現代青春小説「鶴賀マーケス・ファンタジー 二年前」

(C)ぱくたそ

――突然のことだった。
鶴賀町に大きな地震が起こったのは。
この世界が丸ごと崩れてしまうんじゃないかってくらいの揺れが収まったとき、わたしは暗い場所にいた。
何も見えないけれど、全身を襲う痛みで、ああ、生きてるんだって確認する。
再び明るい場所に出たとき、鶴賀町はこの世から消滅してしまっていた。
残ったのは倒れた建物の瓦礫だけ。ところどころ、瓦礫の色や半壊した建物に見覚えがあって、もとの町並みを思い起こすことができた。
だから、やっぱり、わたしが今ここにいるのは鶴賀町だった場所なのだろう。
知らないおばさんに手を引かれて、つい最近卒業したばっかりだったはずの小学校へと向かう。
わたしのお父さんもお母さんも、お兄ちゃんたちも、そこにはいなかった。
それはそうだろう。まだわたしの家にいるのだ。跡形もなくなった家にいる。みんなきっと幸せそうに笑っているはずだ。
わたしというお荷物がここにいるのだから、きっとみんな嬉しくて、心の底から笑えているはずだろう。
そう思っていたら、なぜだか一筋の涙が頬を伝った。
わたしは壁に背をもたれさせて、両膝をぎゅっと抱きしめる。自分以外に、暖かみを感じられるものはなかった。まだ秋なのに、わたしには体育館の空気が突き刺さるように冷たく感じられる。凍えてしまいそう。血管の血が固まって、このまま動けなくなってしまいそう。
それでもいいと思った。
このままわたしは冷たくなって、温かい土の下へと行く。
それが、いいと。
そうしたらこの震えも、この涙も、止まってくれるに違いない。
――泣いちゃ駄目っていってるのに。仕方ない子だね。
そう、りっちゃんを困らせることもなくなるはずだ。
丸くなって座るわたしの前に、ふと影がかかった。億劫になりながら目線をあげると、知らない男の子がこっちを見て立っている。
「痛い?」
短く問うと、彼は静かにしゃがみこんだ。しばらく黙っていると、大丈夫? って聞かれる。それでようやく、彼はわたしに話しかけていて、しかもわざわざ目線を合わせてくれたのだとわかった。
わたしは返事をしようとして口を開き――声が出ないことに気づく。静かに首を横に振ると、彼はそれで納得したようだった。
「そう」
彼はそれきり何も言わず、沈黙のまま無感情な目でわたしを見据えてくる。
彼の歳はわたしと同じぐらいか少し下に見えた。
不思議なことに、わたしは彼に会った記憶が全くない。鶴賀町の子だとすれば学校ですれ違うことぐらいあるだろうから、見覚えがないというわけはないのだ。けれど、彼が鶴賀町の外の子だなんてことはありえるのだろうか。なんにせよ、不思議な子というのが彼に対するわたしの第一印象だった。日焼けしていない白い肌。フードつきのトレーナーにジーパンという、いたって普通の服装。どこか服が土っぽく汚れている。
遠くの方ではしゃいだような騒ぎ声が聞こえて、彼の次の言葉は聞こえなかった。見れば、体育館の真ん中の辺りで十人ほどの子どもたちがきれいな円になって座っている。その賑やかさの中心にいるのは、一人の男の子だった。わたしをここまで連れてきてくれたおばさんと一緒にいた子だ。恐らくわたしより三、四歳は上で、高校生だろう。だから名前は知らなかったけれど、道で出会った子どもからは確か、ひろっちゃんって呼ばれていたような気がする。そちらの方をじっと見ているわたしに、彼は短く問う。
「入りたい?」
その質問には、慌てて首を横に振った。わたしは人と話すのは得意じゃない。というか、苦手だ。入れてくださいって頼もうにも、勇気が足りなくて口が接着剤でくっついたようになってしまう。そんなわたしの様子を察したのか、彼は笑顔らしきものを浮かべてそっけなく言った。
「そう。でも入りたいなら、入れるよ。あの真ん中にいるの、知り合いだから」
あいつ、と言って彼は親指で円の真ん中の男の子を指差す。わたしはまた首を横に振った。髪が肩の上で重たく揺れる。
「そっか」
彼は残念そうでもなく、淡々と答え、また沈黙した。彼はわたしと同じで人と話すのが上手くないように見える。
彼は一人なのだろうか。わたしのように家族とはぐれてしまったのだろうか。あの賑やかな集まりに参加しないのはどうしてだろう? 中心にいる子と知り合いだというのなら、なおさら不思議だった。
――けれど、分かる気がする。
人と接するのは、恐い。一人でこうして膝を抱いて小さくなっている方が楽だ。傷つける心配も、傷つけられる心配もしなくていいのだから。
そんなことを取りとめもなく思っていたら、彼がわたしの目の前に紙を差し出した。ぐしゃぐしゃの、小さな紙切れ。数本の罫線が走っている。音符を書くための紙だ。
「名前は?」
彼に問われ、わたしはその紙切れを受け取った。彼はトレーナーのポケットをあさり、ボールペンも差し出してくれる。
わたしはその紙に「理子」と小さく書いた。
「リコか」
本当は「りこ」ではなく「さとこ」って読む。けれど今は言葉が出なくて、複雑な気持ちで頷いた。
――さとこだから、さっちゃんね。
そう言ったりっちゃんの顔が脳裏をよぎって、胸が鈍く痛む。
りっちゃんの本名は立田沙彩っていう。でも「さあや」なんて可愛らしすぎる名前はうっとうしいからと、苗字の立田をもじって「りっちゃん」と呼ぶように言われた。
「変な名前」
彼に言われて、わたしはもう一回、小さく頷く。と、不意に手首を強い力でつかまれ、引っ張られた。
「ちょっと来て」
どこに行くのだろうか。問おうにも、声がでない。不思議と、手を振り払おうという気にはならなかった。
彼は地べたに座り込んだ人々の間をすり抜け、あわただしく動き回るボランティアたちの間を縫って、体育館のステージの方へと向かった。わたしの胸くらいの高さのステージに、彼は躊躇なくよじ登ろうとする。わたしが驚いて止めようとした瞬間、彼の体はつっかえ棒を取られたみたいにがくりと下へ沈んだ。だがなんとか持ちこたえて、片手だけで体重を支え、ステージにあがる。
「大丈夫だよ。あがってこられる?」
泣きそうになるわたしに、彼は手を差し出してくれた。わたしは彼のもう片方の手を指差して唇を開く。けれど、やっぱり声は出ず、息で口元の空気がかすかに震えただけだった。
「大丈夫だって言ってるだろ」
彼は怒ったように言う。
私は涙を堪え、彼の助けは借りずにステージへと上がろうとした。両手を着き、力いっぱい地面を蹴る。けれどやっぱり一人じゃ無理で、結局は彼の力を借りることになってしまった。ステージは思ったより高くて、何もかもが散らばって燦燦たる有様になった体育館の中が見渡せる。真ん中には子どもたちがいて、トランプゲームに興じていた。こんなときに、と怒られないかと不安になるが、逆に言えばこんなときだからこそだろう。円の中にはかなり小さな子どもたちもいるから、面倒を見てくれてありがとうと大人たちからは感謝されるのかもしれない。
体育館にいる中の何人かがこちらを見て、怪訝そうな顔をした。でも降りろとは言われなかった。忙しくて、それどころじゃないのだろう。
見事な光沢を持つグランドピアノが、埃っぽいステージの端に置かれていた。ここに通っていた頃は、しばしばこの下にもぐったりして遊んだことを思い出す。その頃は単なるアスレチックの一種だと思っていたピアノは今、その空間の主であるかのように堂々と君臨していた。
「座って」
彼にそう言われて、私はピアノのそばで素直に正座した。彼はそんな私を見て、満足そうに微笑む。初めて見た、彼の笑顔だった。
彼は恭しく一礼する。そして静かにピアノの前へ歩み寄り、両手でピアノの鍵盤を開けた。艶々と並ぶ鍵盤の上にそっと指をのせる。
最初は、静かに。鳴り出したメロディは、この場で聞くにはあまりにも場違いなほど澄んでいた。だが、そう感じられたのは最初の数秒だけだ。あとはもう、奏でられるメロディに耳を傾けるばかりだった。
鉛のような沈黙の湖を、ピアノの音色は波紋のように揺らす。
彼は全身でピアノを弾いていた。雪解け水が山肌を流れるように静やかに、またあるときは嵐の日の濁流のように激しく。
いつの間にか、先ほどまで走り回っていたボランティアの人たちが立ち止まっていた。ビニールシートの上に座り込んだ人たちは、物音一つ立てずに耳を傾けている。遊んでいた子どもらもステージの方を輝く瞳で食い入るように見つめていた。
私は間近に座って、白と黒のキーからあふれ出した音の洪水を、全身で浴びる。
やがて曲が終わって、その場はしんと静まりかえった。
私は思わず力の限り拍手していた。心の中を覆っていた暗雲はいつの間にか消え、確かな白い光がさすようだった。
「すっげー!」
「もう一回! もう一回、弾いて!」
子どもたちがステージの下にわっと押し寄せて、きらきらした目で彼にせがむ。
私は彼の表情が一瞬だけ、わずかにゆがんだのに気づいた。
彼の手――右手の人差し指は、赤い絆創膏を巻いたみたいに裂けている。白い鍵盤に、一滴の赤――。それは色水を垂らしたみたいに綺麗だった。
彼は私の視線に気づいたのか、少し微笑んで、それからまた鍵盤に目を落とす。声は聞こえなかったけれど、彼は「大丈夫」と言ったのだと思った。
彼は初めて鍵盤に触れたかのように気取りのない、自然な動きで音色を奏でる。
私は音もなく息をのんだ。
彼の指先からつむぎだされた旋律は、私のよく知っているものだったのだ。
合唱コンクールの課題曲。
りっちゃんが最後まで演奏してのけた曲。
辻村さんが弾きたいと願って、でも叶わなかった曲。
そして――家へ遊びに行ったとき、よくりっちゃんが弾いてくれた曲だ。
この音色を聞くと、温かくて優しくて、切ない気持ちになる。
彼の演奏は、辻村さんのそれよりも柔らかく、りっちゃんよりも幾分か悲しげで。
力強く、澄み切っていた。
耳でもなく、鼓膜でもなく、心でもなく。
私の体の細胞一つ一つに直接響くかのようだった。
(ねえ、りっちゃん。……私、強くなりたいよ)
もう二度とあんな思いをしなくてもいい自分になりたい。失う前に大事なものの存在に気がついて、大事なものを大事だと、堂々といえるようになりたい。そして、幸せだなあって、毎日を笑って過ごしたい。
やがて演奏は終わり、体育館の中に拍手の音が湧きかえった。
彼は微笑みながら顔を上げ――私を見て、ぎょっとしたように硬直する。
「大丈夫?」
声をかけられても意図が分からず、ただ首を横に振る。すると頬を温かいものがすべり落ちていったのがわかった。
にじむ視界で、ああ、私は泣いているんだと知る。目元に手をやってみれば、透明な水滴がとめどなく流れているのに気づいた。
(なんで私、泣いてるんだろ……)
強くなると決めたのに。
苦しいくらいに胸を埋めるこの気持ちは何なんだろう?
嬉しいとか、悲しいとか、切ないとか、悔しいだとか、それだけじゃ言い表すにはまだ足りない。
「ごめん……」
心配そうな彼の顔をにじむ視界ごしに見ていたら、自然と言葉が唇から落ちてきた。
彼は驚いたように目をまるくする。
「喋れるんだ?」
私は自分が話せたことに驚きながら、こくり、と深く頷いた。そして涙をぬぐい、顔を上げる。
「……うん」
私はそういって、にっこりと微笑んでみせた。私が今できる、一番最高の笑顔で。彼を安心させるように。
「ありがとう。……もう、大丈夫だよ」
最後の言葉は、彼にというより自分に向かって言い聞かせた。
強くなりたい。りっちゃんのように。彼のように。
なれるだろうか?
――理子なら。
柔らかい声が、ふっと風のように私を包み込んだ。
――大丈夫だよ。……きっと……。
なくした昨日を取り戻すことはできないけれど。
今、私はここにいる。
こうして、ひとりで立っている。
私の明日を、今日の私が自由に決めていいんだ。
「あなたの演奏、大好きだよ」
私は彼に笑顔で告げる。りっちゃんの快活な笑顔を脳裏に浮かべて、できるだけそれに近づけるように。上手くできたかは分からない。これから練習した方がいいかもしれないと思った。
「……」
彼は戸惑ったような表情を浮かべ、視線を私から逸らす。彼の頬はほんの少し赤いように見えた。
「ねえ、名前、教えて?」
私は歩み寄り、彼に問いかける。ほんのりと淡い幸福感に包まれて、全身が春の陽光に包まれたように暖かった。この身の体温を、早鐘のようになる自分の脈動を、いとおしく思える。それはこれまでに感じたことのない感情だった。
私は、彼のことを知りたい。できることならば、そばにいたい。そばにいて、私のために、またピアノを弾いてくれたなら。
――それは、どんなにか、幸せなことだろう。
私のささやかで儚い幻想は、次の瞬間、墨汁がぶちまけられたかのように黒く染まった。
「……辻村、五月」
「え?」
彼は少し微笑みながら、名前を口にする。
「俺の名前は、辻村五月っていう」
――あの人と、よく似た名前を。
「……よろしく、リコ」
柔らかく笑う黒曜石の色の瞳が、一瞬だけあの人の冷たい瞳と重なって見えた。
つややかで長い黒髪。全てを見透かす水晶のような眼差し。私なんかが一生あがいても行けるはずもない場所にいて、そのくせいつも寂しげな表情を浮かべていた、あの人。
「……辻村……」
私は一歩、二歩と後退した。目の前にいる彼が急にあの人の亡霊のように見えたのだ。
夕焼けの中で散らばった黒い髪が、赤く染まった細い首が。明るい光と賞賛の声に包まれて輝いていた美しい少女の幻影が、私を追いかけてくる。
――あなたのこと、許さない。
もう関わりたくない。……思い出したくない。
辻村五月。
その名前からして、彼があの人の兄弟か何かなのは明白だ。なら……私は彼と関わってはいけない。彼と関わることはきっと、りっちゃんへの、二回目の裏切りになってしまう。
そう思うのに、なんでなんだろう。
「どうしたの?」
心配そうに私の顔をうかがう彼を――私は、好きだと思ってしまった。
彼のことを知りたい。そばにいて、一緒に話したいと。
そんなこと、決して思っちゃいけないのに。
(どうしよう、どうしたらいいの、私……!)
私は両手を前に突き出すようにして押した。彼は勢いよく後ろに倒れこむ。
「え……?」
彼は呆気に取られた様子で私を見上げた。周りの子どもたちがわっとどよめく。
「ご、ごめんなさい……!」
私はどうしていいか分からず、地面を蹴って駆け出した。途中で何度も物に蹴躓きそうになったけれど、それでもなんとか体育館の外へたどり着く。
それから二年間、彼と出会うことはなかった。
私は逃げた。
一人ぼっちの私を励ましてくれた優しい人から。
多分、りっちゃん以外で初めて好きになった人から。
その後、私は遠縁の親戚の家に預けられた。
そこに私の居場所はなかった。
つらいことや悲しいことがあるたび、私はあの時に聞いたピアノの音色を思い出す。そうしたら、少しだけ気分が軽くなった。
私はひとり。でも、がんばれる。
――あの時、彼からもらった優しさが、ずっと私の心の奥に流れている――。