仕方ない。
「……野間野先輩」
講堂の真ん中にいたアスカ先輩に話しかける。
アスカ先輩は数人の友達に囲まれていた。
下級生が何人も現れてお祝いの言葉を述べている。
だから振り返ったアスカ先輩の顔は笑顔で。私を見た瞬間、笑顔は跡形もなく消滅した。
「友絵ちゃん」
後ろめたそうな表情を見て、私は確信する。
アスカ先輩は、私の絵を盗んだ。
私の絵を盗んで、周りからの賞賛を受けている。
許せなかった。
「アスカ先輩、私、先輩のこと尊敬していました」
そこで一旦言葉を区切ると、私はゆっくり言い放った。
「でもそれも今日までです」
「な、意味が分からないわ。何の話?」
友達の手前、アスカ先輩はしらばっくれる。
「どうして……? 私、本当にアスカ先輩の絵が好きだったのに。アスカ先輩は自分の絵が好きじゃなかったんですか?」
こらえきれなくなった涙がこぼれた。私は震える声で問いかける。
「私が憧れていた先輩は、どこにいっちゃったんですか?」
アスカ先輩は不愉快そうに眉をしかめた。
私に近寄ると、耳元でささやく。
「ははっ……、あんたが憧れていた野間野アスカは、あんたの幻想なのよ。今ここにいる私が私」
悪意に満ちた声を聞いて、背筋に寒気がはしった。
「謙遜してりゃいいと思ってんの? 才能があるくせに自分なんかって卑屈になってんの、みっともない。自分の憧れを私に押しつけて――あんた、ウザイよ」
心がぐしゃりとつぶれる。
アスカ先輩の顔を直視できなかった。
「じゃあね。言うなとは言わないわ。誰もあなたの言うことなんて信じないでしょうから」
ズタズタでボロボロの心。
でも後悔したくなくて、私はアスカ先輩に問いかける。
「じゃあ先輩は、何のために絵を描いているんですかっ?」
アスカ先輩の絵に会って、私の人生は変わった。
感動して、勇気をもらって。
私も同じように人の心に残る絵を描きたいと思った。
「有名になるためじゃ、ないですよね」
最後の望みをかけて聞くけれど、答えは返ってこない。
アスカ先輩は友達を引きつれてその場を去ってしまった。
(……ウザかったんだ。私って)
もう、何もかもがどうでもいい。
憧れていた太陽が急にくすんで、黒く潰れた。
私にはもう、何を目指して歩いていけばいいのか分からない。
私なんかの絵に自分の名を冠して平気でいられるアスカ先輩なんて、見たくなかった。私の憧れのまま……輝く太陽のままでいて欲しかった。
スランプならスランプで、堂々としていればいい。
ほんの短い期間作品を描けなかったくらいで、誰もアスカ先輩の価値を疑ったりなんかしないだろう。
自分も、先生も、アスカ先輩も。何もかもが嫌だった。
(どこに行っちゃったんだろ、真由)
ぼやけた視界のままでフラフラと歩く。
不意打ちの衝撃が走って、真正面から誰かとぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさいっ」
「大丈夫? こちらこそごめんよー」
ぶつかった相手は、私の顔を見て目を円くする。
「友絵ちゃん?」
「智先輩……」
泣き顔を見られたことが恥ずかしくて、私は顔を背けた。
どうしていいか分からない。
「すみません。失礼します」
そう言って速やかに逃走しようとしたら、腕をつかまれた。
「ちょっとストップ、あれ……友絵ちゃんの絵だよね?」
「……っ。どうしてわかるんですか?」
私の質問には答えずに、智先輩は後ろへと向き直る。
「ごめん、急用ができた。ちょっと先に行っててもらえるかな?」
「オッケー、クラスの奴らには上手く言っておくぜ」
友人らしき男子生徒数人は、冷やかし気味に歩き去っていった。
「あの……?」
泣き虫だねー、と言って智先輩は優しく微笑む。
「こっち。おいで」
腕をぐいぐいと引かれて、着いたところは裏庭だった。
「ここに座って、ちょっと待ってて。動き回ったら駄目だよ、迷子になるから」
「……なりません」
大人しく言われた通りにしていると、智先輩は缶を持って帰ってくる。
「はい、ホットミルク」
手渡された缶を受け取る。暖かくて、心が落ち着く気がした。
「あげる。向こうで普通科の二年生が飲料屋やってた。これ飲んだら落ち着くよー」
「あ……ありがとうございます」
もう涙はひっこんだ。変わりに胸の中をモヤモヤしたものがうごめいている。
「何があったか聞いていいかな? 力になれることだったら力になるよ」
智先輩の優しい言葉に、また涙が出そうになってしまった。
今まで気づかなかったけれど、私は相当な泣き虫だ。
「……智先輩は誰にでも優しいですね」
「え? そうかな。むしろ真逆だと思うよ。自分と自分の大事な人以外は、極めてどうでもいい」
本人が自覚していなくても、智先輩は誰に対しても優しい。泣いている後輩がいたら放っておけない、とてもとても優しい人だ。
「――で、そろそろ説明してもらってもいいかな?」
「え?」
智先輩の表情がいつになく真剣なことに驚く。
「野間野アスカの名前で展示されている絵……あれは友絵ちゃんの絵だね。違う?」
「ど、どうして判るんですか?」
絵に詳しくない智先輩から指摘されて驚いた。けれど私の絵だと誰かに気づいてもらえて嬉しい。
「判るよー、友絵ちゃんの絵のファンだからね。第一、右下に小さく描かれているのは僕だ……と思う。多分」
「大当たりです」
もしかしたら私の絵を見にわざわざ講堂まで来てくれたのだろうか、とすら思えてしまう。
「なるほど、だからアスカちゃん、最近あんな風に――」
「はい?」
「いいや、何でもない。――事情は大方判ったよ。それで、友絵ちゃんはこれからどうする?」
それが分からなくて途方に暮れていたところだ。
智先輩は笑みを浮かべるのを止めて腕組みする。
「どうすればいいのか、私、分からないです。何かできることがあるのかすらも……」
明日の午前中には、舞台上で代表の正式発表があると聞いた。
あの先生の口振りからして、もうアスカ先輩が最優秀賞をとることは決定事項なのだろう。
そのときに私の絵はアスカ先輩のものとして大勢に広められる。
それだけは嫌だった。
私の絵が選ばれて嬉しいなんて、思えるはずもない。
「私なんかの絵がアスカ先輩のものとして発表されたら……アスカ先輩の名が汚れます。私、それだけは許せない」
「……それ、本気で言ってる?」
私が当然のように大きく頷くと、智先輩は幾分呆れ顔になった。
「盗作されたんだよ。それも物理的に。めちゃくちゃだよね。怒らないのかな。怒っていいと思うけど」
「怒ってますけど、それよりも、悲しいです」
嫌いな風景画を描くことを強制されて、アスカ先輩は精神的に追い詰められていたのだろう。そんなアスカ先輩に相談された時、私は何も言えなかった。
もしあのとき私が心を軽くするような言葉をかけられたなら、こんなことにならなくて済んだ。
普段のアスカ先輩だったら、盗作なんて先生に勧められても、今日絶対に拒否していたはずだ。
そう思えば思うほど、何もできない自分の無力さが悲しい。
「明日の代表発表までにはどうにかしないと」
どうにかと言っても、具体的な方法なんて何一つ思いつかなかった。
じっと何かを考えていたらしい智先輩が、静かに切りだす。
「……ひとつ、できることがあるにはあるんだ」
言ってもいいのか悩むような様子で、智先輩はゆっくりと言葉を継いだ。
「あの名前プレート、友絵ちゃんの名前に差し替えよっか?」
「え?」
それは思いも寄らぬ提案だった。
智先輩は、周りに誰かいないか確認して、言葉をつづける。
「芸術科は展示だけど、普通科は出し物なのは知ってる?」
「はい。そのくらいは」
普通科はクラスごとに出し物を行うことになっていた。
一年生と二年生は劇、三年生はパフォーマンス。
「僕の友人に……なんていうかその……軽業師、みたいなのがいるんだ。ほんの一瞬で誰にも気づかれずにプレートを交換できる」
「へえ……それはすごいですね」
智先輩の交友関係は、謎に包まれている。
さっき一緒だったのは普通の男子生徒だったから、クラスメートとも上手くやっているらしい。これまでにも、下級生や先生、老若男女問わず色々な人と一緒にいるところを目撃した。
学校ではいつも寝ていそうな智先輩だったが、その実かなりの数の人と付き合いがある。
だから軽業師なんて奇妙な人と知り合いでも、そんなに不思議ではなかった。
「ついでにその軽業師、占い師みたいなものでもあってね。朝からずっとそのプレートがかかっていたと人々に信じ込ませることもできるんだよ」
「それは……すごいです」
――前言撤回。
智先輩も智先輩の交友関係も、やっぱりかなり不思議だ。
「今からその人を呼んでくるよ」
智先輩は軽く言って立ち上がった。
「一つだけ、お願いを聞いてもらえるように頼んでおく」
「え? あ、はい」
「だから何をお願いするか、考えておいて」
歩きだした智先輩を私は呼び止める。
「あの、先輩? どこに行かれるんですか?」
智先輩は振り返ると、柔らかく笑った。
「アスカちゃんのところ。ちょっと説教してくるよー」
アスカ先輩に説教される智先輩は頭に思い浮かべられても、その逆は想像すらできない。
「説教、ですか」
智先輩はアスカ先輩のイトコで、昔からの知り合いだ。
仲が悪そうに見えても、お互いに思うところはあるんだろうか。
「うん。りっくんはしばらくしたら来ると思うから、校門で少し待っててくれるかな」
どうやら智先輩の友人の名は、『りっくん』というらしい。
一体全体どんな人なのか不安だった。
智先輩を見送ると、私は大きなため息をつく。
まるで何もなかったみたいだ。
智先輩の態度が普通過ぎて、私は困惑してしまう。
それでも言われた通りに校門前を目指した。
(ウザイ、か……)
アスカ先輩から言われたことを思い返して、心がスッと凍てついていく。手に持ったホットミルクの温かさだけが確かだった。
「ね、あの制服どこの学校のだろ?」
「格好いいねーっ。一人かな?」
そばにいた女子生徒たちが、はしゃいだ声を行き交わせる。何気なく目をやった先には、一人の男の人がいた。
校門の脇に立って、きょろきょろと辺りをうかがっている。
濃い灰色のズボンに、青いカッターシャツ。年格好から判断するに高校生みたいだが、見たことのない制服だった。遠方から来たのだろうか。
遠目にもわかる整った顔立ち。智先輩ほどじゃないけれど、程よく高い身長。騒がれるのも無理はないなと思いながら見ていたら、不意に目が合った。
(わわっ、どうしよ。こっち見てる)
彼は私の方に視線を向けたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……なんだ。彼女もち?」
「あ、あの子、例の。先生に媚びを売って春の優秀賞を取った」
遠巻きに彼を見ていた女子生徒たちが、不愉快そうに眉をしかめる。
もう慣れきった中傷だが、今の私には痛かった。
ぎゅ、と拳を握りしめる。
「西口友絵さん?」
「え? ああ、はいッ!」
声をかけられ、思わず縮み上がってしまった。
いつの間にかそばまで来ていた彼は、爽やかな笑顔と共に手を差し出してくる。
「やっぱり。オレ、智から頼まれて来たんだ。よろしくな」
「あ、はい。よろしくお願いします!」
私は慌てて彼の手を握り返した。
どうやら彼が、智先輩の友人の軽業師兼占い師らしい。想像とはまるで正反対で、びっくりした。
「あの、名前は?」
私の問いに、彼は軽い口調でふざけた答えを返した。
「名乗るほどの名はないぜ」
それは、困る。
何て呼べばいいのか分からない。
私はとりあえず、智先輩の真似をして訊いた。
「あの……りっくん……さん、名前プレートを交換できるって」
「ストップ。りっくんって……智がそう呼んでたのかよ? 水瀬でいいぜ。水瀬で」
友絵さんは素直で面白いな、と彼――水瀬君は苦笑した。
なら最初から名前を教えてくれればいいのにと思う。
「水瀬……くん、名前のプレートを交換できるって本当?」
「ああ、他にも色々できるぜ。何でも一つ、友絵さんが望むことを命令してくれよな」
報酬は後払いで智に貰うから、と水瀬君は付け加えた。
「報酬って」
「あ、いや、友絵さんが気にする必要はないぜ。どーせ缶ジュース一本くらいだろ。智はああ見えてケチだからな」
水瀬君は大げさにため息をついてみせる。
友達の頼みは断れない、お人好しな性格なのだろう。
「水瀬くんは智先輩と仲がいいんだね」
「いやいやいや、仲はこれ以上ないってくらい険悪だぜ。いつ殺し合いに発展してもおかしくねー」
水瀬君の軽口に、私はつい笑ってしまった。
初対面だというのに、水瀬君はとてもフレンドリーだ。年齢は知らないけれど、敬語を使う気になれない。
不思議な明るさと勢いのある人だ。
「でさ……事情を聞いてもいいか? 話したくないなら構わないけれど」
私はしばらく迷ってから、校舎の方へと歩き始めた。
「ついてきて。途中で事情を話すから」
「了解ー」

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