現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

壊れていく音がする。
ゆっくりと、でも確実に。何かが壊れる気配がする。
始まりは、そう。突然聞こえた、ひび割れの音だった。
「アスカ先輩……今、何か聞こえませんでしたか?」
昇降口に向かう途中で私は立ち止まった。
不快な音色を認識して、耳を凝らしてみる。
「何も聞こえなかったと思うけど。またいつもの? こんなに綺麗な夕焼けなんだから、雷なんて鳴るわけないわよ」
呑気に言うアスカ先輩の顔に、夕焼けの鮮やかな光が降り注いでいた。
私は昔から妙に耳がいい。
十キロ遠くの雷や踏切の音まで聞き分けることができた。
「雷とは違いますけど……」
説明しづらいけれど、今聞こえたのはもっと不吉な音だ。コンクリートを針で思いっきり引っ掻いたような。
けれど耳を澄ませてみても、その音が聞こえることは二度となかった。
「いえ、すみません。気のせいみたいです」
「そう? ならいいんだけど。友絵ちゃんって変わった子ね」
「あはは、先輩ひどいです」
私は笑顔を浮かべて取り繕う。
確かに聞こえたはずなのに、音の正体が分からなかった。
胸の中がモヤモヤする。
不吉な予感に、頭の片隅がガンガンと鳴った。
「――あら、何かあったのかしらね?」
校門を出たところで、アスカ先輩が怪訝そうに言う。
見ると、校舎の裏の通りに人だかりができていた。
私の心臓は一際大きく飛び跳ねる。
(まさか……!)
ドクン、ドクン。
痛いくらいに激しい脈拍の音が、すぐ耳元で響いた。
私は何かに弾かれるようにして走り出す。
「友絵ちゃん!」
アスカ先輩が何事かと後を追ってくるのがわかった。
けれど私は足を止めない。
止められなかった。
裏通りには一台の車が止まっている。人だかりの隙間から見えたモノを見て、私の心はグシャリと音を立ててつぶれた。
車のタイヤにまとわりつく、嫌に生々しいモノ。
赤黒いそれは、血痕と――肉片、それに毛だった。
黒い子猫の小さな体が、アスファルトに練り込まれている。
以前の姿を残したまま地面にぺしゃんと押しつけられた様は、まるで押し花のようだった。
「智……先輩……」
私は震える声で呼びかける。
すぐそこに立っていた智先輩が、ゆっくりと振り返った。
こんなときでも智先輩は笑顔を崩さない。
それは、すべてを拒絶するかのように淋しげな笑顔だった。
追いついてきたアスカ先輩が息をのみ、悲鳴にも似た声をあげる。
小さく引きつった声に、この身を引き裂かれたような痛みを感じた。
「友絵ちゃん、見ない方がいいわ。帰りましょう」
アスカ先輩が耳打ちしてくれたけれど、私には動くことができない。
――智先輩が、目を逸らすことなくずっと見ていたから。
容赦ない現実が重たく肩にのしかかってくる。
地面につぶれている黒い子猫は、ルカなのだ。
あんなにも可愛らしくて人懐っこかったルカ。
私が智先輩と言葉を交わすことができた、そのキッカケを作ってくれたルカが。
私は立ちすくんだまま、これまでの平穏が崩れる音を聞いていた。
「――来る理由、なくなっちゃったね」
顔を上げた智先輩が、静かに微笑んで言う。
「裏庭に来る理由、なくなっちゃったね」
私は微笑み返そうとするけれど、顔が引きつって笑えないことに気づいた。
「智、何言ってんの。帰るわよ友絵ちゃん」
アスカ先輩に強く手を引かれて、私はその場を後にする。
「……さよならっ」
振り返り際、智先輩に頭を下げた。
智先輩はやっぱり、いつものように柔らかく微笑むだけだ。
見ているだけで胸が痛むような、そんな悲しそうな笑顔を浮かべて。
私は翌日、お昼休みが来るのを初めて怖いと感じた。
ネコが好きだから会いに来たい。
智先輩と初めて会話したとき、確か私はそう言った。
だからルカがいなくなった今、私にはもう裏庭に行く理由がない。
鳴り響いたチャイムの音に、私はハッとして顔を上げた。
いつもなら大好きだったお昼休みの時間だ。
「西口さん……あの」
歩み寄ってきた大人しそうなクラスメートが、おずおずと口を開いた。
親しくはないが名前くらいは知っている。
確か、古谷 真由。地味だが誰とでもソツなく付き合えるタイプの、性格優等生。
「よかったらお弁当、一緒に食べる?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
きょとんとする私に古谷さんは、はにかむような笑みを浮かべる。
古谷さんの背後に視線をやると、古谷さんの仲良しグループがこちらの様子をうかがっていた。
どうやら会議の上で私を誘うことが決定したらしい。
私に対する風当たりは、時を追うにつれて少しずつ薄れてきていた。
私の絵は、ここ最近でレベルをあげている。
一年生の中でも一目置かれる存在となっているのだ。
「私たち、これまで西口さんに悪いことしていたなと思って。よかったらお弁当、一緒に食べない?」
考えてきたらしいセリフを一息に言うと、古谷さんは返事を待った。
クラスメートにしてはよそよそしい態度。
場を覆うのはピリピリとした緊迫感。
(いきなり噛みつくとでも思われているのかな、私)
そんなことをぼんやりと思った。
私はできるだけ満面の微笑みを浮かべる。
「誘ってくれてありがとう。でも、ごめんなさい。私、ちょっと今日は用事があるの」
古谷さんは残念そうな、それでいてどこかホッとしたような表情を浮かべる。
「そ……そう、残念ね」
「ごめん。またよかったら誘ってね」
私はそう言うと、お弁当を持って教室を出た。
「どうだった?」
「なんか意外と普通じゃん」
背後から聞こえてくるクラスメートの興奮した声を振り切って歩く。
私はいつものように裏庭に向かった。
ルカがいなくても、智先輩に会いたい。
ルカには悪いけど、その気持ちだけは本当。
だからちゃんとそう言おう。
私は決めた。決めたのに。

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