現代青春小説「鶴賀マーケス・ファンタジー 分岐地点」

(C)ぱくたそ

「浅野ぉ、後輩が来てるぜー」
「は? 後輩?」
クラスメートに名を呼ばれて、浅野浩司は不思議そうに眉根を寄せた。三年生の教室に一、二年生の後輩が尋ねてくることは、別に珍しくもなんともない。部長や副部長、各部のエースであればなおさらだ。だが、浩司は四月の現時点で部長でも副部長でも何でもない。それどころか、部活動にも委員会にも所属していないのだ。
「誰だよ……?」
とつい呟いてしまうのも無理からぬことだろう。いぶかしみながら、扉の方へ足を向けた。
心の奥底に灯った予想は、ずばり的中する。
「お久しぶりっす!」
扉のところには体格のいい男子生徒がいて、浩司の姿を認めると勢いよく頭を下げた。教室中に響く大声と分度器で図ったのかというほど直角な礼に、近くにいたクラスメートが一歩引くのがわかる。
俺は思わず苦笑した。
「久しぶりだな、内田。そのさ、わざわざ頭下げて礼しなくていいぜ」
「はいっ!」
二年生の内田伸次は、長い上半身を折ってまた野球部独特の礼をする。
「だから、そんなに頭を下げんなよ。それと大きい声を出すなって。俺はもう野球部じゃねーし、お前の先輩じゃないんだからさ」
何かを言いたげな顔の伸次に、浩司は爽やかに見える笑顔を浮かべて平然と言ってのけた。反論する間は与えない。
「で? 先輩でも何でもない俺に、何の用だ?」
「あ……はい。えっと、その、浅野先輩に相談というか……頼みたいことがあるんっす」
快活な性格の伸次が珍しく歯切れの悪い口調で話し始める。あまり愉快な頼みごとではないと直感して、浩司は少し身構えた。
「先輩は早田BCって知ってますか?」
「そりゃあな。中学時代、俺のいたところといい戦いをしていたよ」
早田BC というのはこの辺りではトップレベルに強い中学硬式野球のチームだ。浩司のいたチームとは地域大会の決勝で当たったこともある。
「それで、その 早田BC の四番だった奴が、うちの学校に入学してきたんっすよ。尾川って名前なんですけど」
「ふーん。よかったじゃないか」
浩司は素直に感嘆した。
早田BC の四番ならば、県外を含めていくつもの高校から推薦がきていただろう。その中で県下でも中の上程度の鶴賀市立第一高校を選んでもらえたのは、有り難いことだ。
そう思う反面、野球部のことを完全に他人事とみなしている自分の存在に気づいた。
「いや……それが」
伸次は困ったような頭をして坊主頭をかく。
「来ないんですよ、野球部に。」
「は?」
「誘ってはいるんっすけど……頑なに断られて。だから、先輩にどうにかしてもらえないかなと思うんっす」
浩司は深くため息をついた。
「あのな、俺は引退したんだ。つまり部外者なんだよ。今さら野球部に関わる気も義理もないよ」
「わかっています。無理を承知でお願いしたいんっす! あいつを引っ張ってこられるのは先輩だけだと思うんで」
「沢田は?」
伸次は視線を泳がせて、しばらくの沈黙の後に答える。言葉を慎重に選んでいるのがわかった。
「駄目っすよ……三年生は夏に向けて、自分のことで必死っすから。もちろん自分ら二年もですけど……それにあの人は……沢田先輩は、部長の器ではないです」
浩司は険しい表情で目の前の後輩を見据える。伸次は真面目で野球一筋の人間だ。同学年では一、二を争う実力があるくせに、常に自分に対する評価は厳しい。先輩をたてることもできて、先生や同級生からも信頼されていた。だからこそ、浩司は驚く。伸次がこんな風に他人を貶すところを見たことは一度もなかったのだ。
伸次から向けられた言葉を思い返してみても、ストレートに誉められて照れくさかった記憶しか浮かばない。
「沢田先輩は選手としては素晴らしいと思うし、尊敬もしてるっす。でも……俺たちのことを見てくれてはいないんです。先輩だけですよ。あんなに後輩一人一人を見た上でチームをまとめることができたのは!」
ありのままを見つめるまっすぐな眼差し。正直という名の厳しさは、数ヶ月前までの浩司にも向けられていたのだ。その結果がこの賛辞なのだとすれば、自分が部長としてやってきたことはもしかしたら無駄じゃなかったのかもしれないと思える。
「だからこそ、お願いします! 頼める人は浅野先輩しかいないんっす!」
だめ押しに勢いよく頼み込まれてしまい、ついうっかり浩司は頷いてしまったのだった。

「そーいうのってさ、誉め殺しっていうんだと思うよ?」
浩司の話を聞いて、宮町理子は軽い口調で言う。
「やっぱりお前もそう思うか」
「うん。浩司にぃはお人好しすぎるんだって」
漫画本から顔を上げて、理子は明るく笑った。浩司の部屋の窓は開け放たれ、緑のカーテンが涼風にはためいている。その向こうにあるベランダは、出入り口の役目も果たしてくれていた。――理子限定で。
数年前からお隣の家に住んでいる理子は、ベランダから窓へ飛び移るという危険極まりない手段で度々遊びに来て、いつの間にやら浩司にとって気のおけない存在になっていた。
「お人好しか。よく言われるんだが、別にそんな気はないんだよなー」
「気があろうがなかろうが、お人好しに変わりはないよ。さすが、小学校時代からずっと野球チームのキャプテンをやっていただけあるね」
理子は浩司にとってあまり愉快ではない過去にさらりと触れた。気を遣った様子など微塵もない。だから浩司も気負いなく話すことができるのだ。
「まあな。でも『あの日』までは自分のことしか見ていなかったから、名前だけのキャプテンなんて自慢にすらならないよ」
小学校に入学する前から、浩司は野球一筋だった。甲子園の土を踏む。その目標のために、毎日ボールが見えない暗さになるまで外で練習し続けた。
だが、あの日――。
浩司は夢を捨てた。諦めたわけではない。捨てたのだ。ゴミ箱にポイ捨てして、なかったことにした。決して強制されたわけではない。自分自身で、決めたのだ。
不幸せではない、と思う。あの日のおかげで、色々なものを見られるようになれた。
「そうかな? だって中学生や小学生って歳で自分以外に本当に目を向けられる子なんて普通はいないじゃない。だから浩司兄は単純に実力が高いからキャプテンだったわけでしょう? それって、素敵なことだよ」
理子は素敵だとか幸せだとかいう言葉をよく使う。
「実力……か。まあ、今となっては関係のないことだけどな。終わったことだ、全部」
浩司は自嘲するかのように言って、小さく笑った。
二年前の春に、県外の強豪私立高校からきた推薦。夢にまでみた、一度は掴んだチャンスを浩司は蹴った。『あの日』祖父と祖母が死んだのだ。浩司の家は自営業を営んでいた。残されたのは母と幼い妹、そして弟。授業料が免除されても、下宿すれば生活費がかさむ。母と妹と弟は、それでも大丈夫だと言ってくれた。自分たちが頑張るから、夢を追いかけてもいいと。だからこそ浩司は下宿先から家に帰り、徒歩十分のところにある地元の公立高校へ編入した。
本当は知っていたのだ。
地震で全壊した店舗のローンが、不況が続き苦しくなっていく生活に重くのしかかっていることを。本当はもう、人並みの生活を送ることすら不可能になっていたことを。
さして強くもなく設備も環境も整っていない鶴賀市立第一高校へ移ってからも浩司は夢を諦めきれず、睡眠時間を削って部活動とバイトに明け暮れた。だから無理が出てしまったのだろう。所詮、根性だけで夢を叶えることなどできはしないのだ。

――右足首の靭帯損傷。

リハビリを終えれば、野球を続けることは不可能ではなかった。だが仕事で疲労しきった体に鞭打って働く母をみていたら、気持ちの方が先に切れてしまった。
「そう……だね」
理子は何も言わずに口をつぐんだ。他人の不幸に必要以上に同情したりしないのは、理子自身、同情されて嫌な思いをしたことが何度もあるからだろう。
「そうそう。その強い一年生の尾川君って何組か分かる?」
「確か六組だったはずだけど」
「なら私と同じだよ。ああ、なるほどね。あの尾川君かあ」
理子はこともなげに言った。
「ふーん。じゃあ、もしかして話したことあるのか? どんな奴か分かるか?」
同じクラスだとはいっても、まだ理子たち一年が高校へ入って間もない。だから大した情報は期待せずに訊いた。
「うん。同じ委員会だから、何回も話したことがあるよ。結構、仲はいいかも。へー、あの尾川君がそんなに野球強かったなんてね」
「意外なのか?」
「意外というか……。確かに体格はいいよ。だけど彼、私と同じ図書委員会なんだよ」
「それは……不思議というか何というか」
現野球部員の中で図書委員会に所属していた奴は果たして存在しただろうかと考える。委員会は浩司たちの高校では任意加入制だ。部活と同様に入りたければ入ればいいし、入りたくないなら入らなければいい。
浩司の頭の中にある『尾川』の像は『野球が強くて、でも野球部には入らなくて、図書委員会に入るくらい本が好き』というなんともちぐはぐなものになった。
「優しい人っぽいよ。でも、そうだね、性格を一言でいえば『頑固』ってところかな」
「頑固、ねえ」
理子に頑固呼ばわりされるくらいだから、尾川というのは鉄筋コンクリート並みに頑固なんだろう。後輩からの頼みに抵抗しきれずうなずいてしまったことを、少し後悔した。

「関係ないんで」
取りつく島もなかった。
「でも、聞いたぞ。お前、強いんだってな。あの 早田BC の四番になんて、そうそうなれるもんじゃないだろ」
頼まれた以上、浩司は仕方なく尾川の教室を訪ねたのだった。そして案の上、冷たく応対される。
尾川は想像したよりも真面目そうな外見をしていた。二歳上の浩司ともほとんど変わらない身長で、筋肉もしっかりついている。高校一年でこれなら、体格には恵まれている方だ。
「だったら、何ですか? 強かったら、野球部に絶対入らなきゃならないなんて?」
尾川は突き放すような、嫌味ったらしい口調で言った。
「誰もそんなこと言っていない」
つい、浩司も釣られていらだった言葉をぶつけてしまう。だがそれではいけないと思いなおし、フォローした。
「けど、けどな。理由ぐらい、言ってくれてもいいだろう?」
「入らない理由ですか?」
尾川は小さく舌打ちをする。
「入る理由や辞める理由ならともかく、入らない理由って必要ですか?」
正論だった。
「必要ではないよ。でも俺が聞きたいんだ。興味がある」
「それに応える義務、俺にないですよね。っていうか、先輩って三年生じゃないですか。どうして口を出してくるんですか」
校章バッジの色から、三年生だとバレたらしい。
尾川は心底面倒くさそうにため息をつく。何か野球に嫌な思い出でもあるかのようだった。
「……だって……もったいない、だろ」
思いのほか暗い声になってしまっていたらしい。尾川は少し目を丸くして浩司の方を見た。
「もったいない?」
「できるのにしないのは、もったいないだろう。やりたくてもできないやつだって、いるんだから」
尾川は少し考えた様子だった。
「俺、こんなに野球ばっかりしてていいのかって思うんです。これまでの俺の人生って、九割野球というか……もっと他に……勉強とか、遊んだりとか。他にもっとするべきことがあるんじゃないかなって。だから、こうやって勧誘にわざわざ来られるのは、面倒っていうか」
浩司は小さくため息をつく。
「なら、仕方ないが。最後にひとつ、聞かせてくれ」
「なんですか?」
「お前さ、野球、好きか?」

「野球ばっかりしてていいのか、か……」
「どう思う?」
理子はうーんとうなって、彼女らしい答えを口にする。
「私は『ばっかり』って、いいと思うよ。一つのことをずっとやり続けて、どこまで行けるのか。試してみるのは、きっと素敵なことだから」
理子がそう言うことは、だいたい予想できていた。
辻村五月が――理子の想い人が、そうだったから。
浩司の従兄弟である五月は、ピアノの天才少年と言われ、人生のすべてをそれに賭けているような奴だった。そんな五月の演奏を聴いて、理子は元気づけられ、今みたいな明るい女の子になったのだ。
「俺はさ、俺も、ずっと野球ばっかりだっただろ?」
「そうだね」
「だから、尾川の悩みは分かるよ。自分から野球を取ったら何が残るんだろう、って。きっと誰からも必要とされない、何もできない、空っぽの人間が残るだけなんだ。そう思って恐くなるの、すげーよく分かる」
理子が何か言いたそうな顔をしているのを見て、浩司は表情をふっと緩めた。
「でも俺には、理子がいるし、鬼ごっこのメンバーがいる。それだけは確かなことだ」
「……」
「勉強もするし、たまには鶴賀マーケスで遊ぶし、そんな風に、野球をなくしても、人生は変わらず続いていくんだよなー」
尾川の顔を思い出す。何かに迷っているような、ふっきれていないような。
「……でも、だったら、野球をやめた後のことを心配して立ち止まっているのって、おかしいよね。なるようになるものなんだから。立ち止まっても進んでも時間は進むんだから、方向に迷っているのって、もったいないよね」
「そうだな」
「私、尾川君とちょっと話してみようかな。野球部に入らないのって、説得してみる」
「あー、ごめん、ありがたいんだけど、ちょっと待ってくれるかな」
え? と、理子は怪訝な顔をする。浩司は穏やかに笑った。
「俺から話してみたいんだ。もう一回」

「野球部に入れよ」
「……嫌です」
尾川をグラウンドの端に呼び出して、説得を開始した。
悩める後輩は、呆れたような顔でため息をつく。
「しつこいな。しかも、あんた」
「あんたじゃねえ、浅野先輩、だ」
「浅野先輩、野球部やめたんすよね? クラスの奴から聞きました」
部外者は口を出すな。言外にそんな言葉をにじませて、尾川は浩司をにらみつけた。
浩司は、にらまれていることは百も承知で、爽やかに笑う。
「そうだな。やめた。でも、いいことを思いついた。今から、俺と勝負しねえか?」
「は?」
「お前、 早田の四番だったんだろう。俺が投げるから、打てたらお前の勝ち。ワンナウトで俺の勝ちだ」
「……」
「お前が勝ったら、俺はもう一切お前に何も言わねえよ」
「負けたら?」
それを聞くのか、と浩司は思った。

「お前が負けたときは、俺はもう一切、お前に何も言わねえよ」