現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

「――なるほど。智のイトコは最低な先輩だな」
私が事情を説明すれば、水瀬君は率直な感想を述べた。
「最低だな。いくら周りから追い詰められたといっても、許せねえ」
水瀬君はこれ以上ないくらいキッパリと言い切る。
野間野アスカ先輩は最低だ、と。
私はそれを聞いて、なぜか苛立った。
「――でも、でもね、アスカ先輩は優しい人で……中学生の時から私はずっと尊敬していたの。本当はすごく素敵な人なんだよ」
私が付け加えて言うと、水瀬君は少し笑う。
「はは、友絵さんは寛大だな。裏切られて、結果的には利用されたんだぜ。それなのに相手の肩を持つのか?」
「う……。でもやっぱり、なんだかんだ言っても、アスカ先輩のことが好きだから」
中学生の頃から私を助けてくれたアスカ先輩は、私にとって姉のような人だ。
例え向こうから嫌われても、嫌いになんてなれない。
「……なるほどな。わかったよ、あんただから智が一生懸命になってるんだろうな」
「え?」
「智が他人のために何かをするの、ものすごく珍しいんだぜ。基本的に、自分と自分の大事な人以外はどうでもいいって態度を貫いているヤツだから」
そういえば智先輩も同じようなことを言っていた気がする。
校舎の中はしんと静まり返って、遠くのざわめきが静寂を引き立てていた。
「オレに連絡をとるなんて、智は嫌だっただろうな。他人のためにわざわざ嫌なことをやるなんて、智も変わったな」
水瀬君はどこか寂しそうな表情を浮かべて笑んだ。
(嫌……? 仲悪いって、もしかしたら本当なのかな)
私は不思議に思わずにはいられなかった。
人類みんな友達の水瀬君と、何かを嫌うことを知らないような智先輩。
嫌い、なんて感情がどうして生まれることがあるだろう。
「……なんか、うまく言えないけど驚いた。友絵さんのことが相当好きなんだな、あいつ」
「え? ええっと」
私が答えに困っていると、水瀬君は心の底から嬉しそうに笑った。
「智はあんな風にマイペースで器用貧乏だけど、いいヤツだよ。オレが保障する。これからも仲良くしてやってくれよな」
何かを勘違いされているようだ。
どう答えればいいか迷った。
適当な言葉が見つからなくて、私は結局コクリと小さく頷く。
(仲良くって言っても……私は智先輩に好かれていないから、無理だよ)
そう思うけれど、満足そうな水瀬君を見ると何も言えなかった。
そんな風に話していると、やがて一つの教室にたどり着く。
「ここは?」
「芸術科の第一絵画倉庫だよ。……あ、鍵」
扉を引こうとするが、壁のように堅くて動かなかった。そういえば防犯のため、使用しない教室の鍵は締め切られている。
「ちょっとどいてみ」
水瀬君が扉の鍵のところに手をかざした。
「『開錠』」
静かなつぶやきと共に、ガチャリという金属音がなる。
水瀬君はいたずらっ子のような笑みを見せた。
「一秒ピッキング、完了。今見たことは、絶対に内緒な」
「すごい……軽業師で占い師で、泥棒もできるんだ」
私は心の底から驚く。すごいことを平然とやるものだ。
世界にはいろいろな人間がいるのだな、と思った。
中に入ると、すぐに扉を閉める。
こうすれば誰も私たちが侵入していることに気づかないだろう。
「なんだ、この部屋……狭いな」
水瀬君が言うが、部屋が狭いわけではない。面積だけなら普通のホームルーム教室の二倍はある、広い部屋だった。
ただ、中には絵を保存するラックがところ狭しと詰め込まれている。
「へえ……絵を置いておくときってこういうラックを使うんだな。それにしてもすごい枚数」
「うん。確かこの辺りに置いてあるのがね、過去に月間賞を取った生徒の作品で……芸術科の歴史みたいなものなんだよ」
私は去年の月間賞の作品が詰まったラックを引き出した。
目当ての絵を探して、上から順に一枚ずつ見ていく。
「あれ? 名前プレートをどうにかして調達するんじゃなかったのか」
水瀬君が怪訝そうに言った。
「あ、うん。名前じゃなくて絵を差し替えてほしいの。いいかな?」
「それはまあ、何でもいいけど……」
数枚めくって、私は探していた絵を見つける。両手でそっと持つと、真正面から眺めてみた。
「その絵と、飾られていた友絵さんの絵を交換?」
「うん。お願い」
私は絵を差し出して、深々と頭を下げる。
水瀬君は不思議そうに首を傾げた。
「わかったけど、これは誰の絵?」
「アスカ先輩だよ。私が憧れたアスカ先輩の絵」
去年の夏に一度見せてもらったことがある、アスカ先輩の描いた絵だ。
それはなんてことのない学校の景色。
生徒みんなが楽しそうに笑っている。
「見ている人の心を明るくする絵が描きたいって言っていたの。そんなアスカ先輩を、私は心の底から尊敬してた。だからね――また思い出してほしいって思うんだ」
アスカ先輩の絵に救われた人がいること。
憧れた人がいること。
誰のために絵を描きたいと思ったのか。
何のために絵を描くのか。
思い出してほしい。
そしてまた、もと通りのアスカ先輩に戻ってほしい。
「わかった。望みはそれで、いいな」
「うん、お願い。この絵を私の絵と交換して」
水瀬君は絵を持ったまま部屋を出て行った。今から講堂に行くのだろう。
私も水瀬君の後を追って廊下に出る。
「任務、完了っ」
こちらを向いて立っていた水瀬君は、明るく爽やかに笑った。その手にあったはずの絵は、すでに跡形もない。
「は?」
「交換したよ、絵」
困惑する私を前に、水瀬君はあっさりと言いきった。
(交換って……今の一瞬で?)
私の目の前にいるのは、とてもすごい人なのだろう。
「さあて……一体全体どうなるかな? これから」
状況を楽しむように笑いながら、水瀬君は歩きだした。
(そうだ、講堂を見に行かなきゃ)
アスカ先輩や難波先生の反応も確認したい。
みんながどんな態度を示すのか、怖くて不安だった。
「――大丈夫だよ」
私の思考を見透かしたかのように、水瀬君は微笑んでくれる。
「友絵さんの思いはきっと通じるよ。だから大丈夫だ」
根拠のない言葉なのに、不思議と勇気づけられた。
水瀬君は初めてのはずの校舎を迷うことなく進んでいく。この学校に初めて来たわけではないのかもしれない。
「水瀬君は智先輩とどういう知り合いなんですか?」
興味が湧いたので訊いてみた。智先輩のこととなると途端に好奇心がわいてくる自分が可笑しい。
「幼なじみで親友で、憎い敵。中学の頃までは何でも分かり合えて、家族や兄弟みたいな存在だったな」
さっきの水瀬君の言葉からして、憎い敵、だとはとても思えなかった。
「――最初さ、無二の親友の立場としては、智の彼女が嫌な女だったらどうしようかと思ってた」
「え……?」
「思ってたけど、友絵さんみたいに良い子でよかった。安心したぜ」
水瀬君の言葉に、私は全力で首を振って否定した。
「ち、違います! 彼女違います!」
「ん? まだ付き合ってないんだ?」
きょとんとした顔で水瀬君が訊いてくる。
私は慌てふためいて話題を逸らそうとした。この会話の方向は、私にとってマズすぎる。
「でも、水瀬君みたいな親友がいて、智先輩は本当に幸せですねっ」
私が言うと、水瀬君は寂しそうな微笑を浮かべた。
「そうでもないぜ……アイツの両親はオレを守って死んだんだ」
いきなりの重たい話に、私は焦ってしまう。遠くの方で聞こえたざわめきが、耳の奥にこだました。
(えっと)
何と言っていいかわからず、隣を歩く水瀬君の横顔をうかがう。どうしてこう、気まずい方向に話題を持っていってしまうのだろう。
「突然ごめん。重すぎる話だよな、ごめん」
水瀬君はそこでいったん言葉を区切った。
「そういうわけで、オレはあいつに負い目があるんだ。もしもオレがいなかったら、智は家族をなくさずにすんだ。……それか、オレが一人で黙って死んでれば」
「そんな、こと」
そんな、悲しいことを言わないでほしい。
水瀬君に負い目ができて、二人の関係が微妙に変わってしまった。そのことも智先輩にとっては悲しかったんじゃないだろうか。
私がそう思っていると、水瀬君が不意に口を開いた。
「――じゃあオレはそろそろ帰るぜ」
「え? あ、はい」
「友絵さんと話せてよかった。これからも頑張れ」
水瀬君は笑顔で軽く手を振る。文化祭のついでではなく、本当に智先輩に呼び出されて来たらしい。私の願いのためにわざわざ来てもらって申し訳なく思った。
礼を告げようと空気を吸えば、後ろから穏やかな声がかけられる。
「あ、いたいた。友絵ちゃんだ」
智先輩が駆け足気味に角の向こうから現れた。
友絵ちゃんという呼び方が嬉しくて、くすぐったい。
「りっくんはもう帰ったんだね」
そう言われて振り返ってみるが、水瀬君の姿はなかった。
まっすぐに伸びる廊下だ。今のわずかな間に走りきれる距離ではない。それなのに、水瀬君の姿は跡形もなく消えていた。
「帰っちゃった……みたいですね」
半ば信じられない気分でつぶやく。
水瀬君は、爽やかな夏風のような人だ。自由奔放で、行く手を遮るものは何もない。
「うん、まるで僕の気配を察知して逃げたみたいだねー。……何を話していたのかな? 僕に聞かれるとマズい話?」
「それは、その……。それより智先輩、アスカ先輩と話せましたか?」
答えにくかったから、しどろもどろにごまかした。
智先輩は、へらりと気の抜けるような笑みを浮かべる。
「説教するつもりが、逆に説教されてしまったかな。泣く子とアスカちゃんには勝てないや」
それはとても智先輩らしいと思った。
肝心の説教の内容が気になるが、聞かない方がいいだろう。
私は方向を変えて講堂を目指すことにした。
「――でもアスカちゃん、最後にありがとうって言ってたよ」
智先輩の言葉に、自然と笑顔がこぼれる。
「よかったです。アスカ先輩に、智先輩の説教が通じたんですね」
「だといいけどね……アスカちゃんは素直じゃないから」
講堂に入ると、ざわついていた生徒たちがシンと静まった。
周囲の視線が一斉にこちらへと向けられる。
(あれ……入っちゃいけなかった?)
なにやら雰囲気がおかしかった。
講堂の真ん中には一人の女子生徒が立ち尽くしている。生徒たちはその様子を遠巻きに見ていた。
女子生徒の周りにだけポカリと空間がある。
「アスカ先輩……」
名前を呼びかけると、女子生徒の肩はビクリと震えた。
ショートヘアがサラリと揺れて、アスカ先輩はこちらを振り返る。いつもまっすぐで鋭い光をたたえていた瞳が、今は揺らいでいた。
――頬に筋をつけて流れるのは、透き通った雫。
アスカ先輩が今まで呆然と見つめていたのは、奥に飾られている絵画だ。
学校の何気ない日常がそのまま切り取られている。
宝石のように煌めく一瞬が、ありのままで額縁に入れられていた。
目に見えているものだけなら、写真に撮れば残すことができる。
でもアスカ先輩の絵が残すのは、目に見えているものだけじゃない。
その場の空気や、肌に触れる風の暖かさ。
かけがえのない時間を惜しむ心。
窓から差し込む日差しの優しさ――光の粒子の一粒一粒までもが、一枚の平面に閉じ込められているのだ。
私はやっぱり、アスカ先輩の絵に見惚れてしまった。
懐かしくすら思える景色を生み出すアスカ先輩は、いつになっても私の憧れだ。
(誰なんだろう。アスカ先輩に才能がないだなんて言ったのは)
私はその人のことを心底憎らしいと思う。
描けと言われたものではなく、描きたいものを描けばいいのだ。そうすればアスカ先輩は、こんなにもたくさん、人の心を動かせる。
アスカ先輩は腕で強く涙をぬぐうと、私の脇を早歩きで通り過ぎた。
「素敵な絵です」
「……っ」
私の言葉に、アスカ先輩は声にならない声を返す。そしてそのまま、その場を去っていった。
アスカ先輩の涙は、何の涙なのだろうか。
(後悔? それとも感動?)
私の少ない語彙力では、ぴったりの言葉が見つからない。でも、きっとアスカ先輩はまた前に歩き出せる。
それが私の心からの願いだ。
隣に立つ人の顔を見る。いつもの柔らかい笑顔で、智先輩はゆっくりと頷いてくれた。
(……諦めかけた時、アスカ先輩にも隣で微笑んでくれる人がいたら良かったのにな)
そうすればきっと、こんなことにはならなかった。だから隣にいてくれる人がいる私は、きっととても幸せだ。
二人並んで講堂を出ると、文化祭はまだ続いていた。真由や友達の姿は見当たらないが、探す気になれない。
「――手、つないでいいですか?」
私が伏し目がちに聞くと、智先輩は笑顔を崩さずに頷いてくれた。
大切なものでもあるかのように、そっと手を重ねる。
心臓がバクバクして、破裂しそうだった。
真由に悪いとは思う。
でも今だけはこうしていたかった。
出店が並ぶ喧騒に満ちた人ごみの中を、ゆっくりと進んでいく。
ここにいる生徒たちみんなのドラマを紡ぎあげながら、文化祭は少しずつ終わりに近づいていくのだった。

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