現代青春小説「鶴賀マーケス・ファンタジー いつかの海」

(C)ジュエルセイバーFREE




– 前日 –

俺の人生には、亀裂がある。
鋭利な刀でえぐられたようなその裂け目が、あの日以前の自分とあの日以降の自分をざっくりと切り離しているのだ。
過去から切り離された自分は、まるでとかげのしっぽのよう。
未来はある。
やがてもがくことすらできなくなり、腐って土へ帰っていくというつまらない未来が、ありありと見える。
――見えなければ。
見えなければ、考える頭がなければ、こんなにも自分の未来に失望することはなかっただろうか? 自分の小ささを知らなければ、世の中がましに見えるんだろうか?
そう、そのはずだ。あの日がなければ、きっと自分だって、今頃――。
(……面倒くさいな)
底なしの泥沼に入りかけた思考を、俺はその一言で引き上げた。面倒くさい。すべての物事は、その一言でかたがつくのだ。難しく考える必要なんてない。全くない。
バスは長いトンネルを抜けたところだった。蛇のようにうねる山間の道を、緩やかな振動と共に下っていく。やがて、見覚えのある景色が眼下に広がった。俺は瓦屋根のひしめくその町並みを見下ろして、胸に暗雲が広がっていくのを感じる。
俺の故郷――鶴賀町は北を日本海に面し、東、南、西、三方をなだらかな山々に抱かれた小さな港町だ。もっとも四年前に三ヶ月ほど住んでいただけだから、故郷といえるかは怪しい。海外暮らしが長かったせいで町に馴染むのも難しくて、友達なんかほとんどできやしなかった。だからこの町に懐かしみや親しみなんかほとんどない。あるのは奇妙な居心地の悪さと、あの日覚えた痛みだけ。そう――人生の裂け目に当たるあの日、俺はこの町にいたのだ。
ふう、と小さくため息をついて、俺は視線をバスの車内へ戻す。予想に反して、分銅みたいに心が重かった。自分にも繊細な部分があったのだなあ、と他人事みたいに思う。同時に、町を見ただけで憂鬱になっていてはこの先やっていけるのだろうかと不安になった。
無意識のうちに、左手が右手の人差し指を触る。意思の通じない指は、石のように重たかった。
バスは白く小さな建物の前で止まり、俺は料金を車掌さんに支払ってステップを降りる。と、停留所から歩いてきた青年と目があった。爽やかな笑顔に、日焼けした健康的な肌。前に会った時よりずっと大人びた顔を、まぶしいような思いで見る。
「五月! 久しぶりだな!」
彼――浅野浩司は、そう言って俺の頭をぽんぽんと叩いた。大して歳も違わないのに子ども扱いするところは、昔から少しも変わっていない。
「お久しぶり、浩司兄。元気にしてた?」
俺は頭に乗せられた手をさり気なく払いのけながら応えた。払いのけたのはまずかっただろうか。やってしまってからちょっぴり後悔するけれど、浩司は微塵も気を害した様子がない。鈍いのだ、相変わらず。
「ああ。荷物はそれだけか?」
「うん」
「貸せよ。長旅で疲れてるだろう」
「ううん、いい。大丈夫!」
荷物を持とうかという親切な申し出を、全力で首を振って断った。長い間バスに揺られて疲れた体には決して軽くない荷物だけれど、持たせるのは悪い気がする。というか、男のプライドという名の意地が許さない。
「叔父さんと叔母さんは来ないのか」
「……うん」
「もうずっと帰らないつもりかなー」
歩きながら浩司が何気なく口にした言葉に、俺は無表情で考え込んだ。
――そういえば、両親と果たして何年まともに話していないだろう、と。
夏休みも始まったばかりの昨日、机の上に高速バスの往復チケットが置いてあった。
それと、手紙。
せっかくの休みなんだから、引きこもっていないで従兄弟の家にでも遊びに行ってこい、という内容だった。差し出し人は、俺が手紙を読んでいる瞬間も間違いなく隣の部屋にいたであろう両親だ。
逆らう口実も見つからず、流されるようにして俺は今この鶴賀町に立っている。
「忙しいんだと思うよ」
「ふーん、そうか」
「たまには、落ち着ける時間が欲しいのかもしれない」
言ってしまってから、どきっとした。俺がいると両親は落ち着けない――そんな風に取られてしまうのではないかと思ったのだ。まあ、実際、そうなのだろうけれど。
……面倒くさい。
「はは、そうだな、たまには夫婦水入らずの時間をプレゼントしないとな。五月はいい子だ」
よしよし、とまた頭をぽんぽん叩かれた。慰められているような気がして、今度は心が少し落ち着く。けれど『いい子』と言われるのには、どうにも違和感があった。もう『いい子』『悪い子』と言われるような年ではない。それに両親から腫れ物みたいに扱われ、もてあまされている俺は、どちらかといえば確実に『悪い子』の部類に入るだろう。
線路の頭上を越える高架橋を渡り、駅の裏の住宅街に出る。遠くから聞こえる子どものはしゃぎ声以外には、静かなものだった。輸入住宅のそれぞれ好き勝手な色をした壁が、激しく自己主張しあっている。全体としてのまとまりとか、統一感のある綺麗な町並みとか、そんな言葉は忘れてきてしまったようだった。
俺の記憶の中の鶴賀町に、こんな住宅街は存在しない。
「この町は変わったね」
変わらなかったものは何一つないように思えた。バスから町全体を見下ろした時、海の色や山の形、町の姿は同じにみえたけれど――こうして町を歩いていれば、昔の面影を探すことすら難しい。
「そうだな……。新しい家がたくさん立ったし、新しい人もたくさん来た。ずっとここにいても、変わっていくのが分かったよ」
寂しいな、と浩司は言った。幼き日の鶴賀町を懐かしんでいるのかもしれない。けれど、もう戻れない。いくら懐かしんでも、あの日より前には戻れないのだ。時間という名の大地に走った裂け目は、俺たちには決して飛び越えられない。
「まったく別の町みたいだね。二年ぶりだからかなあ」
「ああ、そうか。あれから二年、経つのか」
浩司の声のトーンが、少し暗くなる。あの日のことに触れられてはかなわないと、俺は逃げ口を探した。
「えっと、伯父さんたちは元気?」
当たり障りのない話題を持ち出せば、浩司は少し面食らったようだった。
俺が自分から世間話を始めるのが珍しいのかもしれない。自慢にもならないが、俺は以前から口数の少ない方だった。あの日以来、さらにその傾向は強くなっている。
言う前に考えてしまうのだ、言おうとしていることを言えば、どんな反応が返るのかと。その結果、言うのが一歩遅れる。タイミングを逃す。そうして、ますます何も言えなくなる。
「ああ、おやじもおふくろも元気だぞ」
「そっか。良かった」
「お前が来るって聞いて楽しみにしてたからな。きっと今日の晩御飯は異常に豪華だぜ。楽しみだよなー」
浩司は歩きながら表情をにんまり緩めて、視線を宙にさ迷わせた。どうやら豪華な晩御飯を思い浮かべているらしい。にやけ顔を見ているだけで考えていることが分かった。
浩司は単純だ。表情や態度、言葉から、考えていることが明け透けにみえる。だから一緒にいてなんとなく安心できる。
分かることの安心感。
それが、浩司が大抵の人に好かれる理由なのではないだろうか。
何を考えているのか分からないとよく言われる俺は、従兄弟なのに浩司とはまるっきり正反対だ。
人は分からないものを無条件に不安がり、嫌悪する。だから、人に、両親にさえ、不安感を与えるだけの俺は――。
「着いたぞ」
浩司の声でハッと我に返った。いけない、ぼんやりしているとつい思考が自分の奥深くに入り込んでしまう。そこは光の届くことができない、深海のように果てしない闇だ。浸っていると居心地はいいけれど、外の世界に対する身体の感覚は鈍くなってしまう。
「へー、こんなところに住んでるんだ」
浩司の家は住宅街の真ん中にあった。周りの家と同じ、モデルハウスそのものの洒落た外観。真新しい焦げ茶色の壁と、黒に近い色をした屋根瓦。小さな庭に整然と並べられたプランターには、白や黄の小さな花が咲き誇っていた。お洒落で、大きくて、綺麗で、新しくて――でも、それだけだ。何かが、決定的な何かが欠けている。
「へー、って、他に言うことはないのか?」
浩司がむっとした表情を浮かべた。新しい家を自慢したいのに俺の反応が薄かったことが不満らしい。
――何か、何か言わないと。
「綺麗だね。……でも、前の家の方がよかった」
俺は心に浮かんだ言葉を、なにも考えずそのまま唇にのせた。
「……お前って」
浩司がいつになく剣呑な雰囲気で口を開く。いらいらを押さえつけているような、怒りがうちにこもった声だった。
「お前って、相変わらずひねくれてるな。いい加減にしろよ、もう」
冷たく言い捨てて、浩司はさっさと玄関に入っていってしまう。
俺は数秒間、呆気にとられて間抜けな顔で立ち尽くした。
(……ああ、そっか)
時間が立って初めて、じわじわと脳に後悔が染みてくる。たった今言ってしまった台詞を反芻してみれば、自分自身の愚かさに吐き気がした。前の方が良かった、なんて、決して言うべきことではなかっただろうに。
(でも、本当のことだ)
以前、浩司が住んでいた家を思い出す。壁は手をつくだけで棘が刺さりそうなほど古びていた。廊下を歩けばギイギイ軋み、たまには雨漏りもする。けれど、晴れた日の縁側にはいつも、緩やかに曲がった懐かしい背中があった。日だまりに包まれた空間。今はもういないひと――。
俺は肺に溜まった重たいものを一気に吐き出すようにため息をついて、玄関の扉を押し開けた。その瞬間、白い壁に反射された蛍光灯の光が目に入って、昔の家の記憶が薄くぼかされてしまう。
「あらあら、五月君、お久しぶりね」
のれんの向こうから、恰幅のいい中年女性が愛嬌のある顔を出した。俺の叔母で、浩司の母の博美さんだ。俺はぺこりと丁寧に頭を下げた。
「浩司! なにやってんの、客間まで案内してあげなさい」
はいはい、と浩司がのれんの向こう側で億劫そうに返事する。
「ごめんね、浩司ったら、荷物も持たないで、さっさと先に帰って」
いえ、と俺は首を横に振った。浩司は別に悪いことはしていない気がする。
「今、五月君は二年生よね? 学校はどう?」
俺は顔のひきつった愛想笑いを曖昧に浮かべたが、どうにも言葉が出てこない。
「えっと……その」
何かを言おうと思えば思うほど、言葉が指先をすり抜けていくようだった。
「普通、です」
悩んだ末、それだけしか言えない。だいたい、「どう?」だなんて聞かれても、漠然としすぎていて答え方に困るのだ。
「あらあら、そうなの」
「行くぞ、五月」
また質問が来そうなところを、浩司が遮ってくれたので助かった。
「う、うん」
玄関を左に曲がり、廊下を浩司の後ろについて歩く。階段を越えてすぐのところ、右にある六条半の小さな客間が俺の滞在する部屋だった。
「お前の部屋、ここな。お袋には気をつけろよ、世間話がエンドレスに続くから」
「うん……」
重たかった荷物を肩から下ろすと、全身が一気に軽くなった。鉛のような肩のこりを感じて、つまらない見栄を張らないで荷物を持ってもらえば良かったな、と少し後悔する。
「あ、あと、トイレは廊下の左の突き当たりな。俺の部屋は二階。さっきの……玄関の正面の部屋が居間だから、荷物を置いたら来いよ」
「わ、わかった。ありがとう」
俺は浩司に言われたことを覚えようと、頭の中で繰り返した。古い家の記憶が、新しい家の記憶に上書きされていく。忘れるとはつまり、こういうことなのだろうか。こういう風にして、やがては懐かしいあの背中も、俺の中から消えていくのだろうか。
「あ、あのさ!」
廊下を歩いていこうとする浩司を、俺はとっさに呼び止めた。
「お仏壇、どこ?」
浩司は一瞬だけ明らかに戸惑った表情を浮かべる。けれどすぐに歩く方向を変えた。ついてこいということだろう。
お仏壇は奥の八畳の和室に置かれていた。俺は正面に正座して、静かに手を合わせる。空気を震わせる鐘の余韻が消えた頃、後ろにいた浩司が沈黙を破った。
「明日だな、婆さんの命日」
「……うん」
静かな部屋に座っていると、心の中まで落ち着いていく。まるで、懐かしい人が隣にいるような安心感が、知らず知らずのうちに身体を固くしていた緊張をほぐしていくのだ。
「浩司兄、さっきはその、ごめん……前の家の方が良かったなんて言って」
謝罪の言葉が、自分でも驚くほど素直に出てくる。浩司は静かにため息をつき、微かに笑ったようだった。
「謝らなくてもいいぜ。お前がああ言った理由、なんとなく分かったし。ったく、お前はバカみたいに真っ直ぐな奴だな」
さっきとは全く逆のことを言われる。振り返れば、思いのほか真剣な顔をして立っている浩司と目があった。
「でもさ。俺は、今の家の方がいいと思うぜ……例え婆さんがいなくても、な。楽しかった昔のことを懐かしむより、今をどう楽しくするか考える方が楽しいだろ?」
それはもういない人に対する裏切りではないのだろうか。婆さんや、あいつがいた昔の家より、今の家の方がいいと思うことは。そう思ったけれど、言えなかった。
俺はただ、右手の掌にぎゅっと力をこめる。無機物のように重たい人差し指が、この綺麗な家と同じくらい苛立たしかった。
ふと、廊下から美味しい匂いが漂ってきていることに気づく。居間に入れば、すでに豪勢な夕食の用意ができていた。
「うわ、すげー!」
「すげー!」
「すげー!」
浩司が上げた感嘆の声を、弟と妹が真似する。
俺は微笑ましい風景に表情を緩ませながら、博美叔母さんが引いてくれた椅子に座った。
「この人、誰ー?」
浩司の妹が俺を指差して無邪気に聞く。浩司はその手を軽く払って戒めた。
「こら、人を指差しちゃ駄目だ。従兄弟の五月お兄ちゃんだよ、前から、来るって言ってただろう」
「ふーん……?」
浩司の妹は興味津々といった様子で俺をじーっと見つめてくる。記憶が正しければ、前に会った時、彼女はまだよちよち歩きをしていた。顔を覚えられていなくても、仕方ないだろう。
「一時期は隣に住んでたんだが……お前らはまだ生まれてなかったんだっけ……? 五月お兄ちゃんはな、長いこと外国で暮らしてたんだぜ」
浩司が自分のことのように誇らしげに言った。浩司の妹は大きな瞳をきらきらと輝かせる。
「へー。じゃあ外国語を話せるの?」
「……まあ、一応」
適当に濁そうとしたところに、浩司が横やりを入れてきた。
「一応どころじゃないぜ。五年間もあっちの学校に通ってたんだから、完璧だ」
すごいすごい、と浩司の弟と妹が騒いだ。気をよくしたのか、浩司はさらに饒舌になる。
「そうだ、お前はピアノを習い始めたんだよな。わからないことがあったら、五月に聞いて教えてもらえばいい」
「五月お兄ちゃん、ピアノ上手なの?」
無邪気な瞳で見つめられて、俺は表情をひきつらせた。浩司は無神経にも、さらに鼻高々になって続ける。
「上手どころじゃない。なんたって、ピアニストになる勉強をするために外国に行ってたんだからな。こう見えても前は天才少年って呼ばれてたんだぜ」
「呼ばれて『た』の? 今は?」
長らく蓋をして閉じ込めていた感情が、胸の奥で暴れだした。
苦しい、息ができない。
忘れないと生きていけないほど激しい気持ちが俺の心臓を押し潰し、四肢をのたうち回った。
「……っ!」
やり場のない感情によって発作的に机へ拳を降り下ろしかけたその時――鈍い、音がした。例えるならば、そう、屋根に狸がいきなり落下したような。続いて、本棚をひっくり返したような騒音が頭上に降ってくる。
「な、何……?」
「ああ、しまった、そういえば窓、開けっ放しだったな」
浩司が天気の話題でも口にするかのように平然と言った。
「窓? 窓って……?」
「窓から猫が入りこんだんだよ」
――そんなレベルの物音ではなかったと思うのだが。
浩司の母、妹、弟たちは慌てた様子一つなく、顔を見合せ意味ありげに笑っている。
来るか? と浩司は俺を手招きした。軋みもしない真新しい階段を、浩司の後について上がる。
二階にはざっと見で四つほどの部屋があり、浩司は左手の一番奥、「HIROSHI」というプレートが掛かった部屋のドアを引いた。俺は少し目線より高い浩司の肩越しに部屋の中を覗きこむ。
粗雑な浩司のものらしくない、すっきり片付いた部屋だった。染みもくすみもない真っ白な壁紙が、朝一番のゲレンデみたいにまぶしい。ライトグリーンのカーペットに、明るい色をした木製のベッドと机。部屋の端には、白いカバーの掛けられた二人用のソファーセット。新しい家独特の匂いがする。
家具の通販カタログの写真がそのまま立体化したみたいな部屋の真ん中に、一人の女の子が座り込んでいた。俺と同じくらいの歳だろうか。肩の上を流れる癖のない黒髪。ふんわりとした水色のワンピースに、デニム地の上着。窓際にある本棚が倒れて、本が彼女の周りに散らばっている。
浩司の家族は全員階下にいるはずだ。いくら久しぶりでも従兄弟の存在を一人丸々忘却するほど俺はボケてない。しかし浩司の家族ではないとなると、これは一体、どういうことなのだろう。
「ったく。危ないからやめろっていつも言ってるだろうが」
浩司に呆れ顔で声をかけられて、彼女は恐る恐るといった風にゆっくりと振り返った。
「えへへ、ごめんごめん、失敗しちゃったー」
いたずらが見つかった子供みたいに――実際、その通りなのだろうけれど――彼女はぺろりと舌を出して笑う。
「失敗しちゃったじゃねえだろ、バカ……怪我はないか?」
浩司がため息混じりに言った。その動揺してなさから察するに、信じられないが、こういうことは日常茶飯事なのだろう。
「大丈夫だよ、私、運動神経だけはいいから」
「ふーん? その割には壮大に失敗したたみたいだが」
「あはは……どうしてだろうね。距離は足りてたんだけど、やっぱりスカートは動きにくい。それに、こんなところに本棚があるのが悪いと思うな」
気の抜けるような笑顔を浮かべて、彼女は決まり悪そうに頭をかいた。部屋の奥にある窓から吹きこんだ微風に、長い髪が一束、さらりと肩からすべり落ちる。
全開にされた薄緑のカーテンの向こうには、隣の家のベランダがあった。そこからこちらの部屋へは、乗り移ろうとしても足がギリギリ届かないだけの距離がある。
先ほどの物音と散らばった本、浩司とのやりとりから察するに、彼女はどうやら隣の家のベランダからこちらの部屋へと跳び移ってきたようだった。
――信じられない。
もしも失敗してこの高さから落ちれば、ただではすまないだろう。だいたい、泥棒したいとか家族に内緒で浩司に会いたいとかいうわけじゃないなら、玄関から来ればいいのだ。何が楽しくてわざわざ危険な方法をとるのか、理解に苦しむ。大方、危険なことをするスリル自体を楽しんでいるのだろうけれど。
(つまり、馬鹿な浩司の友達は、やっぱり馬鹿なんだな……)
俺は若干の疲労感を覚えながらも、一歩踏み出して床に散らばった雑誌を拾い上げる。と、不意に視線を感じて、かがんだ姿勢のまま顔をあげた。
「……」
彼女の大きな瞳がまっすぐに俺を見つめている。表情を浮かべることも感情を表に出すことも忘れて、彼女はただ見るという行為だけに集中していた。
俺は思わず目線を逸らす。
一体なんなんだろう、俺の顔に何かついているとでもいうのだろうか。
「ああ、こいつは五月っていって、俺の従弟で……」
「あのっ!」
彼女は俺を紹介しようとした浩司の言葉を勢いよく遮った。そして、覚悟を決めた強い光を瞳に宿して、しっかりとした声で言う。

「私、ずっとあなたのこと好きでした」

耳から入ってきた声を脳が言葉として理解するまでに時間がかかった。
「えっと……?」
どういうことなのだろうか、これは。なんか、あり得ない言葉が聞こえた気がする。聞き間違えだろうか? ……うん、きっとそうに違いない。
俺は何も言わずに無表情で彼女を見据えた。彼女の方も、相も変わらず真っ直ぐ俺を見返してくる。
――記憶の糸をざっと手繰ってみるが、やっぱり見覚えのない顔だ。
人の顔の良し悪しなんて分からないけれど、彼女は不細工ではないと思った。おとなしそうな子というのが第一印象だけれど、第一印象なんてほんっとうに信用ならない。
「ああ、えっと、こっちは理子だ」
沈黙してしまった俺たちを気遣ってか、浩司が思い出したように紹介してくれた。
当たり前だけど、知らない名前だ。ほんのわずかな聞き覚えすらない。
「隣の家に住んでるんだが。お前ら、知り合いだったのか?」
浩司は俺と彼女――理子の顔を交互にうかがって、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「……初対面だと思うけれど」
俺が言えば、浩司は頬の筋肉を若干ひきつらせて苦笑する。なんかその表情が無駄に爽やかで、ちょっとムカついた。
一方の理子はといえば、失望した表情でがくりと肩を落としている。あまりの落ち込みぶりに、なんだか悪いことでもしてしまったような気分になった。
「ごめん、人の名前を覚えるの、苦手で。知り合いだったっけ?」
念のために尋ねてみる。ストレートすぎて失礼だとは思うが、この場合は仕方ないだろう。
「うん」
理子はこくりと頷いた。だが、すぐに、思い直したように首を横にふる。
「……ううん」
――どっちだよ。
「あなたが覚えてないのも無理はないと思う」
その口振りから察するに、会ったことはあるようだ。
「えっと、どこで会った?」
いつ、とは訊かない。俺がこの街にいたのは、二年前のあのときだけだから。
理子はちょっと考えるような素振りを見せてから、頬を赤く染めて言った。
「……ごめんなさい。いきなり、私、何を言ってるんだろ。……ごめん! 今さっきの全部、忘れて!」
そんなこと、今さら言われても困る。忘れて、なんて言うくらいなら最初から口にしなければいいのだ。
訳のわからない恥ずかしさと苛立ちで、身体が熱くなっていく。
俺は、深く考える前に思いを口に出す人間が嫌いだ。言葉を軽々しく発することで人を傷つける危険性に思い至らない、軽薄な人間が。
「おいおい、どこで会ったかくらい言えよ。もしかしたら五月も思い出せるかもしれない」
顔を赤くしてうつむいてしまった理子に、浩司がフォローを入れる。
――思い出す? 二年前のことを?

冗談じゃない。

真っ黒な記憶に蓋をして、必死で押さえ込んで、ようやく悪夢を見ることがなくなってきたというのに。
「あの、俺」
もう行くから、と言いかけた時、理子がぶんぶんと首を横に振った。
「いい、言わない」
理子は俺の目をまっすぐに見て、柔らかく笑う。
「五月君、明日、来るんでしょう? 思い出してくれるのを待つよ、私」
――その優しい微笑みに見覚えがあるような気がして、頭がずきんと鈍く痛んだ。

夕食の時間、食卓は俺と理子の話題で持ちきりだった。バカ正真な浩司が、あったこと全部を包み隠さず、大袈裟な誇張表現を加えて話してしまったのだ。その日あったことを家族に話すだなんて、中学生はおろか高学年の小学生でもしないと思うけれど――それは俺が特殊なのだろうか。
得意気な浩司の横顔を見て、こっそりため息をついた。
「まあまあ、すごいじゃない、五月君。モテるわねー」
浩司の母さんはにこやかに喜んで、俺の皿にプチトマトを一個追加してくれる。
「いえ……あ、ありがとうございます」
それを見ていた浩司の弟はニンジンを、妹はブロッコリーをさりげなく自分の皿から俺の皿に移してきた。
(なんなんだ、こいつら)
好き嫌いするなよと浩司が苦笑しているけれど、仕方ないから全部食べてやることにする。わざわざ返すのも面倒くさい。
「でも、いいよなー本当に。理子、かわいいし、明るいし、賢いし。五月がうらやましいぜ」
浩司はわざとらしいくらい笑顔だけれど、口の端が微妙にひきつっていた。俺より年上なくせに、感情を隠すのがド下手なひとだ。どうやら浩司は理子に少なからず好意を抱いているらしい。妹や弟にまで察されてしまうのではないかと思うほど、浩司の態度は分かりやすかった。
「別に……」
俺は箸をテーブルに置いて、ため息をつく。
「俺はあの人のこと、よく知らないんだ。知らない人から一方的に好かれるのは、気持ち悪い。それに、なんか、面倒くさい」
しまった、と思った。
恐る恐る顔を上げれば、案の定、浩司がムッとした顔をしている。
――気持ち悪い、というのは本音だったのに……。
思わずそう思ってしまう自分の幼さが嫌だった。本音を言って良いときより悪いときの方が圧倒的に多いと、知らないほど子どもではない。けれど、つい何度も本音を言ってしまう自分は、どこまでも子どもだった。
「それは言いすぎだろう」
「うん、ごめん」
「分かればいい。――早く、思い出せよ?」
一瞬よぎった違和感。
ハッと目を見開いて、浩司の方を見る。
「ん? どうした?」
「……ううん、何でもない」
笑顔らしきものを浮かべて、取り繕った。浩司は何も疑問に思わなかったらしく、そうかとだけ言ってご飯をよそいに行く。
――早く、思い出せよ?
ついさっき聞いた言葉を反芻した。
一瞬、たった一瞬だけれど、「浩司は知っているのではないか」という気がしたのだ。
俺は浩司の何も言わない背中をじっと見る。
「あ、そうそう、明日もちろん暇だよな」
浩司が急に振り返って、明るい笑顔を浮かべた。
「ちょっと用があるから、つきあえよ」
用が何であるにせよ、どうせ強引につきあわされるのだろうな、と思う。浩司の無駄に爽やかな笑顔に、俺は逆らえない。というか、逆らわない。逆らっても疲れるだけだから。
「うん、いいけど、何?」
「五月、鶴賀マーケスって知ってるよな?」
質問に質問で返される。
――鶴賀マーケス。
この町では、知らない人など存在しないだろう。一年ほど前に建てられた、町で一番大きなショッピングマートだ。
俺はバスの車窓から見た景色を思い出す。海の方に立った白と黄色のひときわ大きな建物が、どんぐりの背比べをする瓦屋根の家々を見下ろしていた。ヨットの形を模しているらしく、外観はなかなかに特徴的だ。ショッピングモールというだけではなくて、地下にはバスターミナルなんかもあるらしい。この地域の商業的・交通的な中心といってもいいような場所だ。
――そして、鶴賀マーケスが「復興の証」とも呼ばれていることを、俺は知っていた。
「行ったことはないけど。結構、有名だよね」
「まあな。明日行くから、ネットで店内の地図を調べて頭に叩き込んでおけ。特に非常階段の位置とか、な」
「一体、何しに行くわけ?」
当然の疑問を、浩司は笑ってごまかしやがる。
「内緒だ。明日になったら分かるよ」
浩司が悪いことをたくらんでいるとき特有の、心から楽しそうな顔だった。
そういえば理子も確か「明日来るよね」とか何とか言っていた気がする。
「……面倒くさい」
「何か言ったか?」
「別に、なにも」
ふう、とこれ見よがしにため息をついたら、浩司はいつになく真剣な顔で言った。
「いい仲間ができるはずだ。――きっと、何もかもを面倒くさいと否定する、お前の悪癖も治るよ」
(悪癖、ねえ)
面倒くさがるのは悪いことなのだろうか。物事が全部面倒くさいと知っている分だけ、俺は自分が他人よりマシなのではないかとさえ思うのだけれど。
それは、ひねくれているのだろうか。駄目なことなのだろうか。
そう考えかけて、やめた。考えることすらも、面倒くさい。

朝の八時。俺と浩司、それから理子は鶴賀マーケスの裏口にいた。浩司の手には、おばさんお手製のお弁当――それも十数人分だ――がある。
開店時間前とあって、そこいらには猫一匹いなかった。鶴賀マーケスの裏は湾に面している。観光船の船着場、まっすぐに伸びた桟橋、そして飽きもせずに寄せては返す波。それらの景色は二年前の記憶と唯一重なって、どうしてか俺に安心感を与えてくれた。
浩司と理子は電気の通っていない自動ドアの前に立って、俺の知らない人たちの噂話を、実に楽しそうに話している。家の前からずっと二人で会話しているので、俺は無言でついてくるしかなかった。まあ、話を振られても面倒くさいだけだから、仲間はずれにされることは構わない。むしろ変に気をつかわなくてすんで助かるくらいだ。
「というか、浩司兄、これ何?」
つい気になって、二人の会話が途切れた瞬間に質問を繰り出す。
「見てのとおり、原動機つき自転車だ」
浩司は家からここまで、いわゆる原チャを押してきていた。
「免許、この前とったんだ。いいだろー? いいだろー? うらやましいだろー?」
だからって、わざわざ押してまで持ってくる意味がわからない。どうやら愛車を自慢したくて仕方ないらしい。
「浩司兄の高校って、原チャ通学って許されてるっけ?」
「さーなー。校則って見たことないんだ」
不審気な視線を送る俺に、浩司兄は軽く笑いながら両手を振った。
「冗談だよ、冗談。今のバイト、時給はいいけど遠いからってわざわざ母さんが買ってくれたんだ」
「……」
俺は何も言えずに黙り込む。
浩司の家はそんなに経済的に裕福ではなかった。
「あの日」、浩司の家は全壊し、一家を支えていた浩司の父は死んでしまった。
残されたのは母と幼い妹弟、そして家のローン。浩司は打ち込んでいた部活動をやめて、バイトをいくつもかけもちするようになったと聞いている。
もっとも、浩司の母の仕事が成功したおかげで、今では暮らしに困ることはなくなったというが。
「バイトやってるんだ。部活動は再開しないわけ?」
「一度やめちまったんだから、いまさらついていけねー。それに、まあ、部活だけが人生じゃないからな」
浩司は少しかげりのある表情で言った。
「ふーん。ところでバイトって校則で許可されてるわけ?」
「さあ?」
浩司は首をかしげる。校則を確認したことがないというのもあながち冗談ではないだろう。
「まあ、校則なんて上手くかいくぐるための網みたいなものだよ。いくらでも穴はあいてるから」
「そうだな。現に俺もバイトしてるし、原チャで通学してるし」
「……本当に?」
そんな調子でくだらないおしゃべりをしていたら、時間の進む速さに驚いた。
開店時間になり、自動ドアの向こうに鍵を持った店員さんが現れる。自動ドアは音もなく開いて、俺たちを迎え入れてくれた。まだ暖房は効いていないはずなのに、空気が暖かいような錯覚を受ける。
「浩司君、理子ちゃん、今日もやるのかい?」
「はい、お世話になります」
店員さんは人見知りらしく、親しげな笑みを浩司たちに向けた。そして俺の姿を認めて、不思議そうに首をひねる。
「えっと、そっちの子は?」
「五月っていって、俺の従兄弟です。『今は』遠くに住んでいて、春休みだから帰ってきたんです」
「ああ……そういえば今日だったね……よろしく、五月君」
面倒だなと思いつつ、俺は愛想笑いを浮かべて店員さんに頭を下げた。

店員さんと別れ、がらんと広い店内を三人並んで歩いていく。地域の真ん中にある大型ショッピングモールという割には人が少ないけれど、開店してすぐという時間を考えれば仕方ないのかもしれなかった。というか、人がいないのはここが裏口側だからだろうか。
白を基調とした内装に、広い通路。中心部は吹き抜けになっていて、その真ん中には噴水がある。最上階はホールになっていて、そこからの夜景は割と有名だった。
エレベーターを待っているとき、気まぐれに浩司が口を開く。
「あの人は、『前』からいるんだよ」
まあ、そうだろうな、と思った。やけに親しげな様子といい、『今日』という言い方といい。
「そう。『前』からいる人って、多いわけ?」
「どうかなあ、ここで働いている人は旧商店街の人がほとんどだけど。学校は結構『後』から来た人も多いよ。半々くらいかな」
「ふーん」
やっぱり、『前』からいる人と『後』から来た人の間には、壁があるんだろうか?
俺にとっては、かなりどうでもいいけど。
「じゃあ、今日来る人は?」
気になったので聞いてみた。弁当の量からして、まさか三人だけでショッピングするわけではないだろう。
「全員、『前』からいる。というか、いた」
エレベーターに乗ってすぐ、浩司は迷わず最上階のボタンを押した。
「何かしら、大事なものをあの時に失ったやつばっかりだよ」
それは、なんというか、とても。
――面倒くさいな。
エレベーターの到着を知らせるベルが鳴り、扉がゆっくりと開く。最上階は、ただっぴろいだけの空間だった。
端の方に、簡易椅子が詰められたラック。そして、真ん中には――大きなグランドピアノ。黒々とした光沢を持つそれは、静かな空間に確かな存在感をもってたたずんでいた。
「あれ……」
「ピアノだね」
理子が、いやに弾んだ声で笑う。
俺は無言でピアノを見て、そして目を逸らした。頭が痛い。思い出したくないと、本能が拒絶していた。
「今日って、ほら、『あの日』でしょ? だからね、夕方から、ここで追悼式典があるんだよ」
「俺たち――もうすぐもっと来ると思うけど。『前』からいた奴らみんなで、式典の最後に合唱をするんだ」
それを見せるために、俺を呼んだのだろうか?
くだらない。こんなことなら仮病でも使えばよかった、と思った。それに、あながち仮病じゃない。俺はきっと病気にかかっている。二年前の、あの日から。
「ふーん、そう。頑張れ」
俺は関心がないのを悟られるのもかまわず、淡々と言った。
「うん、頑張る! 私ね、合唱の伴奏をするんだよ!」
理子は嬉しそうに、幸せそうに、微笑む。
宙を舞うタンポポの綿毛を思わせるような、そんな笑顔だった。
「ピアノ、練習したの。習いには行けなかったんだけどね、家を出たお姉ちゃんに教えてもらって」
どうしても言わないと気がすまないという様子だったから、仕方なくうなずきながら聞いてやる。
「緊張するけど、嬉しいな、本当に。誰よりも、五月君に聞いてもらいたい! 私、結構うまく弾けるようになったんだよ。――もちろん、五月君には敵わないと思うけれど」
(ああ、そういうことか)
なんだ、分かってしまえば簡単なこと。
――私、ずっとあなたのこと、好きでした。
あれは。俺のことが好きなんじゃなくて、俺が奏でていたピアノの音色が好きってことだったんだ。
どこで聞いたのかは知らない。でも、確かこの街の市民ホールで行われたコンサートで優勝したこともあった。
「あ、理子、これ。頼まれてたコンクールの時の」
浩司が理子にカバンから出したCDを手渡す。理子は舞い上がりそうなほどの笑顔で、頭にキンキン響くレベルの高い声を出した。
「きゃー、嬉しい! 浩司にぃ大好き! うわー、絶対聴く! 毎日! 本当にありがとう!」
「喜んでもらえて嬉しいぞ」
何それ? と聞きかけたとき、エレベーターのベルが鳴る。扉の向こうから現れたのは、数人の子どもたちだった。
「あ、浩司にぃと理子ねぇだー」
「お久しぶり。元気にしてたっ?」
「わ、すごいっ! お弁当、豪華だね」
「卵焼きだー」
子どもたちが好き勝手に喋るものだから、ホールの中は一気に騒がしくなる。
「お弁当はお昼まで待てよな。憲一と扶美はまだかー?」
「下で見たよ。もう来ると思う」
「オッケー、じゃあ、もう始めようか。まだの奴が来たら、その都度開始を告げるから」
話している途中にエレベーターのドアが開き、また子どもが増えた。見たところ浩司が最年長で、その次に俺と理子が続くらしい。
「浩司兄、これ、どういう……?」
俺の質問に、浩司はようやく答えてくれた。
「俺たちはこうして数ヶ月に一回集まって、鬼ごっこをしているんだ」
「鬼ごっこ?」
「そう。鶴賀マーケスの全体がフィールドで、一ゲームに半日の半分かけた、壮大な遊びだ」
浩司がとても楽しげに言うのと反比例して、俺の気は重くなっていく。
「ちなみにルールは三つ。一つ目、鶴賀マーケスの人には決して迷惑をかけないこと。二つ目、進行役である俺の言うことは必ず聞くこと。三つ目、ゲーム終了時に鬼だった人間は、最後に自分にタッチした人間の言うことを何でも一つ聞くこと。できる範囲でなら、だけどな」
「はあ」
「質問とか、感想とかは?」
「質問は、いっぱいあるけど言わない。感想は、とりあえず今すぐ帰りたい。それだけ」
相変わらずつれないやつだなあ、と浩司は爽やかに笑った。
「とりあえず五月は理子と一緒に行動して、細かいルールは説明してもらえ。いいな?」
はーい、と俺ではなく理子が元気に返事をする。
「ちょっと待った、俺、やるって言ってないよ、浩司兄」
「でもやらないとも言ってないだろー?」
「やらない」
「聞こえないなー。何も聞こえないなー」
浩司に何を言っても無駄だった。逆らった分、余計な体力を消耗してしまった気がする。その証拠に、全身の力が一気に抜けた。
(理不尽だ……すっごく理不尽だ……)
そう思っても、浩司の辞書に理不尽という文字はないだろう、きっと。
浩司はカバンから出したトランプを数枚抜き出して、扇形に広げる。俺と理子以外の子どもたちは、そのカードを一枚ずつ引いた。
「うわ、鬼かー」
ジョーカーを引いてしまった子が、不満そうに口を尖らせる。
浩司は子どもたちをぐるりと見渡して、満面の笑顔を浮かべた。
「じゃあ、第一ゲームは今からスタート! 十二時ちょうど、鐘が鳴るころに最上階へ集合だーっ!」
張りのある力強い声で浩司が叫ぶと同時に、ジョーカーを引いた一人以外の子どもたちはダッと走り始める。きゃー、と楽しげな悲鳴を上げながら。
俺は意味が分からず、ただただ立ち尽くすだけだった。
「ほら、いくよっ!」
理子が俺の手をぐいと引く。そのままだとこけてしまうので、俺は仕方なく走りだした。
ホールを抜け、映画館にあるような重たい扉を開く。エレベーターホールと逆の方には、吹き抜けがあった。一階……もしくは地下の、噴水があるアトリウムが一望できる。ここから見えるのが、鶴賀マーケスの中心部だ。各階の売り場が少しだけ見えるけれど、まだまだ人の姿はまばらだった。子どもたちは、行儀よく一列になってスカレーターに乗る。俺と理子もその後ろに続いた。
「鬼ごっこは、とりあえず鬼から逃げるゲームなの。鬼はさっきの子ね。五分後にスタートだから、それまでに距離を稼がなきゃ!」
「ああ……うん」
俺は帰ろうとじたばた抵抗するのを諦めることにした。疲れるし。まあ、ろくに抵抗もしてないけれども。
「……というか、ごめん」
「ん? 何?」
俺は理子にちょっとだけ頭を下げた。
「一緒に行動するって……俺、すごく運動神経が悪い」
自慢じゃないが、運動はてんで苦手だ。二年前までは一日の三分の一以上を座って過ごしていた。『あの日』以降も、ろくなスポーツをした覚えがない。
もしも俺が足を引っ張って理子が負けてしまったら、それは非常に申し訳ない気がした。
「あはは、構わないよ。人のいない非常階段以外は、鶴賀マーケスに迷惑をかけないよう、絶対に走っちゃいけないルールだからね。それに……浩司にぃにああ言われた以上、私はちゃんと五月君を案内するから。迷子にならないように気をつけて。質問があったらなんでも聞いてね」
浩司に言われたから。その言い方は、やけに言い訳めいていた気がした。
「うん、ありがとう」
自分にしてはやけに素直な感謝の言葉が口から出てくる。理子は「いいよ別に」と言って、照れた様子でうつむいてしまった。
「……私」
「ん?」
聞き返せば、理子は顔をあげてふわりと笑う。
「私、すっごく幸せだなあ」
ふーん。よかったね。そう返した相槌は、なんだか凍りそうなほど冷たい色をはらんでいた。
一つ下のフロアへが段々近づいてくる。幾人かの子どもは、売り場の方へと散っていった。けれども大部分はさらに下へ向かうエスカレーターに乗る。
「どうする? 何階へ行く? 五月君が決めていいよ」
「じゃあ、一階」
適当に言った。まあ、鬼が最上階からスタートするなら、できるだけ遠ざかったほうがいいだろう。
理子は無言でうなずいて、真剣な顔で階下に目を向けた。店の配置を思い返しているのだろうか。昨日、浩司が店の地図を覚えろと言っていた意味が分かった。知らない地でする鬼ごっこほど不利なものはない。言われたとおりにしておけばよかったかもしれないと、俺は少し後悔した。
通路を歩いていると、店員さんが理子に元気よく声をかけてくる。
「ああ、理子ちゃん、今日も元気そうだね!」
「村田さんは、今日も若いですねっ」
「またまたー」
「おお、理子ちゃんじゃないか。今は鬼ごっこ中かい?」
「うん、今日こそは勝者になる! 佐谷さんも頑張って!」
「理子ちゃんじゃあないか。お隣の坊やはボーイフレンドかい?」
「えへへー。緒川のおじいちゃんにはそう見えますか? もうすぐそうなるかもしれません!」
「ほっほっほ。そりゃあいい」
何度も人に声をかけられて、そのたびに理子はまぶしいばかりの笑顔で返事した。
隣にいるだけで、目が回る。
もしかしたら――もしかしなくても、俺が普段一日に話す人の数より、この十分あまりで理子が話した人の数の方が多いようだった。
浩司のことも社交性があると思っていたけれど、理子ほどではないだろう。
理子の明るさは、天性のものだと思った。ヒマワリみたいな明るさが、周りにいる全ての人をひきつけている。
――俺は、理子が嫌いだ。
理由は分からないけれど、隣にいたくないと強く思った。
もしかして俺は、理子のことを。
……妬んで、いるのだろうか?
「あのさ」
「えっ?」
理子はハッとした顔でこちらを見てくる。何かを考えていたらしいのにそれを中断させてしまって、なんだか悪いような気がした。
「さっきのCDって何?」
俺はずっと気になっていたことを問う。曖昧に笑って、理子は言葉を濁した。
「その……えっと……ピアノ曲だよ。浩司にぃに頼んで、もらっちゃった」
「いつの? 誰の?」
「五月君の。市民ホールでの発表会の時の」
ふう、と俺は肺にある空気を全部吐き出す勢いでため息をつく。
「……そんなものが残っていたんだ」
できることなら、今すぐに、焼却処分してしまいたかった。ついでに、もしも記憶をなくせる消しゴムがあるなら、あの発表会にいた人間全員の記憶を消去してやりたい。
ピンと張り詰めた空気が、脳裏によみがえった。想像するだけで、今あのホールにいるような臨場感を覚える。俺の中で、色あせない、思い出。
――あんたと一緒になんか生まれてこなければよかった。
悲しみに震える声を、嫉妬に湿った瞳を、憎しみをこめた声を。俺は、一日たりとも忘れられたことはなかった。
「すごいよね。五月君、五歳で優勝したんだよね。小学校六年生まで出られる大会だったんでしょう? 天才だねー」
「天才って言葉、嫌いだ」
俺は一瞬、ハッとして口をつぐむ。考えるよりも先に、言葉が出てしまったのだ。そういうときの言葉は、間違いなく本音。
「そうだよね。努力、したんだもんね」
理子はぽつりとこぼすように言う。
俺の気持ちも努力も何も知らない奴の言葉なのに、なんでだろう、嬉しいと思ってしまった。
「わー、五月君五月君、もやしが安いよー!」
吹き抜けに身を乗り出して下の階を見て、理子がはしゃいだ声を上げる。なんというか、値札が見える視力のよさにびっくりした。
「あ、これ可愛いー。お兄ちゃんへのお土産に、買っていこうかなっ」
理子は上等な和菓子屋さんの前で足を止めて、ガラスのショーウィンドウの中を覗き込む。
「お兄さん、いたんだ」
「意外?」
「ううん、全然」
なんとなく、理子は末っ子オーラが出ていると思った。甘やかされて、愛されて育った、そんな雰囲気が黙っていてもにじみ出ている。
「私ね、お兄ちゃんが、二人いるの。」
「ふーん」
「一番上のお兄ちゃんは本当に頭が良くてね、将来は科学者になるんだって。生徒会長をやっていて、でも運動もできるんだよ」
「へー」
「もう一人のお兄ちゃんは運動神経がいいのー。よく理子を自転車の後ろに乗せてくれて、近所の公園のテニスコートへ行ったんだー」
段々と理子のおしゃべりは過熱して、ついには俺の相槌すら聞いてくれなくなった。
「……それでね、理子の宿題を手伝ってくれるんだ。お父さんとお母さん、お兄ちゃんたちのことすっごく自慢に思っているの。二人共、優しくて、格好よくて、大好き!」
「えっと、そろそろ行かない?」
いい加減うっとうしくなってきて、口をはさむ。理子は朗らかな笑顔のまま、ごめんねと謝った。
「ね、どの金平糖がいいかな」
「どれでもいいと思うけど」
そもそもなぜ金平糖なのか。好物なのだろうか。疑問に思うが、聞いたらまた長い話が始まりそうなので、やめておく。
「うーん、どうしよう?」
散々迷った挙句に、理子は水色と薄緑色と白の混ざった金平糖の袋を指差して、店員さんに注文した。
「でも、まあ、これでいっか。えへへ、私が選んだものなら、お兄ちゃんたちは何だって喜んでくれるから」
満面の笑顔で言う理子に、少し胸がむかむかする。理子は知らないようだ。この世にいるのは人の幸せを素直に喜べる人間だけじゃないってこと。むしろ、人の幸せを妬み人の不幸を楽しむひとの方が多いということを。それくらい、理子はずっと幸せだったんだろう。
不幸を知らない馬鹿は、幸福だ。無知なままで終える人生は、さぞかし幸せなんだろうな――なんて、ぼんやりと思った。
「このお店、素敵だね。今度、お父さんとお母さんと一緒に来れたらよかったのにな」
理子はことあるごとにお父さん、お母さん、お兄ちゃんと口にする。最後にそういう風に家族の名を呼んだのはいつだっただろうか――そう考えてしまって、俺の気分は憂鬱に沈んでいった。
「あー、早くお父さんたちに、今日のこと話したいな。ずっと好きだった五月君とこうして隣にいられるなんて、夢みているみたい。私、幸せだなあ」
そう言って微笑みかけてくる理子を見ているのは、本当に不愉快だ。大体、どうして俺のことを好いているのか、分からない。自分で言うのもなんだけれど、自分は人に好かれるような人間ではないのだ。
片割れを精神的に殺して、自分のせいではないと言い訳して、両親にもてあまされている俺は。
「あ。私、話しすぎちゃって、ごめんね。五月君のこと、聞きたいな。兄弟とか、いるの?」
「いない」
かすれた声で答える。間違いではない。兄弟なんかいないんだ。――今は。
「そっかー」
ふと、理子の笑顔に影が差したような気がした。けれど、そう見えたのは一瞬だけで、すぐにもとの明るい笑顔に戻る。
「ああ、そうだ、忘れてた。沙彩ちゃんにもお土産、何か買わなきゃ!」
「沙彩?」
「うん、立田沙彩ちゃんっていってね、私の大親友なの」
ずきん、と。
頭の一部分が痛む。
立田沙彩という名を、聞いたことがあるような気がした。
何か、とても。
嫌なところで。
「……何」
理子と、真正面から視線が合う。
「ううん、何でもないよ? 五月君、変なのー」
その視線が探るようなものだった気がして、奇妙な感覚に陥った。けれど、能天気な理子の顔を見て、それはないなと思いなおす。
それ以降はずっと、売り物を見てはしゃぐ理子にただ後ろからついていくだけの時間が過ぎていった。
理子の表情は、万華鏡のように次々と移り変わる。幸せそうな表情に、こんなにもたくさんの種類があったのか。
「私、この鬼ごっこが大好き。だから、今すっごく幸せ。五月君も好きになれたらいいね。この鬼ごっこも、みんなのことも」
「好きじゃないように見える?」
「好きなの?」
「いや、全然。というか、あんまり知らないし」
理子はくすくすと嫌味のない笑い声をあげる。
「素直だね。……憧れるよ」
「なんで? あんたもかなり素直な人間だと思うけど?」
心に浮かんだ言葉が、考えるというプロセスを経ずにそのまま口から出てきた。ぽんぽんと話す理子に感化されてしまった気がする。
「そう見えるんだ……」
「どういうこと?」
「ううん、なんでもないよ。さあさ、テラスにでも行こっか。景色がとってもいいんだよ」
弾むような声で笑う理子の背中で、長い髪が揺れる。
「幸せだなあ。私。ずっと憧れて、大好きだった人とこうして一緒にいられて。夢みたい。本当にありがとうね」
「……そんな」
そんな、こと。
そんなに幸せそうな顔で感謝されても困ると思った。
だって、俺は。
俺は決して、一緒にいるだけで誰かを幸せにできるような、ありがたい人間じゃない。
「ほら、ここよ」
一階の一番北の階段を上がれば、そこには半二階がある。そこそこ広いフロアに椅子とテーブルがいくつも置かれ、その向こうは一面ガラス張りだった。
「……うわ」
思わず、感嘆の声が漏れる。窓ガラスの向こうから瞳に飛び込んできたのは、際限のない、青だった。
「いい景色だな」
短い間とはいえこの町に住んでいたのに、ろくに海を見たりしなかった。それはもったいないことだったのかもしれないと、今になって思う。
「素敵だよね。ここ、浩司兄も大好きでね、たまにアイスをおごってくれて、それを食べながら景色を眺めたりするんだ」
理子の無邪気な横顔を見て、少し浩司を哀れに思った。きっとこの様子だと、浩司の想いには微塵も気づいていないのだろう。
「五月君は、浩司兄と仲いいんだねー。この町にも、浩司兄に誘われてきたんでしょ」
「まあ、一応。仲は従兄弟として別に普通だと思うけれど。……仲いいのは、そっちだと思う」
「わ、私と浩司兄? うーん、そうかな。この鬼ごっこに呼ばれたのがきっかけで知り合ったんだよ。浩司兄は優しいし、大人っぽいし、格好いいよねー。なんていうか、きっと辛い思いをしたからだろうけれど、あの歳で人間ができているよね。私は好きだな。尊敬してる」
そういうことを臆面もなく言える理子とは、一生分かり合えない気がする。
「……浩司兄もあんたのこと好きだと思うけど」
口の中でつぶやいたつもりだが、理子にはばっちり聞き取られてしまった。
「うーん、そうだね。私もそんな気がしてた」
理子は、困ったね、とまったく困っていない顔で言う。気づいていたらしい。理子は俺が思っていたほど馬鹿ではないようだ。
「でも、私が一番好きなのは五月君なんだよ」
俺は急に頭が痛むのを感じる。
「私さ、この町に感謝している。だって、五月君に会えたから」
フロアの窓越しに遠くを見つめて、理子は微笑んだ。柔らかなまなざしの先に、一体何が見えているのだろう。
「たくさんのものをくれた。この町に生まれて、本当によかった。きっとそれは、私の人生で一番の幸運だったんだ」
「……俺はそんな風には絶対に思えないけどな」
「そう?」
「うん、もっといいどこか別の場所で、もっといいなにか別の自分として生まれていたら、もっときっといい人生が送れていたはずだって、いつも思う」
あははと理子は笑う。まるで五月の言ったことが単なる軽い冗談だとでも言うように。
「でも、その場合、今ここにいる五月君は五月君じゃなかったと思うよ?」
「それでもいいっていうか、そっちの方がいいよ」
今ここにいる自分が、どうしようもなく嫌だ。
かけがえのないひとを傷つけて、たくさんの顔も知らないひとの夢を奪って、そのくせ自分は何者にもなれずにここにいる。
こうして、何もできずに、何をすればいいのかも分からずに、ただ立っている。
「あはは、五月君、ちょっと黙った方がいいよ。私、いい加減に怒るよ?」
可愛い顔で明るく笑って、理子はさりげなく大胆なことを言った。
「五月君が五月君を嫌いだろうが、なんだろうが、構わないけどさ。私の前で、私の好きな人を否定しないでくれるかな?」
笑顔を前に、何も言えなくなる。真っ暗な絶望感が、俺の目の前を覆った。
――ああ、こいつの目には、「今」の俺は映らないんだ。
「ちょっと暑いね。外、行こうか」
明るく気の抜けるような声に逆らえず、俺はガラスの扉を押し開ける。
野外のテラスには人っ子一人いなかった。理子の長い髪が踊って、潮風の激しさを訴える。外の空気は少し肌寒く感じた。
「この町は変わったね。そう思わない?」
「……うん。まあ、久しぶりだったから驚いた」
俺の知っている鶴賀町はただの片田舎だった。三方の山に囲まれて、海に蓋をされた、出口のない狭い町。けれど、それがたった数年で県北部の中心となった。
全部がゼロになって、まっさらな土地に都市計画を自由に描けたのがよかったらしい。そういう意味では、とてもたくましい町だ。
「寂しいな」
「……うん」
理子が静かな笑顔でうなずく。同意を得られるとは思っていなかったので、正直なところ、少し驚いた。
「変わっていくのは、寂しいね」
理子は単純で明るいだけのやつかと思っていたが、どうもそうではないような気もした。
ふとした瞬間にみせる表情が、寂しげだったり、憂いを帯びていたり、かと思えばどろどろとした暗い感情が端にのぞいていたりする。
「でも、変わらないわけにはいかないよね。だから同じ変わるのでも強くならなくちゃって思うの。きっと、親友も私が強い私でいることを望んでくれているから」
「……親友か」
「うん、親友。沙彩ちゃんは私の親友――だと思っていたのは、私だけかもしれないけどね」
そんな弱気なことを理子が言うとは思わなかった。迷惑がられても親友だと明るく言い張るのが、理子には合ってる。
「沙彩ちゃんは大人しくて優しくて、とても女の子らしい子だったよ。まるっきり私と正反対だよねえ。それでも小さい頃からずっと一緒にいたの。今にして思うと不思議かも」
理子は両手を広げて風に身をさらし、吹っ切れたような顔で微笑んだ。
「結局、私はちっともあの子のいい友達なんかじゃなかったんだと思うんだ」
俺は何を言っていいかわからなくて戸惑う。
俺には親友というものが何なのか分からなかった。だいたい、小さい頃から知っているひとなんか家族以外には一人もいない。しいていえば浩司くらいのものだが、ここ数年間疎遠だったせいで、会話をするのもぎこちない。それに浩司とはどちらかといえば友達というより兄と弟の関係に近い気がする。
「でもまあ、大好きだったってことは確かかな。それを言葉にも行動にもできずに、あの子はいなくなっちゃったけど」
いなくなった。
それはどういうことだろうと考えて、俺の頭は一つの解答に行き着く。浩司兄の言っていた言葉がリフレインした。
――何かしら、大事なものをあの時に失ったやつばっかりだよ。
理子が失った大事なものは、親友だった。そういうことなのだろう。
「ところでさ。五月君は、何を失ったの?」
理子が相変わらずの明るい笑顔で、ナイフのような言葉を放つ。
「この鬼ごっこに参加する人はみんな、話さなきゃならない決まりだよ」
「そんな決まり、誰が」
「だって、話さなくちゃ、参加資格が確認できないでしょう? 『大事なものをあの時に失った』。それがこの鬼ごっこに参加する条件。ね、話してみなよ。気が軽くなるかもしれないよ?」
浩司、という答えが返ってこなかった時点で、理子の言っていることは嘘だ。それくらい、直感的にわかる。
「嫌だ……笑って話せるほど軽いものじゃない」
「そうかな? この世の中、大抵のことが笑って話せることばかりだと思うよ? だって」
理子はそこで一旦言葉を切った。
「だって、あの日のことはもう過去のことだから」
湾内一杯に広がる、穏やかな水面を見渡す。細波は青い絨毯の表面に浮かぶ模様みたいだ。
「過去のことって変えられないじゃん? なら暗い顔で話しても明るい顔で話しても一緒なんだからさ、せめて明るく笑って話そうよ」
「一緒なら、暗い顔で話したって構わないだろう」
理子の言葉をばっさりと切り捨てる。心の奥が引っかかれるようだった。
きっと俺は心のどこかで、あの日より以前の出来事をまだ変えられるような気でいる。
「そう、自由だね。でも五月君自身はそれでいいの? 私さ、五月君のこと好きだって言ったよね。できたら、少しでも力になりたいの」
柔らかな笑顔を浮かべて、理子は同じことを繰り返した。
「だから、ね? 話してみてよ。きっと気が軽くなる」
いらいらする。胸の奥に黒くて重たい泥のようなものが溜まって、息苦しくて仕方なかった。
「言いたくないって、言ってるだろう」
「でも、言いたくないのは今だけかも! そりゃあ嫌な記憶だから最初は抵抗あるかもしれないけれど、きっと話してよかったって思うから!」
「……だから」
「ね! 一人で抱えているのって辛いんだから」
「別にそんなこと」
「あるよ。だって五月君、昨日も今日もずーっとしんどそうだよ? 両肩に十キロの錘をつけてるみたい」
まっすぐな瞳に見据えられて、俺はすっと肺が縮むのを感じる。
「そんな、こと……」
「あるよ。でもさ、それ、わざわざ自分から背負ってない?」
「は?」
「自分から重荷を背負って――というか、背負ってますって顔してるだけよね。それで、他人に同情してもらいたいっていうか、うまくいえないけれど、そんな感じだよね」
「同情してもらいたいとか、別に思ってないんだけど」
「うん……そうかも。周りの人にどうしてほしいのかはわかんない。けど、背負ってますって顔、してるでしょ?」
目の前に作った透明な壁を理子は無遠慮にも破壊し、踏みにじる。
「ねえ、五月君。そんなに暗い顔してないで、前を見ようよ? 下を向いていたら、素敵なものを見逃してしまうかもしれないよ」
理子が見ているのはきっと、亀裂の向こう側にいる過去の俺。――そんなの、虚像にすぎないのに。
「前を見て、どうなる? 俺のせいで誰かが不幸になるかもしれないと思ったら、何もかも、やる気が起きないんだ。面倒くさいんだよ」
「五月君のせいで誰かが不幸になる? ……じゃあさ、五月君が不幸だったら、その代わりに誰かが幸せになれるの?」
「それは」
言葉に詰まった。
「違うでしょ? ねっ? 五月君は賢すぎるせいで、考えすぎなんだと思うよ。たまには私みたいに馬鹿になって、もっと気楽に考えればいいんだよ」
当たり前のようにそう言って、理子は無邪気に微笑んだ。
「「あの日」から何があったのかは知らないけれど、大丈夫。五月君は歩いていけるよ。だって」
理子はカバンにしまってあったあのCDを取り出す。陽の光の下にそれをかざして、まぶしそうに微笑んだ。
「だって、五月君の中には、とても素敵な音楽が流れている。そうでしょ? その音色を知って元気になれた、私みたいな人間もいるんだから」
(だから、何なんだ?)
そんな風にしか思えない自分が、嫌いで。でも、どうしようもなくて。
数秒後、形にできない感情があふれ出した。
ただ。
笑顔以外の表情を浮かべる理子を見たいと。
そう、発作みたいに思ったんだ。
「黙れッ!」
鋭く叫び、理子の持っているCDへ手を伸ばし、無理やり取った。そしてそれをぐっと握り、力をこめて振りかぶる。理子が必死に止めようとしているのがわかったけれど、構うことなどなかった。
空気が切れる音がするくらい速く腕を振る。俺の手から離れたCDは青空に吸い込まれるみたいにふわりと浮かび――そして、綺麗な放物線を描いて落ちていった。鈍い音がして水しぶきがあがり、けれどもすぐに波で打ち消される。
「……ッ!」
理子が声にならない悲鳴を上げ、フェンスから身を乗り出した。どうにかしてCDがどこに落ちたのか確認しようとするみたいに。
「どうして?」
「どうしてって。あの日以前の俺は、もういないんだよ」
俺は右手を広げてじっと見つめる。
力を入れても――入れようとしても入らない人差し指。
あの日の少し後、神経が切れていると医者に言われた。もう一生、治ることはないそうだ。
そのことを知らされた瞬間、俺は自分が生きてきた世界から切り離されておいていかれるのを痛いくらいに感じた。
「人差し指が動かないからさ、あの日以来。俺は前のようにピアノは弾けないよ。一生。こうなって何もかも変わったよ。だからあの日より前の俺と今の俺は別人だ」
理子は唇をかみ締めて、今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。
「お前はいいよな。仲のいい両親がいて、優しい兄弟がいて。友達にだって恵まれてる。ずっと、周りの人に守られて生きてきたんだろ、どうせ」
目の前の人間を傷つける言葉が次から次へと出てきた。
「本当に不幸な人間の気持ちなんて、これっぽっちもわからないくせに。わかったようなことを言うなよ。人の痛みも苦しみも、何にも知らないくせに。お前を見ているといらいらするんだよ」
俺は理子をけなすことで、自分を正当化しようとしている。自分を正当化することで、罪悪感を打ち消そうとしている。
「知ってたよ」
「は?」
「私、五月君の指のこと、知っていたよ! そのくらい、調べればすぐにわかったもの」
理子の叫びに、今度は俺が驚く番だった。
知っていて、なのに俺のことを好きだと言った。理子が憧れた音色をもう決して生み出せない俺のことを。
「なら、どうして俺に構うんだ? もう俺はピアノは弾けない。あんたが憧れた存在じゃないんだ」
「ピアノがうまい人はいっぱいいるよ。でも、あの日、あの場所で、私に弾いて聞かせてくれたのは、他の誰かじゃない、辻村五月君なの。だから私は五月君のことが好き。ピアノが弾けなくなったからって、そんなの全然関係ない。あなたはいつまでも、私の憧れのピアニストであり続けるんだよ。だから」
理子の頬を透明なしずくが伝っていく。
「だから……あの日の五月君を、否定しないでよ……ッ!」
心があげる悲鳴のような声だった。
理子の中で「憧れのピアニスト」の存在がどれほど大きいか思い知らされる。それと同時に、胸が締め付けられるように痛かった。
今ここにいる俺は、理子の憧れたあの日より前の俺とは全然違う。理子の憧れのピアニストは、もうどこにもいない。この世界のどこを探しても、いないのだ。
(でも)
否定しないでと理子は言った。その言葉こそが、今ここにいる俺のことを否定している。
俺が言葉を次ぐ前に、理子は長い髪を宙に躍らせた。フェンスに片手がまっすぐに置かれて、羽が生えているように軽やかに、理子の身体はふわりと浮かぶ。そうして、地面から四、五メートルのところにあるテラスから、理子は飛び降りてしまった。
理子の姿が完全に消えてから数秒間、俺は呆然と立ち尽くす。あまりに突然のことで、何が起こったのかわからなかったのだ。
慌ててフェンスに駆け寄り、下を見る。真下はアスファルトの道路で、鶴賀マーケスの裏口だ。すぐ傍に海が迫っていて、釣り人以外はあまりこのあたりをうろつかないだろう。現に今も、理子の他には猫の子一匹いない。だから俺はすぐに理子の姿を視界に捉えることができた。
「お前……ッ!」
理子は道路を渡り、防波堤によじ登っているところだった。周りのことなど眼中にない様子で、理子は躊躇なく海に入っていく。白い飛沫は、今の空に浮かぶ入道雲ど同じ色をしていた。
「待てよ!」
思わずフェンスから身を乗り出すが、その高さに鳥肌がたつ。下はコンクリートだから、打ち所が悪ければ死ぬかもしれなかった。こんなところから一秒たりとも躊躇せずに飛び降りた理子は、勇敢を通り越して馬鹿だ。大馬鹿だ。周りが見えていないにもほどがある。今、彼女の目に映るのは、ただただ、あのCDだけだった。
(なんで……なんで、あんなもののために……っ)
怒りが鼓動を加速させる。次の瞬間、俺は走り出していた。テラスの端についた螺旋階段を駆け下りて、左右も見ずに道路を横断する。そして、理子と同じように防波堤によじ登った。海に身をさらせば,波風の涼しさが心地いい。けれどそれを感じる間もなく、足を踏み出す。コンクリートを蹴って、海の中に身を投げ出した。もっと遠くへ跳べると思ったのに、重力は無慈悲に俺の身体を引っ張る。鈍い音と共に上がった水しぶきが、俺を一瞬だけ包み込んだ。
水深は意外に深くて、胸の辺りまで水がきた。手で波をかき分けて、俺は理子の方を目指す。服がダンベルのように重たくて、下へ、後ろへ、身体が引かれるようだった。
「やめろ……待てよ……」
理子は俺の方を振りかえりもせずに、水面下へと姿を消す。もう二度と上がってこないのではないか――そんな不吉な考えを、ぶんぶんと首を振って否定した。
もぐろうとして、躊躇する。海はあまりにも深い色をしていた。テラスから見ていたときよりも、もっとずっと青くて、透明度が低かったのだ。
――怖い……。
もうこのまま動けなくなりそうで、俺は立ちすくむ。波がくるたびに身体が揺られ、足が水底から離れた。
大きな水しぶきと共に、理子が消えた場所から少し離れたところに姿を現す。苦しそうに肩を上下させて、理子の身体はふわりと一瞬だけ上に浮かんだ。再度もぐるために息を大きく吸ったのだ。
「やめろ!」
俺は大声で叫ぶ。ここ数年出したことがないんじゃないかと思うくらい大きな声だった。理子は身体を浮かせた反動で水に頭まで浸かる。けれど一秒の後、すぐにまた波に浮かんで、俺の方を振り返った。長い髪が頬を縁取るようにしてぺとりとくっついている。
「……五月君っ……」
俺がいることに驚いているようだったが、無理もなかった。どうして理子を追いかけて海に入るなんて暴挙に出たのか、俺自身が驚いているくらいだ。
理子はすぐにまた俺から視線を逸らして、水をかく。足元の水底を探して、視線が必死に波間を行き来した。
「止めろ、戻って来い!」
「嫌だよ。嫌に決まってるじゃない。五月君だけ戻ればいいじゃない」
硬い声で言い放つ理子に、熱い怒りが腹に湧いてくるのを感じる。
「なんで、なんであんなもののためにここまでするんだよ!」
俺には意味が分からなかったのだ。たかが素人のピアノの演奏を納めたCD一枚。それだけのために海に入って、全身ずぶぬれになりながらも必死で探している理子のことが、本気で分からない。
「五月君にとってはあんなものでも、私にとっては宝物なんだよ……! 大事なの! 忘れたくない、失くしたくない大切な思い出なの!」
打ち抜かれた。
理子の叫び声で、俺の心には穴が開いて。息が詰まって、動けなかった。じんわりと、胸の辺りが熱くなってくる。何かを言おうとして、喉の奥が震えた。それに何より、目頭が熱い。分からなかった。どうして理子がここまで必死になるのか。どうして、どうして俺は――。
「……っ」
頬に手をやって、驚いた。手に熱を持った液体が触ったのだ。今の海のひんやりとした冷たさとはかけ離れた熱さ。この水滴は、一体どこから来たものなのだろう。
「り……」
俺が名前を呼ぶよりも前に、理子は海に潜っていってしまっていた。理子が消えたところから水しぶきが上がり、打ち寄せてきた波ですぐにそれは消える。
「理子ッ!」
俺はその場から動けずに、ただ彼女の名前を呼んだ。理子という名を呼ぶのは初めてだけれど、彼女には聞こえなかっただろう。
水分を含んだ衣服は、巨大な海草のように身体へまとわりついていた。俺は泳ぐのは得意ではない。波に飲まれないようにするのが精一杯で、自由に泳ぎまわることなどできるはずもなかった。数十センチを移動することすら難しい。波にもまれながらでは、進んでいるのかいないのかすら分からなかった。
けれど――。
俺は精一杯の力で水をかき、力いっぱい前へ進もうとする。前へ。彼女のところへ。波が来ては身体が押し戻されて、それでもただただ俺はもがくようにして海を行く。
何も見えない、聞こえない。俺にあるのは進みたいという意志だけだった。
こんな風に自分にとっての世界から全てのものが遠ざかっていくような経験は、前にもしたことがある。あの日の前、俺はこんな風だった。何も見えず、聞こえず、ただ、目の前の鍵盤だけが全てだったのだ。
俺は忘れていた。
何かに一生懸命になれる自分が、いつでもここにいるってことを。
「い……つき君っ……!」
理子が水音と共に水面上へ姿を現す。その手には俺が投げたあのCDがあった。
長い髪が水分を含んで重たそうだった。服の袖口が海草のようにゆらゆらと波を漂った。けれどもそんなこととは関係なく――。
「これ……! あったよ……っ!」
理子は子どものように無邪気に微笑んでいた。今まで見た中で、一番幸せそうな笑顔だった。
「あったよ……五月君の、CD」
理子は顔をくしゃりと歪めて、切なげにCDを抱きしめる。もう正常に再生することはできないかもしれないけれど、そんなことは理子には関係ないようだった。
「よかった……」
理子の声は、少し震えていた。唇が何か言葉をつむごうとして、引き結ばれる。
俺は理子の異変を疑問に思い、声をかけた。
「どうし――」
次の瞬間、頭上を覆った影によって、俺の言葉は粉砕される。
「……っ!」
何があったのか考える間もなく、俺の視界は水しぶきと共に覆いかぶさってきた大波によって包み込まれてしまった。
意識は暗闇の中へと急降下していく。
その中で、誰かの叫ぶ声が聞こえた気がした。湿気をはらんだ、今すぐにでも泣き出してしまいそうな声だった。