現代恋愛青春小説「描かれた夏の風」

 ◆

「智……先輩?」
裏庭はガランとしていて、智先輩の姿はなかった。
乾いた土。
青白い校舎の壁。
申し訳程度に敷地を囲う、頼りないフェンス。
(そっか……そうだよね)
智先輩はルカに会いにここへ来ていたのだ。
だからルカがいなくなった今、ここに来る理由がない。
考えてみれば、当然だった。
(それにしても、ここってこんなに寂しい場所だったっけ……?)
きっと智先輩がいないからそう感じるだけだ。
すっかり葉を茂らせた桜の枝が、空に浮かぶ雲を突き刺さんばかりに伸びている。
終わってしまった日々のことを思い出して、不意に胸が締めつけられた。
(ここで絵を描いていたら、ルカが膝に飛び乗ってきたんだっけな)
手に残っているように感じる、大好きだったルカの温かさ。
穏やかな気持ちでスケッチブックに向かえたあの日々が脳裏に蘇る。
私は涙がこぼれそうになるのをこらえた。
熱い目頭をこすりながら、元来た道をふらふらと引き返す。
教室には戻り難いな、と思っていたらいつの間にか三年生の教室に来ていた。
扉からそっと顔をのぞかせる。
ガヤガヤとざわついた、上級生――それも違う学科のクラスだ。
自然と萎縮してしまうけれど、私は精一杯の勇気を振り絞った。
「あの、すみません……都築先輩、いらっしゃいますか?」
入口付近にいた知らない先輩に声をかける。
迷惑そうに向けられた視線が怖かった。
「はあ? 都築? 見当たらないけど……購買じゃないかな」
「あ、ありがとうございます!」
ペコリと頭を下げながら、逃げるようにして後退する。
智先輩に会って、私はどうしたいのだろう。
今更ながら疑問がわいてきて、急に恐くなった。
智先輩に会うのが怖い。
それは初めての感覚だった。
(もう、帰ろうかな)
智先輩の言葉を借りれば、会いに来る理由がないのだ。
そう思って引き返そうとしたら、肩に強い衝撃がはしった。
「オイ、余所見してんじゃねーぞ」
ぶつかった相手に野太い声で怒鳴られて、私はとっさに頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ!」
校章や上履きの色からか、それとも私の怯えっぷりからか。私が下級生だと悟った相手は、ニヤリと険悪な笑みを浮かべる。
体格が良い、でも品が悪い男子生徒だ。
どんな有名人に似ているかと訊かれれば、青いネコ型ロボットのアニメに出てくるイジメっ子だと即答できる。
廊下を行く先輩たちが、ちらちらと憐れむような視線を向けてくるのがわかった。
「ごめんで済んだら警察いらねーっての。すげー痛いんだけど、どうしてくれんだよ!」
「え? 保健室に案内しましょうかっ?」
慌てて言ったものの、軽くぶつかったくらいで怪我するはずもない。
第一、相手の方が二年長くこの学校に通っているのだ。保健室の場所を知らないわけもない。
「お前、舐めてんのか? 本気でふざけんなよ」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
とにかく恐ろしくて、私は新入社員のような勢いでペコペコと頭を下げた。
「慰謝料は払ってもらうからな……と、意外に可愛いじゃねーか、お前」
「へ?」
私が間抜けな声をあげたとき、背後から助けの言葉が降り注いだ。
「松本君、何をしてるのかな。受験をひかえているのに余裕そうだねー」
聞いているとどこか気が抜けるような口調に、胸が一杯になる。
私は嬉しさを表情に溢れさせて振り返った。
智先輩が購買のパンを手に持ち、いつもみたいに穏やかな微笑みを浮かべて立っている。
どこか冷たいものをはらんだ視線は、私ではなくその向こうを見据えていた。
「俺は松本じゃなくて松川だ」
「ああ、松本君そういえば推薦組だっけ? いいのかなー、こんなところで下級生の女の子に絡んだりして」
智先輩の脅しに、松川君は舌打ちして応えた。
「この女がぶつかってきたんだ。何なんだよ、お前には関係ないだろ」
「関係あるよ。この子は僕の彼女だから」
間髪入れない智先輩の返事に、私は目をまん丸くする。
(えええーっ!)
驚愕のあまり声すら出なかった。口を開いても、出てくるのは空気だけだ。
(い、今、彼女って言った?)
混乱を極める私をよそに、智先輩は脅し文句を継ぐ。
「僕もこの子に危害が及ぶようなら真剣にならざるをえないから……早く行った方が賢明だよ?」
「何だと!」
「松本君もせっかくの推薦内定、不祥事起こして取り消されたら大変だしね」
「すまんかった! じゃあまたな!」
内定取り消しという単語を耳にして、松川君は慌てふためき逃げ出した。
どうも頭の回転が遅いようで、気の利いた捨て台詞すら残せないらしい。
智先輩は松川君が去っていく背中を見つめて、独り言のようにつぶやいた。
「――彼、焦ってイラついているみたいだね。噂ではさ、本当に行きたい志望校を諦めたんだって」
松川君は成績が落ちて志望校に合格できるか怪しかったらしい。
だから部活の実績を利用して、推薦で安全に進路を決めたそうだ。
「そう、なんですか。妥協……したんですね」
私の相槌に、智先輩は薄く笑った。
「うん。でも自分の選択に後悔しちゃダメだね。ましてや自分自身にイラついて後輩に八つ当たりしてるようじゃ、駄目だ」
意志を貫くも貫かないも自由だと思うけどね、と智先輩は言った。
私はその言葉をかみしめる。
(後悔、か)
後悔したくなかった。
だから智先輩に会いに来た。
それなのに、どうしてだろう。
いざ顔を合わせてみると、上手く言葉を紡げない自分に苛立つ。
「大丈夫だった?」
智先輩が、初めて私の方を真っ直ぐに見据えた。
緊張感が私の体を包み込む。
心臓の音が耳にうるさかった。
「は、はい。ありがとうございますっ!」
心の底から深々と感謝の礼をする。
智先輩にもアスカ先輩にも、私は助けてもらってばっかりだ。
大切な人たちが周りからいなくなったら、きっと私は私のままでいられない。
「そっか。何はともあれ、西口さんが無事でよかったよ」
智先輩が笑顔で口にした言葉に、私は自分の耳を疑った。
――西口さん。
妙によそよそしい呼び名に私は戸惑う。
「さっきは口から出任せ言ってごめん。松本君は硬派だし噂話とか嫌いなタイプだから、広まりはしないと思うけど……」
「あ、はい。気にしてません。でも智先輩、とても平然と嘘がつけるんですね」
――彼女という単語だけであんなにドキドキしていた私とは大違いだ。
そう感心しただけのつもりだったけれど、マズい言い方をしてしまったかもしれない。
智先輩の笑みが急に曇るのを見て、私は冷や汗をかいた。
「――嘘は得意だよ、もしかしたら僕の言っていること、全部が嘘かもしれない」
「え……? それってどういう」
私が言いかけた声は、途中で智先輩に遮られる。
「まあ無事ならいいや。じゃあ、ね」
素っ気なく言うと、智先輩は私に背を向けた。
(あれ……?)
何かがおかしい。智先輩の背中は、私を拒絶しているかのようだった。
見えない壁が、智先輩と私の間に立ちふさがっている。
智先輩が作った壁。
一生懸命作ろうとしている壁。
(どうして……?)
私、気づかないうちに何か嫌われるようなことをしたのだろうか。
嫌われていると考えただけで、どうしようもないくらいに胸が苦しかった。
「智先輩ッ!」
苦しいものを吐き出すようにして、私は大声で叫ぶ。
そうしないと、智先輩に振り返ってもらえないような気がした。
智先輩がゆっくりと振り返る。
その表情からは微笑みが消えていた。
智先輩は無表情な瞳を私に向けて、次に発せられる言葉を待っている。
私は前に一度経験したことのある恐怖感を覚えた。
――智先輩が智先輩でなくなってしまうような、そんな感覚。
「あの……今日は裏庭には行かないんですか?」
「理由がないって言ったはずだけど」
おずおずと切り出した私に、智先輩はどこか責めるような口調で応じる。
「僕はもう二度とあそこには行かない。西口さんとも関わらないよ。――用がそれだけなら、もう行くよ」
くすんだ声で言うと、智先輩は今度こそ私を置いて歩き始めた。
表情からも歩き方からも、拒絶の感情がありありとうかがえる。
私は必死で智先輩の後を追いかけた。
廊下の人目も気にせず、震えた声で問いかける。
「理由がないと、駄目なんですか? 智先輩は裏庭には来てくれないんですか?」
智先輩は答えてくれなかった。
歩幅が大きくて、小走りしないとついていけない。
私が足を止めれば、智先輩の背中はぐんぐん小さくなっていった。
「先輩……っ!」
――ここで勇気を振り絞らなかったら、きっとずっと後悔する。
「私は、私は智先輩に会いたいですッ!」
大好きな人の背中に向かって、私は一生分の勇気を振り絞って言った。
視界を滲ませた透明の雫は、胸を苦しめる想いの結晶だ。
私は前を見据えて静かに口を開く。
アスカ先輩や智先輩みたいに格好よくない。
綺麗じゃないし、輝いてもいない。
けれども気持ちが届くようにと精一杯の力を込めた、等身大の言葉たち。
「私は智先輩のことが好きです。大好きです。それじゃ、理由になりませんか?」
震える声で言い切った私を、智先輩は唇をかみしめて見ていた。
――沈黙。
やがて智先輩は寂しそうに微笑んだ。
そしてどこか険しい表情で、悲しそうに言う。
「駄目だよ。理由にならない」
智先輩が口にした静かな言葉が、胸の奥深くにまで突き刺さった。
痛い。
とても痛い。
私は足元がフラリとぐらつくのを感じた。
「……ごめんね、西口さん」
申し訳なさそうに智先輩が言うのを、私は途中で遮る。
「こちらこそ、ごめんなさい。こんなこと言って、迷惑ですよね」
愛想笑いが下手だな、と自分でも思った。
ダメだ。
これ以上ここにいたら、きっと私は泣いてしまう。
現に今だって、作り笑顔がぐちゃぐちゃだ。
「……失礼します」
クルリと方向を変えて、私は走り出した。
目に腕を押し当てて強くこする。
胸が苦しくて、息が上手くできなかった。
もうきっと、智先輩と言葉を交わす機会はないだろう。
智先輩は私のことを好きじゃなかった。
それだけが本当。
私は廊下を曲がると立ち止まった。
智先輩が追いかけてきてくれないかな、と淡い希望を抱くけれど、希望はあくまでも希望だった。
私はひとりきりで校内を歩く。
(どうして智先輩は、私と一緒にいてくれたんだろう?)
一人きりでお弁当を食べている可哀想な一年生に、居場所を提供してくれた。
智先輩は優しい人だから。困っている人を放っておけないから。
ただ、それだけ。
単なる親切。
もしかすると私の存在は最初から全部、智先輩にとって迷惑だったのかもしれない。
頬をなでるのは温い風。
裏庭の木々はますます緑を深くする。
太陽がすべての物に色濃い影を作る夏の始まりに、私の恋は終わりを告げた。

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