現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

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清々しいチャイムの音色がいつも通り学校中に鳴り響く。
私は教科書をカバンに片づけると、ノートとお弁当を手に教室を出た。
廊下に出ると、背後からクラスメートの遠慮ない噂話が聞こえてくる。以前ならお弁当を食べながら一人で聞いていた悪口だ。
「何よあの子。最近、昼休みになるといなくなるけど、何してるのかしら」
「不気味ーっ。まあでも教室の空気が暗くならなくていいんじゃない?」
「ははは、言えてる言えてるー。ちょっと可愛いからって先生に媚び売って、何様って感じよね」
私は前を見据えて大股で歩き始めた。
そして自分に言い聞かせる。
(聞こえない、何も聞こえない……!)
悪意に満ちた視線や、誹謗中傷の言葉たち。
智先輩と出会って以来、短いお昼休みの間だけはそういう嫌なものを忘れていられた。
私は胸の鼓動を高まらせて、ざわめく校内を早歩きで抜けていく。
校舎の角を曲がると、仔猫――ルカがちまちまと走り寄ってきた。
私はしゃがみこむと、右手を伸ばしてルカの頭をなでてやる。そうしていると、後ろからいつもの呑気な声が聞こえてきた。
「早いね、友絵ちゃん。悔しいな、僕も授業が終わってから急いで来たのにー」
悔しいな、と言いつつも全然悔しそうじゃない。
智先輩のその穏やかさが、私は好きだった。
「えへへ。芸術科の教室棟の方が普通科よりも昇降口に近いんです。だから早くて当然です」
居眠りを始めたルカを真ん中に挟み、二人並んで座る。
私は膝の上にお弁当箱を広げた。
袋に入れてきたルカ用のお弁当は、後に回すことにする。
「――あれ? 先輩、それって」
智先輩は手に持った袋から取り出したところだった。
透明のパックごしに見える白くて艶やかなパン生地は、もしかして。
私はまさかと思い訊いてみる。
「ん? ああ、これ。購買で売ってる、水曜日限定プレミアム夕張メロンパンだよ」
私は驚きのあまり手に持ったお箸を落としかけた。
「な、なんでこんなにのんびりした智先輩がそんなの買えるんですか!」
――伝説の水曜日限定プレミアム夕張メロンパン。
十個限定で販売されるそれは、購買での闘争に打ち勝った英雄のみが得られる栄光だ。
私も一度買おうと挑戦したことがある。けれどダメダメだった。
鬼気迫る生徒たちの熱気で、購買の前にたどり着くことすらできなかった。
「食べ物を得るために戦うのには慣れてるからねー。おいしいって噂だから、これ一回食べてみたかったんだ」
智先輩は相変わらずの笑顔を絶やさずに平然と言う。
「すごい……うらやましいです。袋の上からでいいので、記念に触らせてもらっていいですか?」
「確かにレアではあるけど……そんなに価値があるの? これ」
「手に入れるのがとっても難しいって、一年生の中では伝説ですよ! 私、一度も見たことなかったです」
伝説のパンを恐る恐る拝む私に、智先輩が神のようなことを言ってくれる。
「じゃあ、半分あげようか?」
智先輩の穏やかな笑顔に、後光が差して見えた。
私は首が取れそうな勢いで何度もうなずく。
智先輩は無造作にパンを半分に割って、どちらかといえば大きい方を差し出してくれた。
「でも、でも本当にいいんですかっ?」
「いいよー。友絵ちゃんに食べてもらえるパンは幸せだと思うし」
「へ?」
「友絵ちゃんはいつも、すごくおいしそうに、幸せそうに食べてるから」
私は単純だから、おいしいという気持ちがそのまま顔に出ているのだろう。
そこで一旦切ると、智先輩はゆっくり言葉を続けた。
「幸せそうに食べてもらえたら、食べられる方も作ってくれた購買のおばさんも嬉しいと思うよ」
変わった視点だ。
智先輩はたまに、すごく不思議なものの言い方をする。うまく言えないけれど、どこか私の感覚とはズレたところがあった。
「嬉しいの……かな? よくわかんないけど、そうかもしれません」
私は初めて料理に挑戦したときのことを思い出す。
(下手だったけれど、家族みんな誉めてくれたっけな)
みんな笑顔だった。だからこそ、下手な料理も美味しく感じられた。
「……いただきます」
色々なものに対する感謝の気持ちを込めて、私は手を合わせる。かじってみたメロンパンは、私がこれまでに食べたどんなものよりも優しい味がした。
「ところで先輩、数日前にもここにいましたよね。移動教室の時、窓から見えました」
「ん? ああ、最近はよくこの仔に会いに来てたからねー」
私は思い切って、ずっと気になっていることを訊いてみることにした。
「その……ツツジの花、食べてました?」
もう少し言葉を選んだ方がよかったかもしれない。
私は少し後悔した。
智先輩は、あははと笑って否定する。
「違うよー。いや、合ってるのかな? あれは蜜を吸ってたんだよ」
「へ……? 蜜ですか?」
「うん、おいしいよ。ちょっと毒性があるけどね」
私は納得した。そういえば小学生の頃、ツツジをむしったことがある気がする。
「ほんの一瞬だけど甘くてね。幼なじみとよく花を集めたのを思い出して、懐かしくなるんだよー」
智先輩はあどけない笑みを浮かべて嬉しそうに言った。全く、幼いのか大人びているのかよくわからない人だ。
(それにしても、どうしてあんなところに一人でいたんだろう?)
疑問は尽きないけれど、逐一聞いていたら昼休みなんてあっと言う間に終わってしまう。
「ところで、友絵ちゃんのことを芸術科の友達から聞いたよ。すごいんだってね、一年生にして春の優秀賞を取るという快挙を成し遂げたって」
智先輩が気まぐれに話題を転換した。
私は座ったままで自分の膝に視線を落とす。
「すごくないですよ。先輩もそのご友人から聞いたんじゃないですか? 先生の贔屓だ、って」
『西口 友絵』に関するその噂は、私に取ってあまり触れてほしくない話題だ。
芸術科では季節の節目ごとに優秀な作品の表彰がある。
私は入学して早々、三年生を差し置いてその受賞者に選ばれたのだった。
「ふーん。友絵ちゃんが受賞したのは、先生の贔屓なんだ?」
「ちがっ、違います……。贔屓される理由なんてないです」
私はついムキになって否定した。でも贔屓だと噂されていることは正真正銘の事実だ。
「本当に、何で私なんかが選ばれたのか、私が一番知りたいですよ……!」
優秀賞の受賞によって、秋に開かれる芸術展の最有力候補に躍り出たのだ。
一年生の中でも、飛び抜けて技術力があるわけではない。受賞したのだって、とりたてて特筆するようなところのない地味な作品だった。
極めて平凡な生徒である自分が選ばれて、一番驚いたのが他ならぬ私自身だ。そして受賞したその日から、私の高校生活は暗黒に染まった。
クラスメートや上級生からの、容赦ない視線と陰口。
仲良かったはずの友達が、みんな私に背を向ける。
――たいしたことないくせに、何であんたなんかが選ばれるの?
そんなこと、言われなくてもわかってるのに。
「私より上手い人なら上級生にたくさんいます。相応しい人、たくさんいるのに。何で私なんですか? 全然わかりません」
いい気になれるわけもない。
わけもわからずに注目されて、被害を被っているのはこっちだ。
アスカ先輩だって、賞を取ると予想されていた生徒の一人だった。アスカ先輩は私を憎んでもおかしくない立場にいる。それなのにいつも笑顔で話しかけてきてくれるのだ。
絵が巧いだけじゃない。アスカ先輩は本当に大人だ。
私がアスカ先輩に勝てるところなんて、一つもない。
(何でアスカ先輩じゃなくて私なんだろう……?)
これでは、贔屓だと噂されても仕方なかった。
「じゃあ、友絵ちゃんは賞を取りたくなかった?」
智先輩の質問に、私は少し考えてから答える。
「賞を取れたことは嬉しいです」
「じゃあ、それでいいんじゃないかな?」
「でも私よりも相応しい人がいたのにと思うと嬉しくないです」
「複雑だねー。じゃあ、自分には賞をもらう資格がないって、そう思っているんだ?」
まさにその通りだった。誰だってそう言うだろう。
「はい……私、芸術科に仲がいい先輩がいるんです。でも、笑顔で話しかけてくれるのに、最近は怖くて」
――私なんてアスカ先輩の足元にも及ばないですよ。
数日前にそう言ったとき、私はアスカ先輩との間にいつの間にか深い溝ができていたことに気づいた。
――足元にも及ばない。
それは確かに私の本心だったのに。
アスカ先輩の表情には、私への憎悪がありありと浮かんでいた。
「……敵だ、ってみんなの目が言っているんです。私が何か言うたびに嫌味みたいにとられて、そういうのって、なんだかすごく、悲しいです」
私は震える声で不満をぶちまけた。
――これまで誰にも言えなかった、聞いてもらえなかったこと。
智先輩は少し淋しげに微笑んで、私の頭をポンポンとなでてくれる。
「よしよし……。でもね、友絵ちゃんがこれからも絵を描いていくのなら、何かを成し遂げようとするのなら、戦わなくちゃならないんだよ」
智先輩にしては珍しく、暖かさのない声だった。
ほんの少しだけ、怖いとすら思えてしまう。
でも私にはわかった。
厳しい口調は、優しさの裏返しだ。
「上手く言えないけど……羨みや妬みは、憧れと紙一重なんだ。そういうものとの戦いは、自分を成長させるためのチャンスだから」
「……はい。そう、ですよね……」
頬を熱いものが伝い落ちた。泣き顔を見られたくなくて、私は必死で涙をぬぐう。
アスカ先輩だったら、賞を取っても誰も文句なんて言わない。
みんな祝福してくれるはずだ。
歳なんて関係ない、アスカ先輩は素敵な人だから。
私をみんなが祝福してくれないのは、ある意味で当たり前だ。そもそも、私自身が私を祝福していないのだから。
「私、成長します。賞を取っても誰からも祝福されるくらい、立派な絵を描けるように」
私は精一杯の明るい声で誓った。
このつらさを乗り越えれば、アスカ先輩とまではいかなくても、きっと今より強くなれる。
「応援してる。頑張って」
智先輩は、それだけ言って静かにうなずいてくれた。一つしか歳が変わらないはずの智先輩が、今はとても大人に思える。
私は何気なく上を見上げた。
水彩画のように薄いグラデーションの青空。
クレヨンの白色で引いた線みたいな、子どもっぽいヒコーキ雲。
お昼下がりの静かな時が、ゆっくりと流れていく。
「……本当はね」
私が泣き止むのを待って、智先輩は静かに切り出した。
「本当は僕、前に先生に友絵ちゃんの絵を見せてもらったことがあるんだよ」
「先輩がですか?」
嬉しいような照れくさいような、複雑な気分だった。
「そう、優秀賞を取った絵」
「それは……」
どうだったか、感想を聞くのが怖い気がした。
私の揺れる気持ちを知ってか知らずか、智先輩はゆっくりと話し始める。
「賞の候補だっていう作品がいくつか並んでた。僕は絵のことなんて知らないし、技術力なんてわからない。どの作品もただ漠然と、上手いなーって思っただけだったよ」
智先輩が何を言おうとしているのか、私にはよくつかめない。
「でもその中で一つだけ、理由はわからないけれど目が自然に吸い寄せられる絵があった。――その絵を描いたのが、西口 友絵さんだよ」
私はハッとして口をつぐんだ。
智先輩は以前から私の名を知っていたらしい。
「だから僕は君のあの絵が春の優秀賞をとったときも、やっぱりと思ったよ。穏やかな雰囲気が大好きだった。どんな子なんだろうと思ってたよ。実際会って話せて嬉しかった。やっぱり絵には人柄が出るんだねー」
私は嬉しくてまた泣きそうになってしまった。
寝返りを打ったルカが、私の膝にもたれかかってくる。温かさの塊に、励まされているような気がした。
私の絵を認めてくれる人がいる。
それは言葉にできないくらい嬉しいことだった。
(そう……だったんだよね)
私が絵を描き続けているのは、私の絵を好きだと言ってくれる人のためだ。
「友絵ちゃんは選ばれたんだよ。他の誰でもなくて。だからもっと自信を持てばいいよ」
「はいっ!」
智先輩の言葉に、私は勢いよく頷いた。
私の絵を好きだと言ってくれる人のために、私は絵を描き続けよう。
予鈴が鳴って、智先輩は普通科の教室棟に帰っていった。
学校で過ごす時間の中で、一番大好きな数十分の終わり。
とっても名残惜しいけれど、明日もまた会えるのだ。
明日の明日も、その次の日も、きっと――。
このときの私は、智先輩と過ごす時がいつまでも続くことを疑っていなかったのだった。
幸せな時間は長く続かないからこそ幸せなのだと、誰かが言っていたのに。

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