現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

その日も、私はいつものように裏庭の桜の下に腰掛けた。
智先輩はすやすやと寝入っている。
膝にちょこんと載ったルカも、とても眠たそうだった。
スケッチブックを開くと、真っ白なページが日の光を反射する。
私は文化祭の優秀作品を目指そうと考えていた。
秋の芸術展の三作品にも、入れるものなら入ってやる。
私は決意と共に拳をギュッと握りしめた。
まぶたがぴくりと震えたかと思うと、智先輩は眠たそうな表情をこちらに向けてくる。
「……おはよー」
「今はお昼ですけど、おはようございます。智先輩、眠たそうですね」
智先輩は桜にもたれかかっていた体を起こした。
驚いたルカが膝の上からピョンと飛び退く。
「昨日は仕事でさ、眠い眠い。体力的にもキツくてさー。実は二限目からここにいるんだよ」
智先輩が目をこすって言った。
三年生として受験を控えているのに大変だ。
うちの高校では基本的にバイトは禁止されているから、何か家庭の事情があるのだろう。
「夜遅くまでバイトなんて大変ですね」
「バイトじゃなくて本職だよー。卒業してからも働く予定だしね」
進路はもう決まっているということなのだろうか。
しかし高校生を深夜まで働かせるなんて、一体どんな職場なんだろう。
不思議に思っていたら、智先輩はさらに不思議なことを言った。
「メインの業種が暗殺だからねー。やっぱり闇に乗じた方が色々と都合がいいんだよ。目撃者も減らせるしね……」
「へ、へえ」
ここは笑うところだろうか。
冗談なのか本気なのかよくわからない冗談だ。
智先輩は寝起きでまだ頭がぼんやりしているのかもしれない。
私がリアクションに困っていたら、智先輩はスケッチブックを見て無邪気に目を輝かせた。
「これも友絵ちゃんの絵? 見せてもらっていいかなー」
「いいですけど、落書きばかりですよ」
そう言いながらも、はいどうぞとスケッチブックを差し出す。
「落書きに見えないよー。目をつぶって左手で書いた友絵ちゃんの絵よりも、僕が真剣に描いた絵の方が下手な気がするな」
「あはは、そんなことないですよ」
もし本当にそうだったら、智先輩の絵は下手すぎだ。
「あー、この景色見たことある。水瀬の山の眺めだね」
そう言って智先輩はページをめくる手を止める。
「はい、山です。でも山の名前なんてよくわかりますね」
「んー、僕はつい最近までこの山から山を七つ越えた、世の果てみたいなところに住んでいたから。この山の持ち主は友達の一族だしね」
(冗談、だよね?)
智先輩は嘘みたいなことを、時々真顔で話す。
どこまで冗談でどこまで本気かよくわからない人だ。
そもそもこうして私と一緒にいてくれる理由も不鮮明だ。
気まぐれ、というのが一番の理由なのかもしれない。
絵を見ている時、智先輩の表情はクルクルとよく変わった。無邪気で子どもっぽくて、見ていて飽きることがない。
けれど優しさのこもった眼差しだけは変わらずに注がれている。
言葉を借りれば、智先輩に見てもらえる絵は幸せだ。
――ついでに、それを描いた人も。
「なんかこう……一枚一枚から、その世界の空気が漂ってくるんだよね。それってすごいことだと思う」
智先輩に誉められて、私は少し照れてしまう。
「えへへ、でもまだまだ先輩たちには及びません。ここの絵の塗りとか下手でホント嫌になります」
私が浅く微笑むと、智先輩も笑い返してくれた。
「謙遜なんていらないよ。――僕はこの絵が好きだから、下手だなんて言われたら頭にくる」
(え……?)
私は笑顔を硬直させる。
一瞬だけ、智先輩の顔に誰かの影がダブって見えたのだ。
――私なんてアスカ先輩の足元にも及びませんよ。
私がそう言ったときにアスカ先輩が浮かべた、あの憎々しげな表情。
中学のとき同じ美術部の部長だったアスカ先輩は、私の憧れの存在だった。いつも明るく励ましてくれた。
私の絵を一番高く評価してくれていた。
――今だって、多分そう。
謙遜はいいことだと思っていた。
けれども時と場合によっては、人を傷つけることがある。
例えば、あの時の言葉のように。
(もし……アスカ先輩が私のことをライバルだと見ていたのなら)
足元にも及ばないというあの言葉を、アスカ先輩はどう受け取ったのだろう。
「本当に、優しい絵。妹にも見せてあげたいな……」
智先輩のつぶやきを聞いて、私は我に返った。
「先輩、妹さんがいらっしゃるんですか?」
「いるよ。今は……元気だったら小学生三年生かな」
「元気だったら?」
「うん、ずっと入院してるんだよ」
私は思わず言葉をなくした。まずい話題だったかもしれない。
智先輩はルカを捕まえると、胴体をくすぐって遊び始めた。寂しさを紛らわせているんじゃないかな、とぼんやり思う。
「てっきり一人っ子かと思ってました……なんとなくですけど」
「偏見だね。そういう友絵ちゃんは兄弟いる?」
「弟が一人います」
中学生になったばかりのやんちゃな盛りだ。最近になって背がぐんぐん伸びてきたのが気に喰わない。
私が小学生の頃は、どんな子供だっただろう。
そんなに活発じゃなかった。
お絵描きに夢中だった気がする。
幸せなことに、私も弟も病院なんかとは縁がなかった。
目に入るものすべてが珍しくて、キラキラ輝いている。そんな時期に薄暗い病室に閉じ込められて一人きり。
それは想像しただけでもつらいことだった。
「――私、決めました。今度の絵は、智先輩の妹さんのために描きますね!」
私はそう言って立ち上がると、パンパンと土をはたき落とした。
見れば、智先輩は顔に本をかぶせて寝る体勢に入っている。五時間目もここにいるつもりらしい。
お腹が減らないか、少し心配だった。
「……じゃあ、また明日も来ますね」
そう言って私が教室に向かおうとすると、足元にルカがすり寄ってくる。
「ついてきちゃダメ! ルカはここで智先輩の様子を見守ってるの」
にゃー、とルカが元気よく答えた。
智先輩の方がルカよりもずっと猫みたいだと私は思う。
「あれ? 何だろう、これ」
私はフェンスに立てかけてある木の板の存在に気づいた。
重たいそれを好奇心でのけてみる。
フェンスに空いた大きな穴がぽっかりと顔をのぞかせた。
(智先輩がふさいだのかな……?)
そういえば、いつか何かを聞いたことがあるような気がする。
板をもとに戻そうとした時、昼休みの終了を告げる鐘が鳴った。
「やば、急がなきゃ……!」
私は弾かれたように駆け出す。
板のことに気を配る余裕なんてなかった。
――倒れたままにされた板。
フェンスに空いた大きな穴。
それらがジワジワと平穏を侵し始めていることに、今の私はまだ気づいていなかった。

昼休みがくるたびに、スケッチブックを持って裏庭で鉛筆を走らせる。
文化祭を狙う作品として、私はこの景色を描くことに決めた。
智先輩と始めて会った場所。
いつも和やかな気持ちで見られる、この大好きな景色を。
きっと優しい絵になる。
そしてそれを、智先輩の妹さんに見せてあげるんだ。
喜んでくれたら嬉しい。でもその頃には彼女もきっと退院してるんだろう。

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