現代ファンタジー小説「月見里 浮遊するココロ」

(C)ぱくたそ

月見里 番外編

「私が普通じゃなくても、恐れずに、ずっと友達でいてくれるよね」
「……どういうこと?」
「もし不思議な能力を持っていたとしても――それでも、私は私だって言ってくれるよねっ?」
彼女は今にも泣き出しそうな瞳で、すがりつくようにしてそう言った。
窓から忍び込んできた夕闇が、放課後の教室を優しく包み込む。
夕方と夜が溶け合い混ざり始める刻限。
彼女の声の残骸だけが、私の心臓に深く突き刺さっていた。

始まりは、たった一枚のカードだった。
あかりはその日、幼なじみの高校生、アスカの家を訪ねた。テストが近いから、学校帰りに勉強を教えてもらおうと思ったのだ。
居間で「それ」を見つけたのは、本当に単なる偶然だった。
「何これ?」
ソファーの上に置いてあるカードの、綺麗なスカイブルーに目をひかれる。あかりは好奇心におされ、何気なくカードを手にとった。
「わっ……」
その瞬間、視界に青い光がはじける。カードに触れた指先から全身へと、突風が吹き抜けていくような錯覚を感じた。
「あかりちゃんっ!」
ジュースを運んできたアスカが、怖い顔をしてあかりの手を叩く。カードは絨毯の上に落ちて、奇妙な感覚は収まった。
アスカは不安げにあかりの表情をうかがって、バツが悪そうな様子で言う。
「ごめん。大丈夫?」
「う、うん。でもこれは何なの?」
あかりは心臓をバクバクさせながら尋ねる。
アスカはいつも優しく穏やかなお姉さんだったから、怒ったような顔を見るのは初めてだ。
何か自分はとんでもないことをしてしまったのではないかという不安にさいなまれる。
アスカはジュースをあかりに勧めると、ため息混じりに短く説明した。
「このカードはね、入院している私のイトコが作ったものなのよ。お見舞いに行った時にもらったの」
アスカが口をつぐみ、その場に沈黙が訪れる。もっと何かあるのかと思ったけれど、アスカはしばらく黙っていた。
(え? それだけ?)
あかりが疑問に思い始めた頃に、アスカはいつも通り優しく微笑んだ。
「さあさ、勉強、勉強! 今日は数学ね。頑張りましょう」
――それっきり、アスカはカードをちらりと見ようとすらしなかった。

知ってる?
この世の果てみたいな場所にある、隠れ里のこと。
誰も知らないはずだけれど、あなたには聞いてみるよ。
知ってる?
ひっそりと暮らす、不思議な能力を持ったひとたちのこと。

――もしも知らなければ。
何かを失って、何かを失わずにすんで。そうしてきっと、歯車は回りださなかったはずだ。
(知らなかったら……今ここにいる私は、まったく別人になっていたんだろうな)
考えても仕方のないことを、私はぼんやり考えていた。
窓を通してみる空の端から、赤い色水がじわりと染み出してきている。色とりどりのランドセルが、丘から伸びる道に散らばっていた。
あちらでは楽しそうな笑顔が弾けているというのに、夕方の校舎は怖いくらい静かだ。
まるで夢を見ているかのよう。
――誰が?
この学校自体が?
それとも、私が?
私はカーテンを閉めて、赤く不気味な夕日を遮った。荒い布地から光は差し込むけれど、教室の中の赤は少し薄まる。
「朝菜、どうしたの?」
私に問いかける心配そうな声に、振り返った。
友人のあかりが、鉛筆を日誌の上で走らせながらこちらを見ている。器用だなと思った。私なら手元を見ずに字なんて書けない。
「大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけだよ」
「そうなの? ならいいんだけど。朝菜ちゃん、最近ぼーっとしていること多いよね。なんかさ……突然いなくなっちゃいそうで、心配」
何気ない一言に私はうつむいた。宙に答えが浮かんでいることを期待して、一生懸命に視線をめぐらせる。けれども文字が目の前に浮かんでいるわけでもなければ、あかりの心の声が届くわけでもなかった。
「……ごめん」
答えにつまった私を見て、あかりは腫れ物に触ってしまったかのような態度で謝る。
「いいよ。あかりちゃんが謝ることはないよ」
私は別に陶磁器ではないと思った。そんなにすぐ壊れるような硝子の心を持ってはいない。
夏休みが明けてから、周りの人たちは私を慎重に扱うようになった。ショックを受けているだろうからみんなで優しく励ましてあげよう、ということらしい。
私が休んでいた日、担任教師がホームルームでクラスのみんなに事情を説明したそうだ。
――必要ないのに。
私は弱くない。おせっかいなんていらない。同情されるほどに惨めになっていく自分が嫌だった。
「ならいいんだけど」
「転校しないよ、私は。あかりちゃんと離れたくないもん」
「……本当に?」
これは本当のこと。あかりは明るくて、一緒にいると何よりも楽しい。
「本当だよ。通学に時間かかるけれど、私は卒業するまでこの学校にいるよ」
これは嘘だった。本当は通学時間なんてかからない。
「そうだよね。私たち、友達だよね」
確かめるようなあかりの声は、なぜだかとても弱々しく聞こえた。

私の名前は月見里 朝菜。成績はいつも平均点くらいで、運動神経は女子の真ん中くらい。特に目立った特徴がないところが特徴だと自分で思っている。そんな私は、どこにでもいるような普通の女の子――と言いたいのだけれど、どうもそうではないらしい。
夏休み前に家が火事になった。そして暮らし始めた祖父の住む山奥の里で、私は自分が「特級の光属性能力者」なのだと知ることになる。要するに、私には超能力があったらしい。
正確に言えば、私だけでなく里の人間はみんな超能力者だった。
もちろん里の外ではそんなことは言えない。
夏休みが明けてからも、瞬間移動の恩恵を受けて私は以前と同じような学校生活を送っていた。
「朝菜ちゃんは、部活や委員会には入らないんだね」
不意に沈黙を破って、あかりが口を開いた。私はあかりの書いている日誌を読みながら答える。
「うん。いろいろあるから。帰りが遅くなって親戚に迷惑かけられないしね」
それは建て前で、本当は忙しいからだった。
最近は里に帰るともっぱら友達から不思議な呪文の詠唱を習っている。安定して強い能力を発動するには集中することが不可欠だ。
呪文や紋章――それ自体は能力の発動と関係ない飾りだが、活用することで集中力を高めることができる。
能力を発動させる練習はそこらの部活よりも厳しくて、でもみんなでワイワイやるのは楽しい。
「あ、ごめん。部活できる環境じゃなかったね、朝菜ちゃん」
「だーかーらー、謝らなくていいって。でもどうして急に?」
「ちょっとね。……私、委員会でミスしちゃって」
この世の終わりが来たみたいな暗い表情で、あかりはうつむいた。
「先輩から来た連絡事項、伝達ミスで、企画書の締め切り、間に合わないの」
何と言えばいいのか、私には分からない。
どの程度の失敗だったのか知らないが、あかりの落ち込みようは相当だった。
あかり――斎藤 灯といえば、この中学校ではちょっとした有名人だった。
バスケ部のホープでありながら、生徒会本部にも所属している。さらに委員会も掛け持ちして、クラスの代議員でもあるのだ。ひょっとすると、学校中に一番顔と名前を知られている一年生はあかりなのかもしれない。色々なことを積極的にこなすあかりは、私にとって輝く太陽みたいな存在だった。
「みんなに迷惑かけて、私……委員会にいない方がいいのかな?」
半分くらい泣きそうになりながら、あかりは鼻をすする。否定してほしいという意図が半分透けて見える質問だった。私は素直に、あかりの求めている言葉をあげる。
「そんなこと言っちゃ駄目だよ。あかりちゃんが委員会にいてくれてよかったと思ってる人だって、きっといるはずだよ」
「本当にそうかな?」
「そうだよ。きっと」
あかりはいくらか自信を取り戻した様子で笑った。
「……ありがとう。朝菜ちゃんは強いね」
「私が? どうして?」
「だって。どこに所属していなくても、全然、不安そうに見えないから」
「不安……?」
いつだったか、あかりに向かってこう尋ねたことがある。
――すごいね。あかりちゃんは。色々な仕事をこなしてて。偉いな。
そしたらあかりは苦笑しながら首を横に振ったのだ。
――ううん。すごくなんてない。ただ、どこかに所属していないと怖いから。
あの時と同じ寂しそうな表情で、肩書きがあると安心するのだ、とあかりは笑った。
「私、たまに思うんだ。生徒会の斎藤 灯でも、バスケ部の斎藤 灯でも、委員会の斎藤 灯でもなくなったら、私は一体誰なんだろうって」
だから何かに所属して、自分が誰か証明してくれる肩書きが欲しい。そうでないと足元がふらついて、どうしようもなく不安になる。
あかりの言葉を聞き、私は不思議に思って首を傾げた。
「生徒会や部活や委員会に入っていなくても、役員じゃなくても、あかりちゃんはあかりちゃんじゃないの?」
あかりは少しだけ切なそうな表情をつくって、穏やかに微笑む。
「やっぱり、朝菜ちゃんは強いよ。両親が死んでも、みんなの前ではちゃんと笑えて。私には真似できない」
鉛筆を止めて、あかりは唇を噛みしめた。そして、覚悟を決めたように私の目をまっすぐ見すえる。
「ねえ、朝菜ちゃん……」
夕陽に染め上げられた教室に、震えた声が小さく響いた。
「私が普通じゃなくても、恐れずに、ずっと友達でいてくれるよね」
「……どういうこと?」
「もし不思議な能力を持っていたとしても――それでも、私は私だって言ってくれるよねっ?」
窓から忍び込んできた夕闇が、放課後の教室を優しく包み込む。
夕方と夜が溶け合い混ざり始める刻限。
あかりの声の残骸だけが、私の心臓に深く突き刺さっていた。
私はどうしていいか分からずに椅子から腰をあげる。
――ガタンッ。
椅子が立てる物音は、がらんどうの教室に大きく反響した。
私は机に両手を置いて身を乗り出す。何か言おうとするけれど、口から出るのは空気だけだ。酸欠状態の金魚みたいに、口をパクパクさせることしかできなかった。頭の中がペンキをぶちまけたように真っ白で、言葉が一つも見当たらない。
あかりは困ったように微笑して、鉛筆から不意に手を離した。
普通なら日誌の上に音もなく落ちるはずの鉛筆は――。
「驚く……よね」
ピアノ線で吊られているかのように、あかりの目の高さまでふわっと浮き上がる。
信じられない光景に、私は目を見開いた。
誓ってもいい、私は何もしていない。
それなのに――。
鉛筆は確かに存在していて、浮かんだまま少しも動かない。
風属性の物質浮遊。もしくは単なる念動力。知識としては知っているし、実際に見たこともある。身近にいる風属性の能力者なんて、手を使わずに茶を淹れるのだ。
これが里の中での出来事なら、私は驚いたりなんかしなかった。しかし今、一般人であるはずの親友が鉛筆を宙に浮かせている。
あかりはパニックを起こしそうな私を見て、悲しげに微笑んだ。
「びっくりしたよね。私も最初は驚い」
「いつ?」
「え?」
「いつから、その能力に気づいていたの? 他に、誰が知っているの?」
一句一句区切るようにして私が問えば、あかりは戸惑いながら答える。
「一昨日だけど。朝菜ちゃん以外には、誰にも言ってないよ」
その答えを聞いて、私は安堵の息をもらした。能力者だと周りに知られて得なことなどない。一番に相談したのが私だったのは、多分あかりにとってかなりの幸運だろう。
「私、ちょっと調べてみるね。それまで、誰にも言わないでね」
「うん。分かった。……怖がらないんだね、朝菜ちゃんは」
あかりは嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んでいたのだった。

「嘘だろ!」
「嘘でしょ!」
「嘘だよな!」
里に帰って友人に相談した朝菜を待っていたのは、重なり合う否定の三重奏だった。
朝菜はカバンをテーブルに下ろし、困惑しながらも話を続ける。
「嘘じゃないよ。だってこの目で見たから。鉛筆、確かに浮いてたもん」
「嘘だろ? 信じられないぜ」
はー、と大きく息を吐くのは、水瀬 陸也。水と風属性の能力を持つ高校生で、朝菜たち里の子の頼れる兄貴分だ。
「まあ里以外にも能力者は稀に存在するけど……物を意志通りに動かせるなんて、まず一般人じゃねーな」
陸也はテーブルのクッキーに手を伸ばしながら考え込む。
「ねえ、風属性の能力者なら、陸也兄の遠縁の親戚なんじゃない? それか里の誰かの」
横から話に割入ってきたのは、桜ノ宮 南。艶やかな黒髪が見目麗しい正統派の美少女だ。朝菜とは同い年なのにまったくそう見えない。
「オレの親戚? 朝菜くらいの歳の子なんて知らないなあ。大体、一族で能力者はオレだけのはずだぜ。――央は?」
「陸也兄が知らないなら知らない」
陸也の隣であぐらをかいている小柄な少年は、桜ノ宮 央。南の弟なのだが、不思議なことに朝菜や南と同い年だ。お人好しだと評判で、いつも周りに気をつかってばかりいる。
朝菜を含めた里の人間四人は、長老宅の居間で各々好きなことをしていた。
陸也は読書、南はトランプ占い、央は宿題。いつもと同じ風景だけれど、みんなが顔を上げているという点でいつもと違う。
「一昨日からなんだろ。能力に気づいた時の状況は? きっかけとか、細かいことは聞いたか?」
頭の中で吟味したらしい質問を、陸也が真剣な表情で口にした。
「うん。ぼんやりしていたら、目の前の消しゴムに浮かんだって」
「……どうしてぼんやりしていた?」
朝菜は下校途中に交わしたあかりとのやりとりを記憶の底から引きずり出す。
「聞かなかったけど、単に眠かったんじゃない?」
「そうか」
「……あ、これは関係あるか分からないけど、変なカードに触ってから少し体調がおかしくなったらしいの」
「変なカード?」
朝菜以外の三人は同じように目を円くして、異口同音に聞き返す。
「うん、近所のお姉さんの家にあった空色の」
「それって……」
「まさか……」
南と央――桜ノ宮姉弟は信じられないとでもいうように顔を見合わせた。
陸也は頭を抱え込み、やれやれと大きく息をつく。
「朝菜、そのお姉さんの名前は」
「えっと、確か、アスカちゃんって言ってたよ」
朝菜以外の三人は、疲れた様子で一斉に肩を落とした。
「ああ……納得」
「なるほどね。そういうこと……最悪ね」
「また面倒なことをやってくれたな……」
三人とも合点がいったようだが、朝菜には何が何だかさっぱり分からない。
「え、何? どうしたの、みんな」
取り残されて戸惑う朝菜へと、陸也が曖昧に微笑んで静かに告げた。
「詳しい説明は後だ。オレ、そのあかりって子に一度会ってみたい。……いいよな?」

アスカというのは、陸也の親友――都築 智のイトコの名前らしい。住んでる場所もあかりと近いから、まず本人で間違いないだろう。まあつまり……そのアスカという高校生は、里の人間の血を引いているのだ。
(でも、それがあかりちゃんと何の関係があるんだろう?)
――昨日、あれから。
長老が帰ってきて、その場はとりあえず解散となった。
事情はつかめないが、陸也からあかりと話せる機会を作るよう頼まれている。
「ねえ、あかりちゃん」
登校してすぐあかりに話しかけようとした朝菜は、事態が取り返しのつかないところまで悪化していることを知った。
「朝菜ちゃん、おはようーっ。どうしたの?」
笑顔で振り返るあかりの向こうに、同級生の男子が一名浮かんでいる。蛇に睨まれた蛙よろしく恐怖におののき、朝菜に目線で助けを求めてきた。
「な……なな、何やってるの!」
「ああ、だって永田、ドアのところに黒板消しを仕掛けていたんだもん」
あかりは軽いノリで口を尖らせる。頭の中がクラクラした。
なんだなんだ、と生徒たちの視線が集まり始めている。
「月見里……た、助けてくれ」
同級生の男子――永田は情けない表情で、うなるようにして助けを乞うた。
足元は10センチくらい浮いている。あかりがやっていることは明白だ。
「あかりちゃん、下ろして。永田君、怖がってるよ」
強い調子でいさめれば、あかりはしぶしぶ能力使用を止める。永田は大げさな尻餅をつき、這うようにして後ずさった。
「ふんっ。いたずらはやめなさいよね。校内の風紀が乱れるわ」
あかりが冷たく言い捨てれば、永田は壊れた人形のようにカクカクと頷いた。そして青い顔をしたまま、廊下を一目散に逃げていく。
あかりの能力を目撃した生徒たちのざわめきが渦となって校内を飲み込んでいくのに、そう時間はかからなかった。
「私、こんな才能があったのね。素敵! 最高ね、この超能力さえあれば学校の平和が保てるわ」
噂の広まりと同様に、あかりの暴走も加速していく。もはや朝菜に止められるレベルを遥かに越えてしまった。
授業中に雑談をしている生徒がいれば、背後から物が飛んでくる。
廊下を走れば足元にカマイタチの風が巻き起こり、もれなく保健室送りになる。
物が飛ぶ、消える、現れる。風が生徒を攻撃する、先生が宙に浮かぶ、斎藤 灯が瞬間移動する。
学校内は一瞬にして、何でもアリな不思議空間となった。
「あかりちゃん、もうやめよう。学校は十分平和だと思うよ?」
朝菜が涙目になりながら言うも、あかりは全て右から左へ受け流す。
「なーに甘いこと言ってるのよ。まだまだなんだからっ」
小学生の頃からクラス委員を勤めてきたあかりの正義感は半端じゃなかった。
「……アレ、止めてくれる?」
「ごめん、私にはちょっと無理かも。止められるものなら止めてるよ」
朝菜はクラスメートの藤沢 響にごめんなさいと謝る。
『アレ』――あかりは相変わらずの様子でクラスの男子に説教を垂れていた。
朝菜には少し離れた場所から事態を静観することしかできない。
そんな時、里の能力者である響が話しかけてきたのだ。
響は窓際の一番後ろの席に座り、珍しく顔を上げていた。
席替えはアミダクジなのに、どうして同じ席を引き続けるのか。それがこのクラスの七不思議の一つだ。
「……これ以上、能力を使うなら」
響はいつものように感情を顔に出さぬまま、小さくつぶやく。無感情な瞳には、夜の黒よりも深い闇が宿っていた。
「……里に、見つかる」
何を言わんとしているのか、朝菜には察しがついた。
能力保持者だと知れば、里はあかりを放っておかないだろう。現にこうして大勢の前で能力を使ってしまっているのだ。
「うー、そうだよね。里に知られる前にどうにかしなきゃ――って、響君は長老に報告しないの? 見逃してくれるんだね」
「顛末を予想したら……報告したく、ない」
「あ、なるほど」
月見里がどういう対応に出るか、朝菜にも大体予想できた。
まず、関わった人間の記憶操作。そしてあかりへの処罰。最悪、家族を殺害してあかりを里に無理やり迎え入れることだってやりかねない。里とはそういう場所だ。そしてその場合、処罰の執行人は響か陸也となるだろう。二人ともかなり強力な能力を保持していて、おまけに長老には逆らえないのだ。だから響が里への連絡を渋るのも無理からぬことであろう。
「……今ならまだ、記憶消去だけで済ませてあげられる……里に報告するかどうかは、朝菜次第だ」
里に知られる前にどうにかしろという、それは強烈な脅しだった。
響の協力があれば、あかりの件をもみ消すことも可能になる。
――少なくとも、今ならまだ、間に合う。
友のためにも何とかして暴走を止めなくてはならないと、朝菜は決意を固めた。
「分かった。私、頑張るよ。――ってあれ、あかりちゃんは?」
響は無表情のままで視線をずらし、廊下の方を見据える。その瞬間、生徒たちのざわめきが教室にまで届いた。
「っ……あかりちゃん! たかだか廊下を走ったくらいで能力使わなくても!」
「たかだか? 莫迦を言わないで、学園の規律を乱す者には鉄拳制裁あるのみよ!」
駆け出してあかりを咎めるが、まったく相手にされない。いい加減、悲しくなってきた。
廊下を走った罪で、三人の男子生徒がその場に気絶させられている。哀れな犠牲者に、朝菜は心の中で合掌した。
「学校で能力をぶちまけて……あかりちゃん一体何がしたいの?」
「何って、何よ」
「学校の平和なんか建て前で、単に能力を見せつけたいだけだよね。違う?」
違わないよねと言えば、あかりは不愉快そうに眉をしかめる。
「朝菜ちゃん。能力があっても私は私って言ってくれたよね?」
「え? あ、うん」
「私たち親友でしょう。だから、ね。手荒なことはしたくないの。放っておいて。邪魔しないでくれる?」
あかりが優しい口調で言う。なんともまあ、分かりやすい脅迫だ。人間、強い力を持つと人格まで変わってしまうものなのだろうか。
しかし朝菜もここで退くことはできないのだ。
「放っておけるわけないよ! あかりちゃん、もう止めよう。ねっ?」
朝菜はあかりの手を引き、必死で話しかける。つかんだ腕が、少し震えている気がした。
「不安なんだよね? 急に変な能力が使えるようになって」
あかりは一瞬だけ目を円くして驚いた。朝菜はにっこり笑って続ける。
「大丈夫だよ。あかりちゃんはあかりちゃんだもん。みんな変わらない。怖くなんてないよ。態度を変えたり、奇異な目で見たりしない」
朝菜も能力が使えるようになった時、言いようのない不安を感じた。自分が自分でなくなる悪夢にうなされて、眠れなかった夜もある。けれど、陸也や央や南たち――周りのみんなに助けられた。その暖かい優しさを、少しでもあかりに渡すことができればと思う。
「少し落ち着いて、話をしてほしいの。きっと力になれるから。だからお願い……ね?」
朝菜が柔らかく微笑みかけると、あかりは顔を上げて悲しそうな笑みを浮かべた。そうして小さく頷きながら、制服の袖で両目をこする。
「……うん。ごめんね」
何の『ごめん』か分からないけれど、そんなことはどうでもよかった。とりあえずあかりと話ができそうな状況になり、朝菜は安堵のため息をもらす。そして何か言おうと口を開きかけた時だった。
「一年B組、斎藤 灯さん。一年B組、斎藤 灯さん。至急職員室まで来なさい」
いきなりの放送であかりが呼び出された。先生も見て見ぬふりはできなくなったのだろう。
「あ、私、行ってくる」
「わかった。頑張ってね」
仕方なく朝菜は教室に戻った。席に座る前に窓際に立ち寄れば、響がねぎらいの言葉をかけてくれる。
「……おつかれさま」
「疲れたよー」
素直に言って、響の前の席に腰掛けた。同時にあかりのことが少し心配になる。
「あかりちゃん、次の生徒会役員選挙に出るって言ってたんだけど。今回のことで悪い影響が出たりしないかなあ」
「……学校内で能力を使ってはいけないという校則はないよ」
響はいつも通りに淡々と答えた。
校則に違反してなくても、生徒の心証に問題が出るかもしれない。しかしそれはあかり次第だ。
「……妙なことを気にするんだね」
「そうかな? あかりちゃんにとっては重大なことだと思うよ、生徒会役員選挙って」
「……それを真っ先に気にするのは朝菜のいいところだ」
「誉められているのか呆れられているのか分からないんだけど」
「……多分、両方」
響は机の上にそっと手をのせて、人差し指をなめらかに滑らせる。見えない紋章を、朝菜はなんともなしに目で追った。
「あ、そうそう、陸也君が話したいって言ってたの。だから今日の放課後、喫茶店に来るようあかりちゃんに頼んでみるよ」
一応報告してみるが、響は頷きもしない。ただ、目を閉じて小さくつぶやいた。
「……『修正』」
宙に黒い図形が浮かび上がる。響が記憶処理の術を発動させたのだ。
朝菜は慌てて自らの記憶をたどってみるが、これまでの経緯は大体思い返せる。
「……対象は、能力のことを知ってはいけない人間……サイトウ アカリは除いてある」
不安げな朝菜の様子を察したのか、響は説明を加えてくれた。
能力を知っていて当然の朝菜は、術の対象から除かれたらしい。
学校の人たちの記憶から、あかりが能力を使ったことはすっぱり抜け落ちているはずだ。
この件を知って――覚えているのは、朝菜と響の他に陸也と央と南、そしてあかり本人だけとなる。これで里にこの事件が伝わる危険はほとんどなくなった。
陸也たちは滅多なことでは口を割らない。
「あんなに大勢の記憶を、今の一瞬で一気に消したの? すごい。さすが響君だね」
朝菜は感嘆するが、響は無言だった。照れているのかもしれない。これまでに能力をけなされることはあっても、誉められることは少なかったはずだ。
「……別に。普通だよ、こんなの。この規模の術なら、朝菜にだってできる」
ややあって、素っ気ない言葉が返ってきた。朝菜は身を乗り出して訊く。
「私にも?」
「……練習すれば」
「練習する! したい! 誰に習えばいい? 陸也君とか?」
響は表情を変えないまま、やや不機嫌そうな口調でつぶやいた。
「……リクヤなら、できるよ。ミナミとナカは、無理だけど」
「そっか、ありがとう。じゃあ今度、教えてもらえるように頼んでみるねっ」
朝菜は礼を言って椅子に座り直すと、思い浮かんだことを笑顔で続けた。
「それにしても、やっぱり陸也君ってすごいよねー。そんなに私と歳は変わらないのに、冷静で優しくて、何でもできて。うらやましいなあ。南ちゃんが好きになるの、よく分かる。ね、そう思わない?」
響は少し、ほんの少しだけ唇の端をひきつらせる。機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのかと不安になり、朝菜は恐る恐る訊いてみた。
「えっと、機嫌、悪い? もしかして怒ってる?」
「……さあ」
そう言ったきり黙りこむところからして、響はやはり怒っているようだった。
陸也は響の悪口を、誰にもはばかることなく口にする。そんな陸也の名を響の前で出したのは不味かったかもしれない。
「ごめんなさい。響君、陸也君のこと嫌いなんだったね」
「……たった今、大嫌いになった。もともと好いてはいなかったけど」
よく分からないことを言われて、朝菜は小首を傾げた。
響は無言のまま、窓の外を見やる。能力のせいか、学校での響はいつも不機嫌そうだ。
耳をふさいでいても周囲の『心の声』が聞こえてしまうという能力。
人が近くにいるだけで心の声がうるさいと、響は前に頭を抱えながら言っていた。
本当は優しいひとなのに、能力のせいでクラスメートの輪に入れない。それはとても惜しいことだと思う。
そんなわけで、響に進んで話しかける人間は今のところ朝菜しかいないのだった。
扉が音を立てて開き、あかりが教室に帰ってくる。先生から呼び出されたにしては、ずいぶんと早い帰還だった。
「じゃあまたね」
響に手を振って、朝菜はあかりの方へと向かう。
「おかえり。先生、何だったの?」
「さあ、分かんない」
「分かんない?」
あかりは怪訝そうに首をかしげながら、ことの成り行きを語った。
「職員室まで行ったら、呼んだ覚えはない、って言われたの。どういうことなんだろう? まあ、何でもいいけど」
響の記憶処理が効いたのだと、朝菜一人だけ納得する。
あかりは教室の奥に鋭い視線を送ると、声をひそめて朝菜の耳元で問いかけた。
「朝菜ちゃん、また藤沢君と話してたの?」
「え? あ、うん」
「そう、仲いいね、最近」
あかりの口調にはどことなく棘がある。
どう応じていいか困ってしまった。
優等生であるあかりにとって、クラスで浮いている響は目障りな存在なのかもしれない。なにしろ授業もサボりがちで、行事にも非協力的なのだ。社交性の高いあかりとひとを避け続ける響は、ちょうど対極の立場にいる。
「仲いいのかな。家が近所だってことがわかって、それで話が合うんだよ」
「ふーん。まあ、別に、いいけど」
そうつぶやきながらも、あかりは響に鋭い視線を送った。
何も悪いことはしていないのに睨まれる響は可哀想だと思う。けれど響が微塵も気にしていないことは自明なので、朝菜も気にしないことにした。
「ねえ、授業が終わったら、聞いてもらいたいことがあるの」
「え?」
「授業が終わったら、ね。朝菜ちゃんに協力してほしいことがあるの。いいよね?」
あかりは両手を合わせて小さく微笑む。朝菜は曖昧に笑い返した。
「超能力で悪いことするお手伝いとかは駄目だからね」
「ううん、違うの。こればっかりは朝菜ちゃんの力借りなきゃ。超能力じゃどうにもならないよ」
あかりは元気なくうつむいて、自分に言い聞かせるように呟く。
「……どうにもならないよ……」
「超能力があってもどうにもならないことがあるの?」
朝菜が尋ねれば、あかりはますます表情を曇らせる。
「あるよ、もちろん。悲しいけれど……。あ、先生だ。じゃあ、また後でね」
先生が教室に入ってきて、いつものように退屈で平坦な授業が始まった。
(超能力があってもどうにもならないこと、かあ……)
世の中なんてどうにもならないことばかりだと思う。それは超能力があっても同じだと、月見里に住んでいる朝菜には身にしみて分かっている。
ノートの上にメモのような紙切れがぱさりと落ちた。不思議に思って中を開けてみると、きちんと整った字が目に飛び込んできた。
(授業終了後、屋上?)
こっそりと振り返る。窓際に座った響は何食わぬ顔で頬杖をつき、いつもの無表情で外を眺めていた。
能力を使ってメモを朝菜の机の上まで飛ばしたのだろう。また長老に怒られはしないかと不安になった。
来い、ということなのだろう。屋上は鍵がかかっているはずなのだが、響の前では扉なんてないも同じだ。
あそこなら誰にも話を聞かれることはない。里や能力の話をするには最善の場所だ。
響が学校で話したいことといえば、あかりに関することしかない。それ以外の急を要さない話なら、月見里ですればいいのだ。
ある考えがひらめき、朝菜は硝子玉の首飾りを外した。
瞳を閉じて、意識を澄んだ暗闇へとゆったり浸してみる。頭の中に文字を浮かび上がらせるようにして、強く強く念じた。
(知ってる? あかりちゃんがどうして能力を使えるのか)
しばらく待ったけれど響からの返答はない。他人の心の声を聞くことができると響は言っていたが、やはり一方通行なのだろう。自分の考えは伝わるのに相手の考えが分からないなんて不便だなと思った。
いつもと同じような授業が、いつもより長く感じられる。
うつらうつらしてきた頃に、穏やかな『声』が響き渡った。
『……知ってる』
耳から入ってきたのではない。頭の中に直接広がり染み込んでいくような音の波だ。一気に眠気は覚め、朝菜は思わずキョロキョロと周りを見回した。それを咎めるかのように、再度脳内へと『声』が響き渡る。
『……誰か、判らない?』
判ります、と朝菜は心の中で強く思った。授業中にテレパシーで話しかけてくる人なんて響以外にいない。
(というか、脳内会話なんかできるんだ。『心』能力ってすごいなあ。うん、さすがは響君だ)
朝菜がひたすら感心していると、響は律儀にも返答してくれた。
『……それは、どうも』
どうやら朝菜の心の声はただ漏れしてしまっているらしい。
(うう、ぜんぶ聞こえてるの? なんか落ち着かないんだけど)
『……そっちから話しかけてきたくせに』
頭の中に染み渡る『声』は、普段聞いている響の声より幾分か柔らかく感じられた。
『大丈夫、要件を済ませたら、すぐに切る』
(ふーん、電話みたいだねえ)
脳内で声がするという不思議な感覚が新鮮だった。心なしか響がいつもより饒舌な気がする。心の声だからだろう。響の口と心をつなぐ回線はとても細くて短いのかもしれない。
『……アカリは、能力が結界で封じ込められたカードを触ったんだと思う』
(それって、前、私のげた箱に入っていたみたいな?)
『……そう。それを触った時に、カードに込められた能力がアカリの身体に移ったんだ。偶然』
響によると、能力を込めたカード作りは都築 智の妹が得意とする技らしい。智の妹は入院中で、暇つぶしに見舞い客の能力をカードへと結界で封じているそうだ。アカリが触ってしまったカードには恐らく陸也の能力が込められていたという。
だが移った能力に持続性はなく、時が経てば自然に消えていくそうだ。
(じゃあ能力が消えるまでなんとかあかりちゃんを説得して、目立たないようにしてればいいんだね)
言葉にすれば簡単だが、実際とても難しそうだと朝菜は思った。最近のあかりはどことなく頑固で、周りの人が言うことに耳を貸さない節がある。
『……目立たないように……できる?』
(が、頑張る。できるだけ、頑張ってみるよっ)
朝菜は拳をグーにした。やるだけのことはやってみる、それがモットーなのだ。
じゃあ頑張れという素っ気ない励ましを最後に、響の『声』は聞こえなくなった。
あかりの能力があかり自身のものではないと知り、朝菜は複雑な気持ちになる。
――私のこと、怖いとか思わない?
あかりが聞いてきたことは、朝菜の方が聞きたかったことなのだ。
(ねえ……)
――響君の気持ち、分かった気がする。能力を怖がられるのは、自分自身を否定されることみたいで……ほんとうに、怖いね。不安だよね。
そう語りかけてみるが、響からの返事はない。授業が終わって後ろを見てみると、響は机に突っ伏していた。
話しかける人は誰もいない。響はこの教室の中で空気のような存在だった。孤独に慣れたと響は言っていたけれど、それはとても寂しいことだと朝菜は思う。
だからといってできることなんか何もないのが……悔しかった。

こういうのを、青天の霹靂と言うのだろうか。
「私、藤沢君のことが好きなの」
「ふぇ?」
あかりの内緒話は朝菜の予想の遥か上をいっていた。
女子トイレの鏡を覗き込み、あかりは自分に向かって小さく微笑する。サイドの三つ編み、その複雑な編み上がりは見事なものだった。校則に触れないぎりぎりのラインで制服を着こなし、鏡と櫛は忘れない。あかりはお洒落な生徒のお手本みたいだった。
朝菜も身だしなみには気を遣う方だが、あかりの気合いの入れようには遠く及ばない。
「藤沢君って、藤沢 響君……?」
「他に誰がいるの? うちのクラスの藤沢 響君に決まってるでしょう」
確かに、藤沢という名字の生徒はこの学校に一人しかいない。
「何で?」
「何でって何よ」
「えっと、だってあかりちゃん、響君と違う小学校だよね」
「そうよ。朝菜ちゃんもね」
突っかかるようなあかりの言い方に違和感を覚えた。今日のあかりはなんだかいつもより冷たい気がする。
「あかりちゃん、響君と話したこと、あんまりないよね。なのに、どうして?」
「んー。まあ、顔は格好いいっていうか綺麗だし、他の男子みたいにバカなことしないし」
あかりは自慢げに微笑みながら告げてきた。朝菜は唖然としてあかりの横顔を見るしかない。
寝耳に水だった。
あかりが響のことを好きだと聞いても、いまいちピンとこない。なにせ、二人はまともに言葉を交わしたことすらないはずなのだ――朝菜の知る限りでは。
「ね、朝菜ちゃんは響君と仲いいよね」
「え? まあ」
「じゃあさ、協力してくれるよね?」
あかりはぎゅっと目をつむり、顔の前で両手を合わせた。
「きょ、協力……?」
「私、藤沢君のことよく知らないから、もっと話したいの。協力してくれるよねっ?」
話したことがない相手をどうして好きになるのだろうかという素朴な疑問が湧いてくる。
(一目惚れって奴なんだろうな。でも何でよりにもよって響君……?)
響は生まれつき能力の反作用による帯電性質を抱えている。迂闊に触れば文字通り火傷する、かなり厄介なひとなのだ。
とはいえ、朝菜は首を縦に振った。
あかりからこういう風に頼まれるのは久しぶりだから嬉しくて、素直に応援したいと思ったのだ。
「分かった。できるだけ協力するね」
朝菜の答えを聞いて、あかりの顔はパッと華やいでいく。
「本当に? 嬉しいっ! ありがとう朝菜ちゃん。大好き」
あかりの笑顔はひまわりみたいに明るかった。こんな顔が見られるのなら、頑張ってやれるだけのことをしようと朝菜は決意する。
(それに、響君にとってもいいことだよね。里の外の人と話す機会ができるんだから)
休み時間は、響のことについて根ほり葉ほり訊かれた。里や能力のことを隠さなくてはならないので、朝菜があかりに話せることはほとんどない。それでもあかりは満足そうに朝菜の話を聞いていた。
「ごめんね。あんまり知らなくて……」
「ううん。ありがとう。でも朝菜ちゃんが協力するって言ってくれて、とても嬉しかった」
あかりは教室に戻る途中、しみじみとした口調で言った。
「だって、私てっきり朝菜ちゃんも藤沢君のこと好きなんだと思ってたから」
「……え?」
どきりとして聞き返せば、あかりは一瞬だけ顔から笑みを消す。
「でも協力してくれるんだよね。私たち親友だからね。絶対だよ、約束したからね」
「あ……えと」
たたみかけるように言われて、朝菜はたじたじとなった。
あかりは唇に笑みをたたえ、朝菜の耳元でそっと囁く。
「裏切ったら殺すからね」

理科の実験の時間、今日は教室の端に珍しく響の姿があった。あかりの様子を見守っているつもりらしい。
先生の説明が始まった時、朝菜は教科書を忘れてきてしまったことに気づいた。
(ど、どうしよう)
教科書がないと実験の手順がわからない。慌ててきょろきょろと周囲を見渡した。
あかりか誰かに貸してもらうしかないという結論に達しかけた時、肩をトントンと叩かれた。
振り返れば響が相変わらずの無表情で立っている。朝菜の肩を叩いたのは響が持つ定規の先だった。
「……これ」
短く言って、響は新品同然の綺麗な教科書を差し出してくれる。
「い、いいよー。悪いから」
慌てて教科書を突き返そうとするが、響は教科書を机に素早く載せた。
「……大丈夫。いらないから」
確かに人の心の声を聞ける響には、勉強道具なんていらないだろう。よく見ると教科書には折り目すらついていなかった。
「本当にいいの? ……ありがとう」
遠慮すべきではないと思い、素直に好意を受け取ることにする。
響は音も立てずに教室の端という定位置に戻っていった。
先生は黒板に図を書いていて、振り返らない。
「朝菜ちゃん、藤沢君と仲いいんだ」
「え?」
隣の席の吉江が朝菜に小声で話しかけてくる。
「私、藤沢君がしゃべったところ初めて見たかも」
あまりにも吉江がびっくりしているので、朝菜は苦笑しながら答えた。
「話してみたら、すごくいい人だよ」
「ふーん。そうなんだ」
吉江は半信半疑といった様子でつぶやく。
ふと向かい側に座っているあかりと目があって、朝菜はぎょっとした。あかりは初めて見る憎々しげな目で朝菜を睨みつけている。
(あ、そっか。あんまり響君と話しちゃ駄目だよね)
無神経なことはしないように気をつけよう、と朝菜は自分に言い聞かせた。
「はい、説明終わり。ペアごとに座って器具を用意しろ」
理科の実験は二人一組を作って行うことになって、いつもなら朝菜とあかりでペアを作る。けれども今日は響が教室にいて、あかりがその隣に陣取っていた。
「藤沢君ひとりでしょ。私と一緒に組まない?」
あかりがわざとらしいくらい愛想のある笑顔で響に頼みこんでいる。どうしよう、と朝菜は困惑した。
不意に吉江と目が合って、おいでおいでと手招きされる。
「訳あり? 斎藤さんと組まないなら私たちのところに来なよ」
「あ、うん、ありがとうっ!」
クラスの女の子はいくつかのグループに分かれていて、吉江のところは三人組だった。朝菜が入ったことで偶数になり、ちょうど二つに分かれることができる。
朝菜とペアになってくれた吉江は、実験に使う器具を準備しながら不思議そうにつぶやいた。
「うわ、斎藤さんと藤沢君が話してる……珍しすぎるわ」
好奇に満ちた視線の先には、もちろんあかりたちがいる。
響は相変わらず無表情だった。朝菜と初めて出会った時と同じように、完璧な無視を決め込んでいる。一方のあかりは必死だった。仮面のような笑顔を作って、めげることなく一方的に話を振り続けている。
間違えて響の体に触ってしまわないかと、見ている朝菜の方がドキドキした。けれど響の反射神経なら大丈夫だろうと思い直す。
「うーん、どうなんだろうねえ」
朝菜は吉江のつぶやきに適当な笑顔を浮かべて返した。吉江は呆れたように軽く眉をしかめる。
「どうなんだろ、じゃないわよ。振られちゃったのに淡白ね」
「え?」
「だって月見里さん、いつも斎藤さんとペアだったじゃない」
確かにそうだ。朝菜にとってあかりの隣は居心地のいい場所で……いつの間にか、隣にいることが当然になっていた。
「まあ、私たちも三人組だからさ、余ったらいつでも私らのところにおいでよ」
吉江はカラッと晴れた笑みを浮かべて、言いにくいであろうことをあっさりと言ってのける。女子のグループの間には結構な高さの壁があるはずなのに、吉江はそんなこと気にしてないみたいだった。
ありがとう、と礼は告げたものの、あかりと響の様子が気になって仕方ない。朝菜は湧き上がってくる正体不明のイライラ感を腹の奥に押さえ込んだ。これから実験のたびに二人が組むのだとしたら、なんとも居心地が悪いことになる。
「……ってちょっと! それ違う!」
吉江の叫びで朝菜は我に返って視線を手元へ戻した。
「へ? わっ、何これ」
朝菜がフラスコに注いだ液体は不気味な色に染まり激しく発泡する。
何をどう間違えたらこうなったのか、はなはだ謎だ。
とっさのことに困惑するだけの朝菜と違い、吉江はすぐさま声を上げた。
「もう、うわ、こぼれる。先生、せんせーっ!」
先生を呼ぶという冷静な対処ができて偉いなあと感嘆するが、上には上がいる。
「大丈夫よ、吉江」
おっとりとした声が吉江をたしなめた。
前の席にいた女の子が、どこから出してきたのか分からない瓶から液体を注ぐ。暴れていた朝菜の試験管の中は、一瞬にして何もなかったかのように静まった。
朝菜と吉江は目をぱちくりさせる。
「……今、何やったの」
「説明すると長くなるわ。そして吉江にはきっと分からないから割愛」
吉江と同じ仲良しグループの女の子は、得意げに眼鏡を押し上げた。
小柄で大人しそうな子だ。いまどき珍しい黒縁の眼鏡を掛けている。
「ちょっとー、吉江には分からないってどういう意味よ?」
「理科が苦手って程度の意味よ。ああ、吉江は勉強自体苦手か。……ねえ、月見里さん」
前の席の子が話を振りがてら朝菜の方に向き直った。
「よろしくね。災難だったわね、吉江と組むことになって」
「あ……えと」
言葉に詰まる朝菜を押しのけ、吉江が反発する。
「ちょっとちょっとー、災難はこっちのセリフでしょ、勘違いしてるかもしれないけど、私がやったんじゃないからね、今の」
「吉江が月見里さんに罪をなすりつけようとしてるー」
「してるー」
隣の席の子までが加勢してきて、吉江は形勢不利になった。けれど吉江も前の席の二人も顔が笑っている。これは仲の良い友達同士のじゃれあいなのだ。
三人とも「振られてしまった」朝菜を気遣ってか、明るすぎるくらい明るく接してくれる。
――だから朝菜は気がつかなかった。
授業の途中で響が教室を抜けていたことに。

「あかりちゃん、一緒に教室帰ろ」
授業終了のチャイムが鳴って、いつも通り朝菜はあかりの机へと立ち寄る。
あかりの隣の椅子には誰も座っていなかった。響は授業を抜けてどこに行ったのだろう。そんな些細な疑問を叩き割るかのように、あかりの椅子が大きな音を立てた。
「あかりちゃん……?」
あかりは唇をきつく結んだまま何も答えない。
机上の教科書やノートをかき集めると、あかりは素早く朝菜に背を向けた。
腕の間から抜けたルーズリーフがひらりと舞い、地面に落ちる。あかりはそれには見向きもしなかった。
うつむき気味に小走りで立ち去っていく親友の背中を、朝菜はただ見送ることしかできない。
(どうして……?)
歩み寄ってきた吉江が、あかりの落としたルーズリーフを無言で拾った。重たくため息を吐き、吉江は哀れむような目で朝菜を見つめる。
「気、落とさないでね」
「……あかりちゃん、大丈夫かな」
ためらいがちに口を開いたのは、二人ともぴったり同時だった。
「あかりちゃん、体調悪いのかな。私、後で保健室にお見舞いに行ってくるよ」
朝菜が柔らかい笑顔を浮かべて言う間に、吉江の表情は段々と険しくなっていく。
朝菜は言い知れない不安を感じながらも、精一杯笑おうと決めた。いつも通りに接していれば、きっとあかりだって朝菜に笑いかけてくれる。今はまだ、そう信じたかった。
「……そう? 斎藤さん、別に体調悪いんじゃないと思うよ。私、賭けてもいい。斎藤さんは保健室に行かない」
朝菜の淡い願いを、吉江が粉々にぶち壊す。朝菜はハッとして吉江の顔を見た。
「普通に無視されてたよね。月見里さん。何があったか知らないけどさ」
「そ、そんなことないよきっと!」
吉江の鋭すぎる言葉を、朝菜は必死になって否定する。
「あかりちゃんは理由もなく人を無視したりする人じゃないし……それに私、何も心当たりないし……」
段々と小さくなっていく自身の声を聞きながら、説得力がないなと思ってしまった。
朝菜の言葉を全部聞き終えてから、吉江は重たそうに口を開く。
「ねえ、月見里さん少しお人好しすぎない? 目を逸らしても仕方ないじゃん。無視されたんでしょ、斎藤さんに。それは分かってるよね?」
頭の中には白いペンキがぶちまけられたかのようだった。
分かりたくない、と朝菜は思う。でも頭の片隅ではしっかり理解していた。
――無視、されたんだ……。
信じたくない。できれば間違いだと信じたかった。あまりに突然のことで、理由なんて見当もつかない。
「私……何か駄目なことしたかな……?」
細い声で問えば、吉江は黙って首を横に振った。わからない、の意だ。朝菜自身にもわからないことを吉江が知るはずもない。
「きっと、きっとたくさん迷惑かけてたんだよね……」
ショックだとかいう前に、申し訳なくて仕方なかった。
いきなり無視されるくらいあかりに嫌われていたのだと思うと――それのにあかりは隣にいてくれたのだと思うと、悲しくて申し訳なかった。
「私、あかりちゃんに謝ってくるね! 何か気づかないうちに悪いことしちゃったんだと思うから」
いても立ってもいられなくなって、朝菜は廊下を走り出す。
吉江はその背中を見送りながら、呆れたようにため息をついた。
「自分が何やったか分からないのに、謝っても無駄だと思うけどね」

あかりは教室で椅子に座っていた。朝菜が近づくのを見て素早く立ち上がる。
「あかりちゃん!」
「……っ」
あからさまに顔を背けて廊下に出るあかりを、朝菜も小走りで追いかけた。
「待って、お願い、少し話そうよ」
「話すことなんてないわよ」
あかりは険しい目で朝菜を睨みつけてくる。何がなんだかさっぱり分からないけれど、このままではいけないと思った。
「ごめんなさい!」
「は?」
「私、何か悪いことしたんだよね。でも鈍感だからあかりちゃんが怒ってる理由も分からなくて……本当にごめんっ」
そう言って朝菜が直角に勢いよく頭を下げれば、あかりは呆気にとられて目をぱちくりさせる。けれどすぐに唇を引き結び、暗く険しい表情に戻った。
「別に怒ってなんかないし……謝られても困るんだけど?」
そう言うあかりの眼差しは暗くて冷たい。
「そ……そっか、ならいいんだけど……私、何かやっちゃったのかなって思って」
「用は他にない? ならもう行くね」
あかりは拒絶するかのように言い放った。
「待ってよ。……あかりちゃん、やっぱり怒ってる」
朝菜の言葉に返事はない。あかりとの間を透明な壁に隔てられてしまったかのようだった。
「悪いところがあるなら遠慮しないで言ってね。すぐに直せないかもしれないけど、私、頑張るからね」
朝菜の必死の声を無視して、あかりはフイと顔を背ける。
もう話したくないと言われているみたいで、心が痛かった。
「あ、藤沢くんっ」
朝菜に向けていた態度を一変させて、あかりが足を歩み出す。明るく弾んだ笑顔の先には、響がいた。
「……アカリ」
いつものように無感情な顔を向ける響に、あかりは明るく話しかける。
「次、移動だよ。音楽室はそっちじゃないよ。どこに行くつもりなの?」
「……」
響は静かにあかりを見て、それから鋭い視線を朝菜の方へやった。朝菜は話しかけるべきか一瞬だけ悩んで――そしてすぐに、あかりたちに背を向ける。
体の向きを変える瞬間、響が口を開くのが見えた気がした。それでも朝菜は急いで歩を進める。響に話しかけられたくなかったのだ。そのためなら、逃げていると思われても構わない。
――分かったのだ、あかりが朝菜を無視した理由が。それはきっと、単なる嫉妬だった。
「朝菜」
朝菜の思いを裏切るかのように、はっきりとした声で名を呼ばれた。怒っているような声だ。感情のこもった響の声を聞くのは初めてで、朝菜は戸惑いながら立ち止まる。
あかりにまた睨みつけられているだろうと思うと、怖くて振り返ることができなかった。
「ど、どうしたの?」
「……教科書は?」
「あ、はい。ありがとう。すっごく助かったよ」
「……別に構わない」
いつもの響じゃない、と朝菜は思う。里ならともかく、学校で響がこんな風に話すなんておかしい。
「……っ」
朝菜は戸惑いながら響の隣へ目線を移動させた。案の定、あかりは眉をしかめ一点を睨みつけている。意外にも、あかりが睨んでいるのは朝菜ではなく響の方だった。
「……あと、無視するなよ。何があったか知らないけど、話ならいつでも聞くからな。朝菜が元気ないと、こっちまで調子狂うから」
「へ? 響君っ?」
朝菜は思わず驚きの声を上げる。
響が響らしくないことを言った。話しているだけでも珍しいのに、今のセリフは録音したいくらい超稀少だ。
明日はヤリが降るかもしれないから外出は控えようと朝菜は決意する。
「……心配して、言ってるのに」
朝菜の心の声に、響はすぐさま反応した。いつになく饒舌だ。普段からこのくらい話せたら、クラスで孤立することもなくなるかもしれないのにと思う。
「あ、ごめんごめん。でも珍しくて珍しくて」
「……今の記憶、あとで消す」
響は不機嫌そうにつぶやいた。どうやら表情には出ないが照れているらしい。
「ううん、消さないで。覚えておきたい」
朝菜は慌てて首を横に振った。思いがけない言葉にびっくりしてしまったたけれど、心配してもらえたのは素直に嬉しい。
「……どういたしまして」
朝菜の心の声が聞こえたらしく、響は小さくつぶやいた。そこで朝菜はハッとする。あかりの前で不用意な会話をしてしまった。
「あかりちゃ……」
とっさに名前を呼ぶ。けれどあかりはすでにいなくなっていた。いつの間に立ち去ったのだろう。
「うー。どうしよう。なんか、悪いことしちゃったね」
まさか響の能力に気づかれることはないと思うけれど、ますますあかりとの間がこじれてしまいそうだった。
心の声も交えて二人以外には何のことだかさっぱり分からない話をしてしまったのだ。あかりが居心地が悪くて無言で去ってしまったのも仕方ない。
あかりは響を好きだと言っていたのだから、朝菜は速やかにこの場を去るべきだった。
そもそも響はどうしてわざわざ話しかけてきたのか。
朝菜は話しかけられたくないと思っていたのに。響はあかりの気持ちを心の声で聞いて知っているはずなのに。
――まるで人の心の声が聞こえていないみたいだ。
「響君、どうしてわざわざ話しかけてきたの? しかもあかりちゃん無視して」
「……ごめん。嫌がらせ」
何の感情も込めずに響がさらりと言ってのける。なるほど、あかりの気持ちも朝菜の置かれた状況も理解した上での行動というわけだ。
「どうして? 気づいてるよね、あかりちゃんの気持ち」
「……」
響は無言で頷く。
あかりの気持ちは迷惑だと言わんばかりの表情だった。
「……うるさいよ、アカリの声。頭の中にガンガン響く。近くにいたくない。……つらくなるから」
響は怒りの感情を浮かべるでもなく、淡々とした口調で告げる。
常に神経を尖らせなくてはならない帯電体質の人間にとって、不用意に近づいてくる存在はうっとうしいばかりらしい。それでも、他にもっとましな言い方があると思った。
「あかりちゃんはいい子だよ、すっごく。話してみたら分かるから。あ、そうだ、響君って好きな子とか、いる?」
朝菜は少しでも情報を集めてあかりに協力しようとする。響は朝菜の顔を正面から見据えて、大きなため息を吐いた。
「……鈍感」
「え? なんて? いないの?」
「いるけど」
アカリじゃないことは確かだよ、と響は言う。
どうしてそこまであかりのことを嫌っているのだろう。
「……それは、アカリが嘘つきだから」
「嘘つき?」
何のことか見当もつかなかった。嘘の一つや二つは誰にだってある。だからそれだけでは嫌う理由には不十分な気がした。
「……聞かないんだ? 嘘の内容」
「聞かない。心の中を覗き見るみたいで悪いから。でも私、あかりちゃんに変な誤解されてギクシャクするのは嫌なんだけど」
「……変な誤解?」
何もかも分かっているくせに聞いてくる響が腹立たしかった。
「だからその、ごめん、学校で私に話しかけないでほしいの」
授業の開始を告げるチャイムが鳴り響く。
――言ってしまった。
朝菜の心の中は後悔に満たされていく。でもあかりを裏切らないようにするには、こうするしかないと思った。
「……わかった」
響は動揺した風もなく頷いて、それから小さくつぶやく。
「さっきは、ごめん」
珍しく沈んだ表情で謝られて、朝菜の方が焦ってしまった。
「う……私こそ。自分勝手に要求押しつけてごめんね。あと、あかりちゃんって本当にいい子だよ、本当に」
「……」
響が何かいいたげな視線を向けてくる。
「何でも積極的だし、明るくて大勢の人をまとめられるし……そりゃ、最近は、ちょっと変かもしれないけど。でもきっと何か理由があるんだよね。うまく聞き出せたらいいのにね。うまくいかないね」
能力を得てからだろうか、あかりの行動は以前と確実に違っていた。その理由を察せないことが、無二の親友として歯がゆい。
自分にも心の声が聞こえたらいいのにと強く思った。あかりの気持ちも響の気持ちも、朝菜にはよく分からない。もしも分かったなら、響みたいにいつも冷静でいられるだろうか。迷わなくても済むだろうか。
「迷うよ。心の声なんか、聞こえなくていい」
響はそう呟いたけれど、やっぱり『声』を聞ける能力が欲しいと思ってしまう朝菜だった。

「『心』関連の能力? いらねぇ、金をもらったっていらねぇ」
昨日あったことを話せば、陸也はいかにも嫌そうな顔を作った。
暖かい木のにおいに包まれた丸太小屋の中は、壁一面の窓のおかげで電灯がなくても十分に明るい。
「そうかな。私は欲しいけど……」
休日の朝七時。長老宅の居間には朝菜と陸也だけがいた。
陸也は紅茶をカップに注ぎながら、不満そうにため息をつく。
「何でだ? 心の声が聞こえたら、困ることがたくさんあるだろ。聞こえてしまって後悔することだって、きっと」
「それは分かってるよ。でも……うまく言えないけど、今よりもっと視界に光が差して見えないかな? 人と付き合いやすくならないかな?」
「ならない」
陸也はいつになくきっぱりと否定した。
「朝菜はあいつが、響が他人とうまく付き合えてると思うのか? それにオレの幼なじみも人の心を操る能力を持っていたけど、そのせいでいつだって悩んでいたぜ」
陸也の幼なじみとは、響の姉、奏のことだろう。月見里の中でも藤沢家の人たちは、代々「心」関連の能力を持っていた。
「人の心なんて、人の手に余る。見えない、聞こえない、操れない、壊せない……それが一番いいんだ」
陸也の言葉にはとても説得力があった。奏のことで過去に何かあったのかもしれない。
「さあさ、時間だぜ」
陸也は話を打ち切ると、立ち上がるよう朝菜に促した。テーブルごしに無造作に差し出された手に、朝菜はついつい躊躇する。
「嫌そうだな、おい」
手を取らないでいる朝菜を見て、陸也は少し苦笑した。
「う……だって、気持ち悪いよ?」
「観念しろよな。これ以外の交通手段だと絶対に遅刻だぜ」
そうは言ったものの、陸也は空中に指を走らせ始める。
描き出されるのは、西の本にあった風の紋章。ぼうっと浮かび上がった水色の輪は、お手本みたいに綺麗だった。
陸也は朝菜の手を強く握り、精神集中のための呪文っぽいものを詠唱する。
「『大地を舞い踊る風よ、ここに集いて力を示せ――瞬間移動』」
移動酔いに効くかどうか分からないちっぽけなおまじないだけど、朝菜にはその気遣いが嬉しく感じられた。
いつもより緩やかな風に包まれて、周りの景色がぐにゃりと曲がっていく。風が止んだ時、朝菜と陸也は月見里の外に瞬間移動していた。
「ここは……?」
目の前にはいつもより少しお洒落した自分の姿がある。瞬間移動した先は、停止している狭いエレベーターの中だった。
誰にも見られないという点ではいいけれど、誰か他の人が乗っていたらどうするつもりだったのだろう。
「酔ってないか?」
鏡の中の陸也が心配そうな表情で尋ねてくる。朝菜は大丈夫だよと小さく頷いた。
「よかった。やっぱり準備があった方が術が安定するのか?」
「そうだね。私が慣れただけかもしれないけど」
陸也が一階のボタンを押せば、ガコンという大きな音を立ててエレベーターが動き出す。薄暗い照明が不機嫌そうに瞬いた。
「まあ、今度から瞬間移動する時は紋章と呪文詠唱を忘れずにするよ。特に朝菜や智と一緒の時は」
「ありがとう。うん、そうしてもらえると助かるよ。陸也君は優しいね」
「誉めても何も出ないぜー? まあ、前みたいにいきなり倒れられたら面倒だからな」
そう言って明るく笑う陸也を見ていると、なぜか心が落ち着いてくる。
「……のに」
「ん? なんか言ったか」
「私にも南ちゃんや央君みたいに……陸也君みたいなお兄さんがいれば、良かったのに」
陸也は嬉しそうな顔をして、朝菜の頭をわしわしとなでた。
「だーかーらー、誉めてもおだてても何も出ないって。急に何だー?」
「う、ううん。何でもないよ、別に」
朝菜は照れくさくなって顔をふいと背ける。
その時ちょうどエレベーターの下降が止まり、安っぽいベルが鳴った。
薄暗い駅のホームに人はまばらで、陸也と朝菜の方を見てくる人はいない。自動改札機を瞬間移動ですり抜けて、朝菜たちは駅前の喫茶店へ向かった。
「うー……やっぱり気持ち悪いよ」
「ごめんごめん、でも仕方ないだろー? あそこで立ち止まってたら目立つんだからな」
朝菜は胃がひっくり返るような気持ちの悪さを覚え、ぐったりと頭をさげる。
陸也は瞬間移動に酔って柱にもたれかかる朝菜を見て苦笑した。
「そんなに気持ち悪いもんなのか? よくわかんねーな、オレには」
「そりゃあ、陸也君には分からないよ……」
朝菜は不満混じりにつぶやく。瞬間移動するたびに酔う瞬間移動能力者がいたら会ってみたいものだ。
(瞬間移動に酔う陸也君なんて……えっと、タイの入っていないタイ焼き?)
「……それを言うなら、タコの入っていないタコ焼き」
心の声に横からツッコミが入る。びっくりして顔を上げれば、ほんの六メートルほど先に響が立っていた。
いつも学校で見るのと同じ鴉色の学ラン。ボタンをきっちり閉めて、暑くはないのだろうか?
冷ややかな目で、陸也が響をにらみつける。朝菜たちには絶対向けない、敵意に満ちた目だ。
「お前、何しに来た?」
「……別に」
「嘘つけ。どうせ長老の差し金でオレたちの監視をしてるんだろ?」
「……」
「あー、オレ、つくづく長老からの信用ねえなー。何かあっても朝菜一人くらい守れるってのに」
陸也が嫌そうに言うのを無視して、響は朝菜の方に視線を向ける。
朝菜、と名前を呼ばれ、朝菜は何を言われるのかと少し身構えた。
「……タイ焼きにタイは入ってないよ……狐うどんに狐の肉が入ってないのと同じ」
「え? あ、うん。そう言われるとそうだね」
朝菜は間違いに気づいて頭をかく。その会話を聞き、陸也は不可解だとでも言いたげな表情を作った。
「……それと報告。朝菜と……チェシャ猫に、長老から」
響が急に陸也の方へと話を振る。どうやら長老に命じられてわざわざ朝菜たちを追ってきたようだ。
「なんだよ?」
嫌な伝言であることを警戒してか、陸也の表情が険しくなる。響は相変わらずの無表情で淡々と告げた。
「……長老は怒ってる。ルカにもチェシャ猫にも、それからアカリにも」
駅前の道をひっきりなしに車の列が流れていく。道の端で立ち話する朝菜たちを避けて通る人々は、何か見えないものに急かされているかのようだった。
「……長老の決定を、そのまま言う。まずカードを作ったルカには厳重注意。カードを里外の一般人の家に放置したサトルは、今度里に来たら命はない」
響の言葉が示すことを理解して、朝菜はハッと息をのむ。あかりに関する一連の騒ぎが里の長老にバレたのだ。
(……なんで?)
朝菜はもちろん言っていない。陸也たちだって簡単に口を割らないはずだ。どこから長老に察知されたのか見当もつかない。
「……カードに込める能力をルカに提供したチェシャ猫は、後で厳罰」
「嘘だろ。ルカに――あんなちっちゃい子に『悪戯したいから手伝ってほしいの』なんて頼まれたら断れねえだろ人間として!」
「……断れよ、人外」
響は珍しく荒れた口調で突き放した。
陸也は重たいため息をついて頭を抱え込む。でも普段から怒られ慣れているからか、大したショックでもなさそうだった。むしろ朝菜にとってはその先が気になる。
「事態を知りながら報告しなかった人間……朝菜とリクヤ、桜ノ宮の長女と次男は一週間の里内謹慎処分」
陸也が普段から喰らっている程度の軽い処分で、朝菜は正直なところほっとした。しかしやや間を空けて、響が冷たく宣告する。
「……最後。アカリを里に連れて来い。そういう命令が下った」
「なんだよ、それ。ふざけるなよ?」
陸也が即座に噛みついていった。響につかみかからんばかりの勢いだ。
朝菜は慌てて陸也の腕をギュッとつかむ。そうしないと陸也は響に殴りかかりかねないと思ったのだ。
里内なら単なる衝突で済ませられるが、人目のある今の状況では絶対にまずい。
「今、自分の名前を言わなかったよな? お前だけ処罰なしかよ。つまりお前がその子のことを告げ口したのか……?」
響は肯定も否定もしないで、感情のこもらない醒めた目を陸也に向けるばかりだ。
「長老に売ったことになるんだぜ、灯さんとやらを。お前にとって朝菜は友達で、その朝菜の親友だろ? ならお前にとっても灯さんは仲間じゃないのか? 告げ口して自分だけ長老からの信頼を得ようなんて、普通なら考えもしないよなー」
何も言わない響を見るや、陸也はきつい口調で問い詰める。
「何か言えよ。本当にそうなのかよ? だったらお前って最悪だな。本気で見損なった! もともと長老の駒だとは思っていたけど、まさかここまでとはな」
陸也は別人のように冷淡な顔をしていた。響の前ではいつもそうだ。天敵に会ったみたいに態度が一変する。
「俺はお前を許さないからな。奏の弟を不幸にすることだけは、絶対に――」
「陸也君、もうやめようよ。そんなに言っても仕方ないよ……」
朝菜は険悪な空気に耐えかねて口を開いた。響が目の前にいるときの陸也の言動だけは、どうしても好きになれない。
「ふーん、朝菜はそいつの肩を持つのか」
嫌な言い方で返されて朝菜はムッとした。
「そういうことじゃないけど、でもどうして響君が情報をもらしたなんて思うの?」
「そいつじゃなかったら他に誰がいるんだよ。南や央か? オレか? へー、朝菜は疑うのか、里の仲間を」
「響君だって里の仲間じゃ」
言い返そうとした朝菜を止めるように、響がぱちんと指を鳴らす。近くで小さく静電気がはじけて、ぎくりと身体が硬直した。
「……仲間違う。あと、密告はしない」
さらりと訂正されて、朝菜は「あ、うん」と素直に頷いてしまう。
「まあ、そうだよな。長老なら密告されなくても知ってて当然か。あの人の能力は底知れねえよな」
今回は陸也も素直に納得したようだった。肩をすくめて爽やかに苦笑する様を見ていると、本当に機嫌の変わりやすい人だと思う。
「しかしその気になれば自分で何でもできるくせに、長老はどうしてこうもお前を使いたがるかな? ご愁傷様だぜ、ほんと」
「……お互いに、ね」
二人は緊張感のある空気を保ちながら、互いに目を合わせて小さく笑ったようだった。
「……来る」
錫が鳴らされたような声で響がつぶやく。ほどなくして、その予言の通りに改札の向こう側からあかりが姿を現した。
ガーリッシュな若葉色のワンピース。いつも通りお洒落な姿のあかりに、朝菜はぶんぶんと手を振る。
「こっちこっち! 遅かったね、混んでた?」
「ううん。えっと」
あかりは控えめな視線を陸也の方に向けた。陸也は先ほどまでの険悪なやり取りもどこ吹く風とばかりに、爽やかさ満点の笑顔を浮かべる。
「俺は陸也。朝菜の兄だ。話は聞いているよ。よろしくな、斉藤灯さん」
「え?」
あかりは一気に不審そうな、困惑した顔になる。朝菜は慌ててフォローを入れた。
「本当のお兄ちゃんじゃないんだけどね、その、兄みたいな存在というか!」
「うん……?」
あかりはなにやら腑に落ちない顔で、でもとりあえず頷く。朝菜は陸也に目線で苦情を寄せた。
兄だというのは警戒を解くための嘘なのだろうが、あかりはすでに朝菜の家族構成を知っている。そのくらいのこと、怜悧な陸也なら推測できて当たり前だと思った。
たまにこういう軽率なところがあるのが、なんでもそつなくこなす陸也の唯一ともいえる欠点だ。陸也らしいといえば、陸也らしい。
「ま、とりあえず話を聞かせてくれるか」
陸也はしまったという顔をして、話題を無理やり他にそらした。
ふと見れば、響の姿が見当たらない。あかりに見つからないように姿を消したようだった。
駅前の適当なベンチに腰掛ける。背にした噴水から飛散する霧が、肌をひんやり冷やしてくれた。
「あかりさんって超能力があるんだってな」
ものすごく単刀直入に陸也が口火を切る。あかりは緊張したように身体をこわばらせた。
「言ったの? 朝菜ちゃん」
「うん、ごめんね」
そういえば、あかりに許可をとらずに能力のことを話してしまった。少し申し訳ない気持ちになる。
「でも陸也君は信頼できるよ。えっと、超能力に興味があって、色々調べているんだって。きっと力になってくれるよ」
「超能力に……?」
あかりは当然のことながら興味をもったようだった。困惑と好奇心の入り混じった視線で陸也を見る。
「うん、超能力において俺に勝る才能や知識を持っているやつは、あんまりいないと思うぜ。聞きたいことがあったら聞いてくれよな」
そう言った後で、陸也は小さく苦笑した。
「あかりさんの能力については、特に、な」
朝菜は陸也が自分の能力について感ずかれるようなことを言ってしまうのではないかと気が気ではない。
あかりはしばし考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「……あなたが何を知っていても、それは、知識でしかないんじゃないですか」
それは拒絶するように厳しく、硬い口調だった。
「どういう意味だ?」
「だから、知っていることと分かるってことは違うと言っているんです」
遠まわしだが、朝菜にはあかりの言いたいことがぼんやりと理解できる。
「私、不安なんです。超能力があると分かってから、自分が自分じゃないみたいで。本当の私って何なんだろうか、分からなくって」
陸也は不思議そうに首をひねって、それから明るい笑顔を浮かべた。さも何でもないことのように、軽く言ってのける。
「能力があろうとなかろうと、自分は自分、それ以外の何者でもないだろ」
それが考え抜いた末に出された答えだと知る者には、重たすぎる言葉だった。けれど陸也の何も考えていなさそうな笑顔だけを見て、あかりは憎悪のこもった視線を向ける。
「そんな風に私の悩みを軽く言わないでくださいっ!」
叫ぶように言って、あかりはベンチから勢い良く立ち上がる。
「軽くはねーよ。でも、当たり前のことだろ。能力があると知って、朝菜のあかりさんに対する態度は何か変わったか?」
「それは……」
「変わらないだろう。それが本当の友達だ。能力なんて関係ねーんだよ」
陸也は冷静に続けた。揺らぎのない言葉を前にして、あかりが揺らいでいくのが分かる。
「でも、朝菜ちゃんだって、心の中ではどう思っているか分からないじゃないッ!」
思いがけない言葉に、朝菜の脈動はひときわ速くなった。陸也は朝菜とあかりを交互に見て、ふうと重たいため息をつく。
「まあ、分からないよな。俺たちみんな、平等に分からないんだぜ。心の声を聞く能力でもない限り、な」
あかりはわなわなと震える唇をぎゅっとかみしめた。
「分からないんだから、結局は――相手を信じるかどうかの問題だ。違うか?」
陸也のあくまでも沈着冷静な言葉に、あかりは行き場のない不安と困惑によってつむがれる怒声をぶつけた。
「あなたに何が分かるんですか。人と違う超能力を持ったこともないくせに!」
地面を蹴り、あかりは駆け出していってしまう。その背中を引き止める言葉が見つからずに、朝菜はただうつむいた。
「ごめん」
沈黙の中、陸也がいきなり頭を下げる。
「どう言っていいか分からなかった。ごめん」
「ううん……陸也君が謝る必要はないよ。何も口を挟めなかった私も悪かったから」
同じ状況に立たされたことのある朝菜には、あかりの気持ちが良く分かった。
ある日いきなり能力の存在に気づき、自分が自分でなくなったように感じる、あの言い知れぬ不安。足元にあった確かだったはずのものがガラガラと崩壊していくような、恐怖――。
それらは、生まれつき能力を持っていて能力のある自分が当たり前になっている陸也には、理解し得ぬ感情だろう。
「それとさ、言おうか迷ってたんだが……言った方がいいよな? 一応」
「え?」
「組織の奴らがいる」
陸也に耳打ちされて、朝菜は目をしばたかせた。頭から冷や水を浴びせかけられたように感じられる。とっさに周囲を見渡そうとして、思いとどまった。こちらが気づいていることを相手に悟られるのは、よくない。
「あかりさんを尾行してるみたいだな。あかりさん尾行継続と俺たちの監視で二手に分かれたか」
こっそりとささやかれるが、朝菜はただ陸也の感知力の鋭さに驚くばかりだった。絶対、瞬間移動と透視以外にも能力を隠し持ってる気がする。
「まあ何かあったら近くにいるだろう響が対処するだろうから、心配はいらないだろうけど。このオレもいることだし」
「おじいちゃんは、そこまで分かっていて響君にここまで来させたのかな」
だとしたら、すごいと言うほかない。さすがは月見里の里長をやっているだけあるなと思った。
「とりあえず、あーちゃんの能力はもうじき消えるだろうことは感覚で分かった。それまで使わせなければいいんだ、オレたちは。――行こうか」
陸也に差し出された手を、朝菜は躊躇なく取った。その瞬間、体が透き通った風に包み込まれる。
瞬間移動した先は、歩道橋の下だった。車の往来はそれなりにある。誰かに見られたらどうするんだろう、と朝菜は呆れた。だが、生まれながらにトラブルメーカーな陸也に何を言っても無駄だろう。
あかりは手すりにもたれかかり、流れる車の群れをにらむような目つきで見下ろしていた。
「あかりちゃん!」
朝菜は思わず駆け出す。その存在に気づいて、あかりは表情を険しくした。きびすを返し、逃げるように歩き始める。
「ねえ、待ってよ、話、しようよ……!」
必死で叫んで走り出した朝菜に、あかりはくるりと振り返った。やっと話を聞いてもらえる。そう思って息をついた朝菜に、険のある言葉が突き刺さった。
「名前、呼ばないでくれる?」
「えっ」
「本当はさ、私、ずっと朝菜ちゃんのこと、嫌いだったんだよ?」
唇の片端を吊り上げて、あかりは哂う。笑顔にしては不自然で、泣き顔にしては苦しそうで、怒った顔にしては悲しげな表情だった。
朝菜は胸を衝かれたような衝撃を感じた。
「……っ。嘘……」
息ができない。熱いものが体の芯からこみ上げてくる。
(真っ黒になっちゃえばいいのに)
このぼんやりとした視界が、そのまま明るさをなくせばいいのに。そして再び光が網膜に映るとき、朝が来たと知ることができれば、どんなにか嬉しいだろう。――これが夢なら。どんなにか幸せだろう。
「嘘じゃないよ。朝菜ちゃんなんかいなくなっちゃえ、私の前から消えちゃえ! 嫌い! 大っ嫌い!」
慟哭のような叫びが、朝菜の一部を確実に削りとっていく。悲しくもなければ、怒りもなかった。ただ瞳から水を流して立ち尽くすことしかできない。感情を抱くことを、心が拒否していた。
「ストップ」
息を切らして肩を上下させるあかりに、陸也が制止の声をかける。
「それ以上朝菜を傷つけることを言うと、寛大なオレもさすがに怒るぜ」
陸也の瞳に映った煮えたぎるような怒りに、朝菜は涙と嗚咽が一気にこみ上げるのを感じた。自分のために本気で怒ってくれるひとがいることが、すでに緩んでいた涙腺を完全に開放する。
「……っく、ありがとう……っ」
肩を震わせて泣く朝菜の頭を、陸也がいつものように優しく微笑んで撫でた。温かい手に、凍りついた心が少し解けたのが分かる。
「礼はいいから泣くな。泣き虫。なあ、あかりさん、一応謝ってくれるかな? 今のはさすがに朝菜が可哀想だろ。二人とも、友達だったはずなんだから、一度きちんと話しあ」
「うるさいっ!」
鋭い怒声と共に、ヒュッという風の音が空気を切り裂いて飛んだ。一直線に放たれたそれは、陸也の頬に一条の血の筋を残す。陸也は笑顔をこわばらせた。
「ちょ、落ち着けよ、あかりさ……」
「うるさいうるさいうるさい! 何よ、何よ、私が全部悪いっていうのっ?」
あかりの身体が能力をまとってふわりと宙に浮かび上がる。伸ばされた手の先に、風の弾丸が形作られていった。
「いいよね、朝菜ちゃんは! いつだって味方がいるもの! 贔屓されているもの!」
怒りを込めて放たれた数撃を、陸也が朝菜をかばって腕で受け止める。鋭利な紙に裂かれたような切り傷が、わずかの間に数を増やしていった。
「自分が一番正しいって顔しないでよ。どうして朝菜ちゃんは、困ったときに誰かに必ず助けてもらえるわけ? 何があっても周りに誰かがいるわけ?」
「あかりさ……」
「むかつくのよ! いつも笑顔だから、明るいから……? 馬鹿じゃないの! 可愛いから人に好かれるのよ、人に好かれるから明るくいられるのよ! 私にどうしろと? 朝菜ちゃんみたいに人に無条件に好かれるわけではない私が、無条件で明るくいられるわけないじゃない……!」
あかりの攻撃は熾烈さを増している。陸也が能力に干渉して力を弱めているが、それができるのは自分自身の能力だからだ。もしも他人の能力だったら、今頃陸也の腕は骨が見えるくらいひどい有様になっていただろう。もともと能力のコントロールを勉強したことのないあかりだが、怒りで我を忘れることで完璧に能力が暴走していた。
「朝菜ちゃんなんか、私みたいに努力しかとりえのない人間の気持ち、分からないでしょ。勉強でもスポーツでも、頑張れば頑張るほど敵意を持たれるのよ。生まれ持った親和性だけで苦労せずに済んできた朝菜ちゃんに、私の気持ちがわかってたまるか。朝菜ちゃんなんか嫌いよ……明るくて、可愛くて、優しくて、みんなに好かれて……それなのに、心は強くて」
あかりの声は急に勢いをなくして、穴のあいた風船みたいにしぼんでいく。
「どう頑張っても私は朝菜ちゃんみたいになれないわよ、どーせ。だから、大嫌いなの。目障りなの。一度くらい、周りに誰もいなくなる孤独を味わって泣けばいいのよ」
その言葉を最後に、あかりの姿は消えた。瞬間移動した先は、朝菜たちから一メートルほどの場所。細い手すりの上に重力やバランスを無視して立ち、あかりは憎悪のこもった笑みを浮かべて朝菜を見下ろす。
「私……あかりちゃんが言うような人間じゃないよ。周りに誰もいなくなって泣いたこと、あるよ。明るさだって笑顔だって、見栄を張って繕ってる……!」
「なに言ってんの。朝菜ちゃんは困ったとき、いつもそばに味方がいるじゃない。大して苦労しないで障害を越えられるじゃない」
「確かにそうだよ。でも、いつでもそばにいて、私を一番いっぱい助けてくれたのは、あかりちゃんだよ……?」
朝菜の震える声に、あかりはハッとしたような表情を浮かべた。
「支えてもらったのに、私、何も返せてなかったんだよね……。ごめんね、本当に、ごめんね」
嗚咽交じりでうまく言葉にできないけれど、どうしても言いたいことがある。
「それなのに、こんな私と一緒にいてくれて、ありがとう……っ」
朝菜は壊れたテープみたいに、ごめんね、ごめんね、と繰り返した。怒りで我を忘れるくらいに不満を溜め込んでいたのに、あかりは朝菜のそばにいてくれた。いさせた、のかもしれない。そのことが申し訳なくて、これまでのあかりとの思い出を想うと胸が締め付けられた。
大好きな友達。
たくさんのものをもらったと思っていた。けれど、それは、知らず知らずのうちに、「奪っていた」のかもしれない。
「朝菜ちゃ……」
あかりが小さくつぶやいた。これまでのヒステリックな口調とは違う静かで湿った声に、朝菜は顔を上げる。そして、その瞬間、ぞわりとした不吉な予感が全身を駆け抜けた。
絶え間なく発されていた能力の気配が、ろうそくの火に息を吹きかけたみたいに消える。
急にあかりの身体は支えをなくして、ぐらりと傾いだ。
「あ……」
あっけにとられたようなあかりの顔が、歩道橋の手すりの向こうへと倒れていく。
朝菜はとっさに身を呈して、あかりの足にすがりついた。
けれど足を持って支えられるはずもなく、朝菜の身体も歩道橋の外へと引きづられる。
駄目だ、と落下を覚悟して目を閉じかけたとき、浮遊感に身体が襲われた。
瞬間移動――そして、念動力だった。
道路の上空にふわりと浮いた朝菜とあかりを見上げて、陸也は安堵したようにため息をつく。
「ようやく切れたようだな、カードに込めていた能力。……まったく、こんなタイミングで切れることないのに」
朝菜とあかりの身体は、何事もなかったかのように歩道橋の上に着地した。
「あ、ありがとう。助かったよ」
「まったくもう。無茶すんなよ、朝菜。オレがいなかったら道路に真っ逆さまで、どう考えても死んでたぜ?」
そんなことは、言われなくても朝菜本人が一番分かっている。けれどあの瞬間は、自分の心配なんてこれっぽっちもせずに、ただ親友の身を案じて動いてしまっていたのだ。
あかりは口をぽかんと開けて、自分の身に何が起こったのかさっぱりわからないようだった。不思議そうに握りこぶしを作ったり解いたりして、目を皿みたいに円くする。
「嘘! 超能力が使えない……!」
陸也はちょっと苦笑して、あかりに優しく語りかけた。
「よかったな。もとに戻って。ちなみに、カードに込められていた仕掛けで、あかりさんは偶然、一時的に能力を手にしただけだったんだぜ」
「え? あ……」
「普段といろいろ違って、大変だっただろ? 能力を使えなかった時期のないオレには、あかりさんの気持ちは想像することしかできないけど……。本当によかったな。元に戻れて。オレもホッとしたぜ」
「……お兄さん、一体……?」
あかりが唖然とした表情でおずおずと訊く。陸也は親指を立てて、爽やかに笑った。
「ただの通りすがりの能力者」
どこらへんがただの通りすがりなのか、本気でわからない。あかりは一瞬あっけにとられたけれど、次の瞬間、顔の筋肉を緩ませた。あはは、と声をだして、とてもおかしそうに笑う。
「あれ? そこ笑うところじゃねーぞ」
真面目に言う陸也の表情が面白くて、朝菜も思わず笑みを浮かべた。
「……仲直り? 人に仕事押し付けて」
いつの間にか背後にいた響が、若干とげのある口調で言う。どうやら影で組織の人をどうにかしてくれていたようだ。能力を使うと、能力者にだけ分かる気配のようなものがする。先ほどから能力使用のオンパレードで、響はさぞかしたくさんの組織の人を追い払ったのだろう。
「ごめんなー。疲れたか? 何ならオレが交代してやろうか?」
いつになく親切に陸也が言うが、響は表情ひとつ変えなかった。
「……いい。周り、全部囲まれている」
「は?」
「……来るよ」
響がそうつぶやくやいなや、歩道橋の手すりに一人の人が、引きずるように長いマントの裾をはためかせて着地する。フードの端からのぞく唇が、にい、と不吉に笑った。
「また会ったなあ。チェシャ猫、水瀬陸也」
「ロゼット……!」
陸也が組織の炎能力者と対峙する。二人は昔からの天敵らしく、お互いの姿しか見えていないようだった。
響は少し離れたところで地面にしゃがみ、直径が身長ぐらいありそうなほど大きな紋章を描いている。見渡せば、周囲には私服だが明らかに一般人とは雰囲気の違う者たちがいた。
結界も張らずに能力を使いまくったことで、余計な面倒をたくさん引き寄せてしまったらしい。
「朝菜、あかりさんの手を引いて走れ! とりあえず駅まで!」
「う、うん!」
陸也の声に従い、朝菜はあかりの手を引き、駆け出した。大勢相手だとはいえ、響は楽勝だろう。里では長老の次に強いとされているのだ。問題は陸也だが、ロゼットとはいつも互角の勝負を繰り広げていると聞いた。ならば、足手まといがいてはいつかのように勝敗に関わるだろう。
以前、学校で逃げた時とは違う、信頼という確かなものが朝菜の胸にはあった。
全速力で走りながら、あかりが息も絶え絶えに言う。
「朝菜ちゃん……どういう、こと……?」
なんといったものか、迷った。けれどあかりには、嘘をつくことも、ごまかすこともしたくない。
「私の故郷はね、超能力者の隠れ里なの」
揺れる視界、跳ねる鼓動。地面を蹴る、心地よいリズム。繋いだ手に、力を込めて。頬を触る風に、瞳を細める。
苦しくなる胸にいっぱいの空気を吸って、朝菜は訊く。それは、いつかの。本当は朝菜が、あかりに問いたかった言葉。
「ねえ――もし不思議な能力を持っていたとしても――それでも、私は私だって言ってくれるよねっ?」
前を見ていたから返事は分からないけれど。
答えは、きっと。