現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

「西口さん、ちょっといいかしら?」
智先輩と会って一ヶ月が経とうとしていた、ある日の放課後。
クラスの女子集団に呼び出されて、私は仕方なく裏庭に向かった。
案の定、そこには罵倒の言葉が手ぐすね引いて私を待っていた。
「その態度がムカつく。キモイ。野間野先輩と仲がいいからって、デカい顔してんなよ」
女子五人に囲まれて、私はじりじりと後ずさる。
すぐに背中が壁につかえた。
「あんたの絵なんか大したことないくせに」
「春の優秀賞だって、どーせ先生を誑しこんだんでしょ?」
いわれのない中傷に、カッと顔が熱くなる。私は声を張り上げた。
「違います! 私は誓ってそんなことはしてないっ!」
「どーだか。大人しそうな顔をしてよくやるわね。あんた、目障りだよ」
「あんたなんかが野間野先輩と話しているのを見ると虫酸が走るんだけど?」
「野間野先輩のお父様は、あの有名な絵描きの野間野 悟朗なのよ。技術だってセンスだって、あんたなんか足元にも及ばない!」
「春の優秀賞は何かの間違いだったんだから、調子こいてんなよ」
言い返す言葉が見つからない悔しさに、ぐっと唇を噛み締める。
彼女らが言っていることの正しさは、痛いくらいによくわかっていた。
「わかってるよ。私なんて野間野先輩には勝てないって」
「ははっ、よくわかってんじゃん」
嘲笑うように言ったクラスメートを、私はグッと睨みつける。
「でもいつかは追い抜いてみせる。春の優秀賞は私が自分の力で取った! あなたたちにどうこう言われる筋合いはない!」
「なっ……」
私の反撃を予想していなかったらしく、同級生たちは困惑する。
しかしその困惑は、一瞬にして憎悪へと形を変えた。
「なにこいつ。超ムカつくんだけど……!」
逆上した一人に襟元をつかまれた。
でも私はひるまない。ひるんでなんかあげない。
「誰が何と言おうとも、春の優秀賞は実力で取った。アスカ先輩じゃなくて私が! 私の絵にあってあなたたちの絵にはないものがあるんだから!」
そう。智先輩が教えてくれた。
私には私にしか描けないものがある。
だから胸を張っていればいいんだ。
こんな人たちの僻みなんかには負けない……!
「うるさいっ」
一人のクラスメートが勢いよく手を振り上げた。
殴られることを覚悟して、私は歯を食いしばる。
目をつむって、手でとっさに頭をかばった。
しかし、いつまで経っても予想した衝撃はやってこない。
私は恐る恐る瞳を開けてみた。
「女の子が真っ昼間から集団暴力? 怖いなあー」
その人はクラスメートの振り上げた手をつかんだまま、のんびりと笑う。
女子たちよりも頭一つ高い背。昼寝から起きたばかりらしく、髪が少し跳ねていた。
「さ、智先輩っ」
私がその名前を呼ぶと、智先輩は優しく微笑んで言う。
「聞いてたよ。よく言った。頑張ったね」
顔が赤くなってしまうのは、誉められることに慣れていないからだろうか。
私が何と言えばいいか迷っていると、クラスメートの女子が苛立った声を上げた。
「離してよ……っ」
つかまれた手を振り払おうとするが、智先輩は手を離そうとしない。
それどころか、手首が折れそうになるほどの力を込めたのだった。
「いたっ、痛い!」
涙目になったクラスメートを見て、私は智先輩を止めようとする。
けれど智先輩の表情を見上げて、何も言えなくなった。
いつも私を安心させてくれる和やかな笑みの存在は欠片もない。
「――君らみたいな害虫のせいで、この子がどれだけ苦しんでいたか……知ってる?」
ズシリと重い緊迫感をまとった、低くて鋭い言葉。
冷たい瞳の中で揺らめくのは、研ぎ澄まされた青い炎。
別人みたいな智先輩を見て、背筋にゾクリと寒気が走った。
「知らないだろうね、知ろうともしないんだ」
「せ、先輩……!」
「お前らみたいな他人をねたむことしか能のない矮小な人間がいるから」
そう言うと智先輩は、つかんだ手首をひねり上げる。
あまりの痛みに、クラスメートの女子は顔をグシャリと歪めた。
「せ、先輩、止めてあげてください……!」
私は我に返って掠れた声を上げた。
このままだと、下手すれば女子生徒の手首の骨が折れてしまう。
しかし私の声は智先輩には届いていないようだった。
智先輩は険しい表情のまま、力を緩めようともしない。
女子生徒の表情を見ていると、込められた力の強さがうかがえた。
(どうしよう……?)
怖い。智先輩が、いつもの智先輩じゃないみたいだ。
「止めなさいッ!」
鋭い声に、時が止まったような錯覚を覚えた。
その場にいた全員が、一斉に顔をあげる。
「何やってるのよ!」
力強い声と共に、一人の女子生徒が割り込んできた。
智先輩ほどではなくても高い背。茶色のショートカット。
勝ち気そうな瞳は私の憧れだ。
彼女――野間野 アスカ先輩は、智先輩の手を女子生徒から引きはがす。
智先輩は、ハッと我に返ったような表情を浮かべた。
「あなたたち、早く行きなさい! このことは黙っておいてあげるから」
アスカ先輩は手早く女子集団を追い払う。
女子集団は捨て台詞を残す余裕もなく、逃げるように去って行った。
それを見送ったアスカ先輩は、怒り半分呆れ半分といった顔で智先輩に向き直る。
「そこのあんたさあ、いい加減にしときなさいよ? 周りが見えてないにもほどがあるわよっ!」
「ごめんごめん、ついカッとなってさ。アスカちゃんに止めてもらえて助かったよー」
脳天から怒りの煙を吹き出すアスカ先輩に、智先輩はいつも通りの微笑みを向けた。
私はこれまで溜まっていた空気を大きく吐き出す。
(よかった。元通りの先輩だ……)
智先輩が見せた呑気な表情に、私は安心感を覚えた。
「それはそうと友絵ちゃん、大丈夫だった?」
「はい、智先輩のおかげで助かりました!」
心配そうに尋ねてきたアスカ先輩に、私は満面の笑みを見せる。
「そう、ならよかったわ。この男のおかげっていうのが気に喰わないけど」
アスカ先輩が智先輩に刺すような視線を向けた。
どうやら二人は知り合いらしい。それも相当険悪な仲みたいだ。
「あー、もうこんな時間だ。二人とも暗くならないうちに早く帰った方がいいよー」
「友絵ちゃんは送っていくわ。今日は帰ってくるの?」
「うん、でも晩御飯はいらないや。じゃあ、また後でね。友絵ちゃんも、また明日ー」
アスカ先輩の睨みに耐えられなくなった智先輩が、強引にその場を解散へと持ち込んだ。
私はふかぶかとお辞儀してその場を去る。
アスカ先輩と一緒に帰るのは、久しぶりだった。
「友絵ちゃん、ちょっと時間ある? 久しぶりに食堂でお茶しましょ」
「あ、はい!」
私はアスカ先輩に連れられて、食堂でイチゴミルクを飲むことにする。
アスカ先輩が注文したのはコーヒーだった。
大人っぽくて憧れるけど、私は苦いものが苦手だ。
放課後の食堂には、勉強している生徒の姿がチラホラとあった。
「友絵ちゃんさ――アイツと、どういう関係なの?」
アスカ先輩が単刀直入に話を切り出す。
質問の意図、アスカ先輩の真意がよくつかめなかった。
「智先輩ですか? 友達です」
私が普通に返すと、アスカ先輩は渋いような顔をする。
私は急に興味が湧いて、逆に問いかけてみた。
「先輩こそ智先輩と知り合いなんですね。親しそうでびっくりしましたよ」
びっくりしたのは紛れもない事実だった。
同じ学年だとはいえ、普通科と芸術科はクラスも校舎も離れている。
性格も正反対の二人に、どんな接点があるというのだろう。
「親しくなんかないわよ。私、ああいう何考えているのか分からないタイプの人間は苦手なの」
(智先輩が、苦手)
さっきの智先輩の変わりようを見ていたら、わからないでもないと思った。
智先輩は考えていることが全く読めない人だ。
「勉強でも運動でも家事でも、何でもできるなんて詐欺よね。あんなにボーっとしてるくせに」
アスカ先輩はきっぱりと言い切った。
私は頷きにくくて、曖昧に苦笑する。
アスカ先輩の好き嫌いはとてもハッキリしているのだった。
(あれ?)
私はかすかな引っかかりを覚える。
(今、家事って)
私の聞き間違いじゃなければ、アスカ先輩は確かにそう言った。
「……先輩は、智先輩と一体どういう知り合いなんですか?」
「知り合いっていうか、中学の頃からかな。アイツがうちに住んでるの。それだけよ」
「同棲ですかっ?」
私が驚きの声をあげると、アスカ先輩はコーヒーを文字通り吹き出した。
「同居よ、同居っ! アイツの母親と私の親父が兄弟だから、あいつとあいつの妹をうちで預かってやってるの!」
「あ、そうなんですか……」
私はアスカ先輩が言ったことを頭の中で整理してみる。
「つまり、先輩たちはイトコ同士なんですね」
「まあ、そういうことになるわね。アイツの妹は可愛いんだけどね」
なるほど。世間は狭いな、と思った。
意外な人同士に繋がりがあるものだ。
イトコが同じ家に住むのは普通じゃない。けれども他人様の家庭の事情をあまり深く聞くのはよくないだろう。
「でさ……友絵ちゃん、アイツのこと好きなの?」
アスカ先輩は急に声をひそめて言った。
「はい?」
私は目をパチパチとしばたかせる。
質問の意味が判らなかった。
(好き……?)
「誰にも言わないから。教えてよ、中学時代からの付き合いでしょ」
好奇心満タンの瞳を向けられて、私は困惑する。
世の中の人を好きと嫌いの二種類に分ければ、智先輩は確実に好きな方の部類に入るだろうそれだけは確かだ。
けれどアスカ先輩はそんな意味で訊いているんじゃない。そのくらいは鈍感な私にも分かった。
――でも判らない。好き、ってどういうことを指すんだろう?
私はアスカ先輩を尊敬している。
強くて快活で、いつだって凛としていて。中学生の頃から大好きだった。
――智先輩だって、好き。
マイペースだけど優しい人だと知っている。
その二つの気持ちの違いだって、今の私には全然判らなかった。
「どうなの?」
「わ、わかりませんっ」
アスカ先輩にも自分の気持ちにも嘘はつけない。
私は思ったことをそのまま口に出して言った。
「そういうのって、よくわからないです。嫌いじゃないのは確かですけど……」
「ふーん。ま、違うならいいの。アイツを好きになった子は苦労すると思うからね」
「え……? それってどういうことですか?」
私の質問を、アスカ先輩は曖昧な微笑みではぐらかす。
「まあアイツを好きになるような変わった子がいたらの話。――ところで、文化祭に出す絵の出来はどう?」
「えっと、今日デッサンに入りましたよ。割と順調ですっ」
私は笑顔でブイサインを作った。
最近は昼休みにスケッチするのが日課だ。
見せてと智先輩が言ってくれるけれど、私はそれを断っている。
完成してからのお楽しみだ。その方がきっと、いい作品が描けると思う。
「私、頑張りますね! アスカ先輩にも負けませんよ」
私が言うと、アスカ先輩は驚いた表情を浮かべた。
それもそのはず。
以前の私なら、こんなこと絶対に言わなかっただろうから。
「友絵ちゃんは変わったわね。……さっき言い返していたのといい、ここ最近で強くなった気がする」
「えへへ。もうアスカ先輩に頼りっきりではいられません」
さっきみたいに私に文句を言って来る人は、実はあまりいない。それはすべて、アスカ先輩がさり気なくかばってくれているお陰だった。
「……そっか。偉いね」
そう言って微笑むアスカ先輩は、なぜだかとても悲しげだった。
「先輩は上手くいってないんですか?」
「え?」
私が訊くと、アスカ先輩は首を傾げて動揺を押し隠す。
一度、風の噂で聞いたことがあった。
――アスカ先輩が芸術科の担当教員と対立している、と。
アスカ先輩は溜め息混じりに話し始める。
「先生は風景画を描けって言うの。秋の芸術展、審査員受けするからって」
「描いたらいいんじゃないですか? 先輩の風景画、大好きですよ」
人物画の方が好きだけれど、と私は心の中で付け足した。
アスカ先輩が描いた風景画は文句なしに上手い。
でも上手いだけだ。
技術力の高さ以外に伝わってくるものは少ない。
その点、人物画は違った。
アスカ先輩が描き出した人物は確かに活きている。
紙の縁をはみ出し額を越えて、強い感情がひしひしと伝わってくるのだ。
「審査員に画力をアピールするには風景画の方がいい、これまでの入選作品は風景画が中心だ、って。先生なんてそればかりよ」
いつも明るいアスカ先輩が、珍しく愚痴る。
「私が描きたいのは人間なのに……たまに思うの。絵を描くことを強要されているみたいだって」
まったく立場の違う私には、言うべき言葉が見つけられなかった。
ただ好きだから絵を描いているだけの人間に、アスカ先輩の気持ちなんて理解できないだろう。
「だからね。最近ちょっと、私の無意識が反抗を起こしてるの」
「無意識、ですか?」
思いがけない言葉に、私は目を丸くする。
「――そう。絵を描こうとしても、描けなくなっちゃった」
ひらひらと右手を振りながら、アスカ先輩は笑顔で言った。
「描きたいはずなのにね。描かなきゃって思うと、体が動かなくなるの」
私は顔の筋肉が急に引きつっていくのを感じる。
有名な画伯を父に持つアスカ先輩は、周りからの多大な期待を背負っていた。
プレッシャーが重荷になって、理想と現実の差に心が縛りつけられて。
アスカ先輩の無意識は、自分を守るために絵を拒絶したのだ。
私には、どんな言葉をかければいいのか判らない。
何を言っても傷つけてしまいそうだと思った。
アスカ先輩は自嘲するかのように笑っている。
こんなにも泣きそうな笑顔を見るのは初めてだった。
口にするだけでもつらいであろうことを、他の誰にでもない私に相談してくれたのだ。
――智先輩なら。智先輩なら、何と言うだろう?
私を励ましてくれた優しい微笑み。力強い言葉たち。
智先輩からもらった沢山のもの。それを今度は私が誰かに与えたいと思うのに。
私は唇をギュッとかみしめた。
何も言えない自分の無力さが、ただただ悔しい。
「友絵ちゃん、そんなに悲しそうな顔しないで」
「……ごめんなさい」
涙が出そうになるのだけは必死でこらえた。
泣いてはいけない。
私が泣いたら、アスカ先輩が泣けなくなる。
「ごめんなさい。私、何もできなくて……」
「いいのよ。私こそごめん、こんなこと話して」
そう言って笑うアスカ先輩が、とても痛々しかった。
「はい、もうこの話は終わりね。帰ろ帰ろーっ」
私はこのとき何と言えばよかったのだろう。
考えてみても思いつけない答え。
それがわかっていたのなら――。
アスカ先輩はこの先、あんなにも自分を追い詰めることはなくて済んだだろうか。

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