現代ファンタジー小説「涅槃西風」

(C)ぱくたそ

月見里 番外編

校舎の窓から見る空は、どこまでも高く冴え返っていた。夏疾風が薄いクリーム色のカーテンを激しくはためかせ、温い空気に慣れきった肌を優しくなでていく。
私、篠田 杏子は箒を申し訳程度に握りしめたまま、窓枠の向こうに広がる青空をぼんやりとながめていた。
青い水彩絵の具で線を引いてその上に水を何層も重ねたように薄い空のグラデーションが、乾いた瞳を癒していく。
周囲でひときわ高く上がった歓声を耳にして、私は開放感に満ちていた意識を渋々教室内へと戻した。生徒を閉じこめるちんけなコンクリートボックスの中は薄暗く、窓からの光に宙を舞う埃がおぼろに浮き上がっている。
今は掃除の時間だが、本当の意味でそれを理解している人間はおそらくこのクラスには一人もいないだろう。わき返るクラスメートたちを横目で見て、私は憐れみに満ちたため息をこぼした。
「いいぞ、やれ!」
「そこ踏み込みが浅い!」
ホウキを剣に見立てて激しく打ち合う馬鹿な男子二人を野次馬たちが囲み、しきりににはやしたてている。まるでプロ野球を生で観戦しているときのような熱気っぷりだが、やっていることはガキの喧嘩だ。
担任が職員会議で不在なおかげで、クラスのほぼ全員が多少なりとも騒ぎに荷担していた。
誰かを呼びに行けば次の日からいじめられることは想像に難くないから、本当に真面目なごく数人はうつむいて黙っている。
私はただ空を見て、ばかばかしい現実から逃避していた。一緒になって騒ぐほど馬鹿でもなければ、掃除をサボったくらいで痛むような良心も持ち合わせていない。小学校に入学した当初から友達というものに恵まれなかった私は、暇な時間には空を見ることを習慣にしていた。
私は平均以上に運動神経がよく、テストの点なんて満点しか取ったことがない。外見だって、最近まで地元劇団の子役をやっていたくらいだから、決して悪くはない。なのになぜ友達がいないのかといえば――理由は一つしか思いつかない。
学校からの帰り道、偶然通りかかったクラスメートに私がボロ家へ入っていくところを見られたのだ。それだけならまだなんとかなったのだが、タイミングが悪かった。ちょうどその時、私の家を凶暴な顔をした男たちが取り囲み、ドアを殴るようにして叩いていたのだ。
悪い噂は広まるばかりで、止まらない。
私の同級生のご両親たちはご丁寧に、「杏子ちゃんと遊んじゃだめよ」と子どもたちへ言い聞かせてくれた。
どんなに悪党ぶっていても、小学生の子どもなんて親のいうことには従順だ。同級生が親の言いつけを守った結果、私の半径一メートルはいつでもどこでも無人地帯となっている。
まあ、世の中なんて所詮そんなもんだ。
私に友達ができないのは、努力とか性格うんぬんの問題じゃなかった。そのことが私に人間としてのプライドを維持させ、またある種の絶望を感じさせていた。
小学一年生という友達づくりを覚えるスタートの時期に出鼻をくじかれてしまった私には、一人に慣れるという選択肢しか残っていなかった。かくして私は、馬鹿な人間を心の中で侮蔑することが趣味という妙に醒めた小学三年生になってしまったのだった。それが悪かったとか良かったという問題ではなく、ただ私にはこうすることしかできなかったのだ。
「杏子ちゃん、これゴミ捨て場に持っていって」
背後から聞こえた声に振り返れば、眼前に大きなゴミ袋が突き出されていた。
「はあ?」
事情がわからずに問い返せば、侮蔑したような声が周囲から湧き出してきた。
「杏子ちゃんがやればいーじゃん」
「いっつも空見て暇そうなんだし」
「私たちこれから公園行くんだもんねー!」
「ねー!」
極めつけに、私にゴミ袋を突き出している少女――夏薙 瑠衣子が尊大な態度でフンと鼻をならした。
「そういうこと。みんな行きたくないんだし。杏子ちゃんが行ってきなよ」
私は事情を理解すると共に、言い知れぬ怒りを感じる。それでも、感情をおさえつけて静かに答えた。
「わかった」
友達のいない人間は弱者で、弱者は強者には逆らえないのが道理だ。下手に抵抗しても疲れるだけで、得るものなどありはしない。私はこの年にしてすでにそのことを悟っていた。
嫌な顔で受け取ったゴミ袋は思いのほか重たく、また大きかった。あと一言でも私に軽侮の言葉を投げかける人間がいたならば、「この世界って巨大なゴミ箱だね」とほざいて窓からゴミ袋を投げようと本気で考えたほどだ。しかし幸か不幸かそれ以上私に声をかけてくる者はいなかった。
チャンバラをしている連中から離れた位置にある方の扉へ向かう。
――せっかく天気もいいんだし、このままエスケープしようかな?
校舎の裏にあるゴミ捨て場へ行くのなら、いっそのことホームルームを脱走してもいいかもしれない。この澄み切った空の下で薄暗いコンクリートに囲まれていることは、私にとって苦痛でしかなかった。
幸いなことに私の両親の教育方針は「放任」だ。よく言えば自由奔放、悪く言えば超問題児な兄の存在が、両親に子どもというものに対するある種の諦めをもたらした。
幼少の頃から体が弱かったこともあいまって、私は「杏子は元気に育てばそれでいいさ」ということになってしまった。だから学校からいくら連絡がこようとも、決して両親から叱られたことがない。
私は一人で頷いて早退することを決めると、荷物をまとめようと体の向きを変えた。その瞬間――クラスメートの甲高い悲鳴が、私の頭をつらぬく。手首への強烈な一撃が炸裂したらしく、チャンバラをしていた片方のホウキが宙を舞っていた。そしてそのホウキは――運の悪いことに、直線にも近い軌道で私に迫っている。
私は避けようとしても間に合わないことを瞬時に理解し、ホウキを視線でとらえた。
『止まれ』
瞳にぎゅっと力をこめ、心の中に命令の言葉を強く浮かび上がらせる。
次の瞬間、私にとっての世界が藍に染まった。耳の脇を烈風が通り抜けるような錯覚に陥り、頭の中に焼けつくような光がはじける。
――バンッ。
色が戻った視界で床を見下ろせば、叩きつけられたホウキが鈍い音を立てて転がった。
教室に満ちていた喧騒は消え、代わりに重たい沈黙がその場を支配する。
クラスメートの視線が自分に集中するのを感じて、私の背中に冷や汗が伝った。
使ってしまったばかりではなく、見られてしまったのだ。
私はこの場を上手く切り抜ける術を必死に考えて、そんなものはないという結論に至る。
無言でかがむと、床へと落としたホウキを拾い上げた。数歩進むと乱暴に掃除用具入れの扉を開き、中にホウキをぶちこむ。そして自分の机の横に下げていたカバンをつかむと、逃げるようにして教室をあとにした。
私の一挙一動に、クラスメート全員の視線が集中していたのがわかる。
――最悪も最悪、超最悪だ。
私は校舎の裏にゴミを捨てると、先生に見咎められぬよう一目散に校門を駆け抜ける。
私には物心がつく以前から、他の人にはない才能があった。視線でとらえたものすべてを静止させることができるという、極めて特殊な才能が。
親兄弟を含めて同じことができる人間には未だかつて出会ったことがないから、私の能力は珍しいものなのだろう。原理も何も知らないが、できるものはできる。
私の才能を知った両親は、決してそのことを表沙汰にせぬよう求めてきた。
当然だ。異端者であるとみなされて得をすることなど一つとしてない。
私は歩調を緩めつつも家に向かって歩き出した。
ところどころに緑がしげる住宅街はセミの声で溢れかえり、地面から持ち上がってきた熱気により視界がかすかにゆがむ。
夏の香りに誘われて、私の意識は幼いころの記憶へと入りこんだ。
一度だけ両親の言いつけを破り、この能力を友達づくりの武器にしようとしたことがある。結果は推して知るべしだ。
すごーい、という素直な賞賛を期待した私に向けられたのは、畏怖に満ちた視線だった。
そのこともあってか、私はまともな人づきあいができなくなっていった。
能力を恐がられると、私自身が否定されたように感じてしまうのだ。
太陽に焦がされたアスファルトの上で、私は再び空を見上げた。雲すらも蒸発させてしまったのではないかと思うほどに太陽が燃え、青い天井にのしかかられるような錯覚を覚える。
大きく息をはけば、耳元で鈴がなったような音がした。風鈴を思わせる涼しい音色に、軽く空気が震える。風の流れが急にやむのを感じながら、私は視線を地上に戻した。
その瞬間、心臓の鼓動がひときわ大きく耳元に響く。私のすぐ脇に、いつのまにか一人の人間がたっていたのだ。
私はどちらかといえば感覚の鋭い方であるのに、まったく気配を感じなかった。その事実に、私の背筋はすっと冷える。
立っていた人物は、中学生くらいの少年だった。白いカッターシャツの襟元は第二ボタンまで外され、半袖とともに夏らしさを演出していた。柔らかな黒髪に、まだ幼さを残す顔立ち。どこにでもいそうなごく普通の少年だ。
でもどうしてだろう。私は彼から視線をずらすことができなかった。
少年は私の方をすっとまっすぐな眼差しで見据えて、静かに口を開く。
「――予言するよ」
セミたちが少年の声をかき消そうとするかのように、ひときわ大きく騒ぎだした。
夏の合唱をBGMにして、少年は凛とした口調で私に告げる。
「――次に能力を使えば『篠田 杏子』は死ぬよ」

季節はつむじ風のようにめぐりめぐる。
気づけば二年の歳月がたち、私は小学五年生になっていた。
窓の外に広がる水色の空は高く澄み、時鳥の鳴く声が春の訪れを喜んでいる。
「杏子ーっ!」
隣の部屋から聞こえた母の声に、私は机に広げた荷物から顔をあげる。
「お母さん? どうしたのー?」
半分わかっていながらも知らないふりをしてたずねた。胸の奥が軽く弾み、暖かいものであふれていく。
「今日の夕方は出かけるから早く帰ってきなさいね」
私は母の言葉に元気よい返事をして、勢いよく椅子から立ち上がった。
今日は私の誕生日なのだ。毎年、外食をすることが我が家の伝統となっている。
「今日は杏子の誕生日だから好きなもの食べさせてあげるわよ。何がいい?」
ランドセルを背負って障子をあければ、狭苦しい台所に立つ母の背中が見えた。
「親子丼!」
数日前から考えていたことだから、私はさして迷いもせずに即答する。
「そんなんでいいのかしら? 遠慮しなくてもいいのよ」
「それがいいの! ねっ? 今日のご飯は親子丼でいいよね」
私は春の日差しのように明るい声で念押しをした。
「わかったわ。遊ばずに直帰するのよ?」
「うん、今日は天気もいいから最初っから午後の授業を受ける気ないよ。絶無」
「こらこら、杏子ってば……」
母の色素が抜けたウェーブがふわりと柔らかそうに揺れて、私の全身は暖かい幸福感に包みこまれる。
若草色をしたワンピースの下にある母のお腹は、ビーチボールを仕込んだかのように丸い丘陵を形成していた。
私はそのぬくもりに優しく触れると、母とお腹の赤ちゃんに向かってにっこり微笑んでみせる。
「んじゃ、行ってくるね。ママ。――李ちゃん」
二ヶ月後に生まれる予定の妹に、私は「すもも」という名前をつけたのだった。
兄弟といえば五年前に家を出てから生死すらもわからない兄ひとりしかいなかった私にとって、新しい妹の誕生は楽しみでならない。
数年前までは多額の借金を抱えて一家心中の一歩手前まで追いつめられていたのだが、父が苦しまぎれにはじめた店が成功した。
今はもう家を囲むヤのつく自由業の人々と顔を合わせることもなければ、家をバカにされることもない。
友達も少しずつできてきていた。
私は幸せだった。――はずだった。
けれど私のあずかり知らぬところで、少しずつ運命の歯車が狂いはじめていたのだった。

「今日はなんだか機嫌がいいね。何かあったの?」
クラスメート――須川 千祥の言葉に、私は緩んだ笑みを浮かべる。
「わかるんだ? えへへ。今日はね、家族で外食なんだ。お父さんも仕事早退してきてくれるの」
「そっか、いいなー。今日が誕生日だもんね、杏子。11歳、おめでとう」
チャイムがなる数分前から教科書をしまいはじめれば、終了のチャイムと同時に席を立つことができる。もちろん多少は教師からにらまれるが、退屈な授業を聞いてあげたことを感謝されこそすれ、怒られるようないわれはない。そんな風に思ってしまう私は、やはり学校というものに不適応なのかもしれなかった。
「ありがとう。だから今日は早く帰るね。親子丼が待ってるから!」
「親子丼?」
あまりにも誕生日らしくないディナーメニューに困惑する千祥に別れを告げて、私は教室の扉を出ようとする。
「――あら、杏子じゃない。今から帰るの?」
廊下に立っていた背の高い少女が、扉を開けて飛び出してきた私を見て意地の悪い笑みを浮かべた。
――夏薙 瑠衣子だ。
家が近所であるせいで保育園から小学校までずっと一緒だったが、お互いにうまがあわない。
私は自分と相反する性質を持った瑠衣子が好きではなかったし、それは瑠衣子にとっても同様だっただろう。
お互いがお互いにとって目の上のタンコブのような存在だった。
「うん、まあね。瑠衣子も帰るところなんだ?」
「ええ。――ねえ、杏子」
あくまで社交辞令である私の返答を聞き、瑠衣子は唇を細くして含み笑いをこぼす。
「よかったら一緒に帰らない?」
それはもしも私と瑠衣子が普通の幼なじみであったならば、ごくごく自然な申し出だった。でも私はその言葉の裏側に作為的なものを感じずにはいられない。
「え? どうしたの、いきなり……」
「嫌?」
本音を言うと頷きたかったが、そういうわけにもいかなかった。見れば、瑠衣子の後ろには数人の友人たちが控えている。トゲトゲしい視線を感じて、私は仕方なく横に首を振った。
「そう……ならよかったらゲームをしない?」

「美由、これもこれも!」
「ほらほら、ちゃんと持って!」
はしゃいだ声が通学路に満ち、行き交う人々は微笑ましい光景に頬を緩ませる。
「杏子、貸してよカバン」
「あ、うん」
私のカバンは強引に剥ぎ取られ、瑠衣子の友達――小谷 美由の手に渡った。美由は渋々といった様子で私のカバンを腕に引っかける。
「ああもう、重いなあ……」
美由は背中に一つ、両腕に三つずつのカバンを持ちながらふらふらと歩きはじめる。恐らくこれが小学五年生の持ち歩ける限界の重さだろう。
一瞬だけ身構えてしまったものの、瑠衣子の提案したゲームはいたって簡単なものだった。
ジャンケンをして負けた人が全員分のカバンを持つ。ただそれだけだ。
急に軽くなった肩に違和感を覚えて、私はその場で飛び跳ねてみた。
「どこまでにする?」
「じゃあ……あそこにある電信柱までね」
そう言って瑠衣子は、十メートル先にある電信柱を指差した。
数分もたたぬうちに私たちは電信柱までたどり着き、ジャンケンをする。
私の負けだった。
――嫌な予感はあったんだよね……。
そう思いながらも、私は数個のカバンを順に受け取っていく。
「どこまで?」
私の質問に、瑠衣子は案の定ステキな答えを返してくれた。
「舟屋橋までで、どう? 杏子まだ一回も持ってなかったんだしさあ」
舟屋橋までといえば、これまでに一人が荷物を持って歩いていた距離の五倍はある。はっきり言って、不公平だった。
「みんなと比べて私だけ長すぎる気がする……」
「ゲームなんだから文句言わないでよ」
瑠衣子がピシャリと言えば、周囲の子たちは一様にうなずく。
一緒に帰ろうと誘われた理由がわかった気がした。
瑠衣子はなぜか私を嫌っている。
――特に理由があるわけでもなく、「気がついたら嫌いだった」とでも言うような自然さで。
肩にカバンの紐が食いこむ痛みを感じながら、私は下をむいて歩きだした。
瑠衣子からの嫌がらせにショックを受けたわけではなく、うつむいていないと荷物の重みで後ろに倒れそうだったのだ。
たかが百メートルかそこらだと自分に言い聞かせて、私はよろめきそうになる足に力をこめる。舟屋橋は遠くて、額を汗が伝った。
にじむ汗が目に入ってしみるが、手が荷物でふさがっているせいでぬぐうこともできない。やっと舟屋橋にたどり着いたときにはもう、カバンの重さに押しつぶされて私の呼吸は絶え絶えになっていた。
「んじゃ、交代ね」
荷物をいったんそれぞれの持ち主に返す。カバンが一つ減るたびに痛みが消え重さが消え、体が浮遊しているかのような感覚にひたされる。
小さな橋から下を見下ろせば、泥に覆われた河床の上を、赤い鯉が滑るようにして泳いでいた。
「ジャーンーケーンで、ほーいっ!」
パーが四つにグーが一つ。
瑠衣子の負けだった。
これまでの恨みとばかりに、私はカバンを瑠衣子の腕にかける。
「重たっ。最悪ー」
負けるとは思っていなかった瑠衣子は悪態をつきながらも数個のカバンを持った。
「どこまでにする?」
「あそこの電信柱とかは?」
声を弾ませる友人たちをよそに、瑠衣子はきっぱりと宣言する。
「横断歩道を渡るまでね」
私は思わずあっけにとられて瑠衣子を見た。
橋を渡れば、目の前には交差点がある。横断歩道を渡るまでは、距離にしてたったの十メートルだった。
交差点には車がひっきりなしに行き交い、にぎやかに並ぶ幾多の商店が目や耳を楽しませてくれる。
信号が青になったのを確認すると、瑠衣子はしれっとした表情で有無を言わせず歩きだした。
「ちょっ、瑠衣子……」
仲が悪いとはいえ、仮にも長いつきあいだ。
瑠衣子のあまりにも不遜な態度に、私は少しくらい釘をさしておこうと足を踏み出す。
その瞬間、いつか聞いたことのあるような音が聞こえた。
――リン。
前に聞いたときとは違う春めいた空気がかすかに揺れて、私はあのときのことを思い出す。
――額から吹き出す汗。帰り道、湯気が出そうなほどに火照っていたアスファルト。不意に耳に入ってきた涼しい音色。
そして。
――次に能力を使えば『篠田 杏子』は死ぬよ。
陽炎のように現れた少年から告げられた、あの不思議な予言を……。
また彼の少年が立っているような気がして振り返ってみたが、そこには今渡ったばかりの橋があるだけだった。
「え……?」
再び道に視線を戻した私は、言い知れぬ違和感に襲われる。視界の端に、普段ならありえない速度で動く物体が見えたのだ。
何で、という疑問を持つ暇もなく迫ってくるのは一台のトラックだった。減速するどころか加速しているのではないかと思うほどのスピードで迫ってくる。
悲鳴をあげようにも、空気を吸うことができなかった。
暴走したトラックは一直線に横断歩道へと突っこんでくる。運転手の驚きと恐怖に歪んだ顔が、ピアノ線のように細い糸を引いて見えた。
瑠衣子は視界に入る情報をどう処理すればいいかをわからずに立ちすくんでいる。
もしいくつもカバンを持っていなければ、ギリギリのどころでトラックの軌道から逃げることができたかもしれない。しかし持った荷物の重みが、まだ小学五年生である瑠衣子の身体の動きを制限していた。
一瞬もたたないうちに迫りくるトラックの影に入った瑠衣子は、あっけにとられたようにぽかんと口をあけたまま――。


「ちょーろーう!」
まだ声変わりしていない少年の声が、春の風のような爽やかさで木々の間に響く。
白い陽光を浴びた森は青々と葉を茂らせ、世間から遠く離れたこの里を穏やかに見守っていた。
「ん? 央、どうしたのかの」
木漏れ日の下、一人の老人が大樹の影から姿を現す。柔らかい白髪と豊かな髭はあごの下で合流し、慈愛に満ちた雰囲気を作り出していた。
しわの数が生きてきた証を示すのだとしたら、この老人の人生はおそらく誰よりも長くて深い。しわの一つ一つに威厳が刻みこまれ、仙人の名がふさわしいほどに神秘的なオーラを醸しだしている。
「長老! いたなら返事してくれよ」
「いや、今『来た』んじゃ」
「そっか、『移動』できるのうらやましいな。さすがは長老」
「桜ノ宮の血を引く央ができないことの方が不可解じゃ」
「うっ! ひどいな長老ー」
央と呼ばれた少年は高い声を出してすねたように笑った。背は老人よりも低く、顔立ちはどこまでも幼い。幼稚園児だと言っても信じられるかはわからないが、小学生の低学年だと言えば誰でも納得するだろう。しかしその実、央は今年から中学校に入る年齢なのだった。
実年齢を誰にも信じてもらえないという現実と相まって、背の低さは央のコンプレックスとなっている。
「それはそうと、ほらあれ」
央が空を指差し、老人――長老はそちらを見仰いだ。
木々の間から見える世界を二分した虹の橋が、青空を背景に映えている。自然が作り出した七色の輝きは、思わずため息がでるほどに鮮やかだった。
「――逆さ虹か」
ポツリとつぶやきを落とし、長老は細い目をさらに細める。
よくよく見れば空に架かった虹は、紫から赤へのグラデーションを作っているのだった。
上側に引かれた紫が少しずつ青に変わり、水色、緑、黄、橙を順に経て赤い色になっている。つまり、今出ている虹は普通の虹と配色が逆なのだった。
「前に聞いたことがある。月見里に逆さ色の虹が出れば、誰かが『死ぬ』って」
央が不安げに言えば、長老は瞳を閉じているのではないかというくらいに細め、遠い遠い場所を見る。
「こうはっきりした逆さ虹は久しぶりじゃ……。『死ぬ』のは我が一族の誰かか……それに近しい血を受け継いだ者、かの」


「――ッ!」
声にならない悲鳴が辺りに満ち、穏やかだった空気が急に乾ききったものとなる。
私は心臓が激しくなるのを感じながら、無意識のうちに瞳に力をこめていた。
『止まれッ!』
強く念じると共に、時が止まったような錯覚に陥る。
凍っていた空気がかすかに流れだせば、瑠衣子がペタリと地面に崩れおちた。
目の前で不自然に止まるトラックを呆然とながめている。それはトラックの運転手も同じらしく、奇妙な二人の見つめ合いが始まっていた。
あまりのことに心ここにあらずとなった当人たちとは裏腹に、周囲の人間は恐怖と疑心に表情を崩す。
「る、いちゃん……瑠衣子ちゃんッ!」
「大丈夫っ?」
瑠衣子の友達の一人が沈黙を破れば、途端に周囲が騒然となった。道行く人の視線が集まり、商店から飛び出してきた大人たちは立ちすくむ。
私は大事にならなかったことに対する安堵の息をはいた。
能力を大きく使ったときにくる軽いめまいに襲われる。
その瞬間、肩に重たく暖かいものがのせられた。背中に氷をあてられたような感触に、私はぎょっとして振り返る。
「あなた、能力者ですね?」
低く細い声で話しかけられたことで、私の心は困惑に満たされた。
振り返ったところには、スーツを着た二十代後半くらいの気弱そうな男性が立っている。
「私は立花 柑太と申しまして……決して怪しい者ではないのですが」
――そのセリフ自体が怪しいということに気づかないのだろうか?
私は肩にのせられた手をさりげなく振り払うと、不信感に満ちた視線を男性――立花に向けた。
特徴がないのが特徴とでも言おうか。見るからに幸が薄そうな顔に、軽く同情を覚えた。
「何か用ですか?」
警戒を緩めずに問い返せば、立花は思わぬ行動に出る。
「否定しないってことは間違いないですね! 僕にちょ、ちょっとついてきてください。仕事なんです。ついてきていただけないと路頭に迷うんです! お願いします!」
泣きそうな顔で頭を下げられて、逆に私が困ってしまう。
「おじさん、誰?」
「さっきも名乗った通り、立花です」
「――そういう意味じゃないんですけど」
半ば呆れながら私が困り果てていると、後ろから思わぬ助け舟が出された。
「そこのおじさん、ごめんな。この子はおじさんにはついていかせないよ。なぜならば今からオレたちの里に来てもらうから」
二人の間に割り込むようにして入ってきたのは、一人の男の人だった。私をかばうようにして立ち、穏やかな笑顔で立花と対峙する。
柔らかそうな短い黒髪に、幼さの残る顔立ち。背はどちらかといえば高いが、立花相手だと少し見上げるような格好になっている。
濃い灰色のズボンに、薄く青みがかったカッターシャツ。地方の有名進学校の制服を、涼しげに着こなしていた。
高校生とみて間違いないだろう。その姿を見て、私の脈動は一気に激しさを増す。
彼が成長したらこんな風になるだろうという想像そのままだった。
――間違いない。
あのときの彼が、二年の歳月を経て私の目の前に立っている。
「な、何だねキミは」
「んー、名乗っちゃダメって言われてるんだ。だから言えねー。呼ぶなら月見里のチェシャ猫君とでも呼んで」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて、彼は声を低くした。
「この子を無理に連れ去ろうとするなら……オレ、おじさん殺さなくちゃならなくなるんだけど? だからさっさと失せろ。チェシャ猫、水瀬 陸也を……月見里を敵にしたくないだろ?」
立花は彼――水瀬 陸也の脅しに文字通り顔面蒼白になると、逃げるようにして道を駆け出した。
私は小さくなる立花の背中を見送りながら、思わぬ事態に呆然と立ち尽くす。
「ふぅ。名前言っちまった。――って、何やってんだよ」
「夢か幻覚かなって思って」
しかしどうやら夢でも幻覚でもないようだった。
私は陸也の腕をつかんでいた手を離す。引き締まった腕の感触が、そこには確かに存在していた。
どうやらトラックのブレーキが間に合ったということで何事もなく処理されたらしく、交差点はもとの落ち着きを取り戻しつつある。
瑠衣子にもその友達にも私を気にするような余裕はなかったらしく、私は置いてけぼりをくらっていた。
車の走り抜ける音がひっきりなしに続く中で、陸也は静かに口をひらく。
「かなり前に言ったはずだよな。次に能力を使ったら『篠田 杏子』は死ぬ、って」
さっきの腕の感覚は確かだったはずなのに、陸也の言葉にはあまりにも現実味がなかった。
「ごめんだけど『篠田 杏子』には死んでもらおう」
「え?」
「あれだけ大勢の前で使っちゃったら、さすがにもう今まで通り暮らしていけるとは思わない方がいい。はやくも目をつけられたみたいだし、このままだとあんたはすぐに誘拐されて、どっかの研究所で実験体にされるのが関の山だぜ」
身体全部が心臓になってしまったかのように、鼓動の音が大きく響く。背筋をねとりとした嫌な汗が流れた。
陸也は知っている。私が能力を使ってトラックを止めたことを見抜いているのだ。
「じゃあどうすれば」
私の言葉に、陸也はゆっくりと歩き出す。
「立ち話もなんだし、ちょっと散歩しねえ?」
私は何も言わずにその提案に従うことにした。
歩きながら陸也が話しだしたのは、にわかには信じられないことばかりだった。
この世の果てともいうべき森の底に、不思議な能力を持った人々が集まる里があるというのだ。
陸也も幼いころから私のようなことができて、中学生のときに里へ引っ越したらしい。
私は同じような能力を持つ人々がこの世の中にいるという事実に驚愕し、また陸也に親しみを覚えた。
「必要とあらば金はたんまり出るぜ? 悪くねえだろ」
「はい?」
「何だよっ……聞いてなかったのかよ?」
順を追って整理すればこういうことらしい。
私は月見里で生まれ育った人々と比べても、そう弱くない能力の持ち主なのだ。
月見里は外からの様々な依頼を受け、能力でそれを解決することを生業としている。だから私に月見里の人間となり、任務を仕事にして生きていかないか、と。
「もちろん家族には生活に不自由しないくらいの支援金みたいなものも出るぜ。悪くねえだろ?」
陸也の提案はあまりにも非現実的で、私の思考の域をはるかに超えていた。
いつ誘拐されるかわからない状況で怯えて暮らすくらいなら、月見里の一員となるのもいいかもしれない。
里の中や任務では能力を思う存分に使えるというのも魅力的だった。
しかし、陸也の次の言葉が私の希望的観測を粉々に打ち砕く。
「でも月見里に来るのなら、『篠田 杏子』には死んでもらわないとならないけどな」
「――何それ、どういうこと?」
「そういうことだよ。月見里は割とヤバめなこともやっているからな。周りに迷惑をかけずに自由に動くには、死んだことにするのが一番なんだよ。能力者ではない杏ちゃんの家族には、里や能力について何も言えないことになってるしな。篠田 杏子は死んだってことにして、これまでのことを忘れて能力者として生きていく。これが、残念だけど杏ちゃんに残された唯一の道だぜ」
――篠田 杏子という名を捨てて、能力者として生きていく。
目の前に提示された人生はあまりにも私の未来設計とかけ離れていた。
陸也が身にまとう空気は私のものとどこか同質で、他人だという気がしない。恐らく同じ能力者同士だからだろう、そばにいると心が水面のように澄んでくる。
「あの時に忠告はしただろ? あれだけ大きなものを止めて、たくさんの人に見られた。自業自得だぜ」
私は陸也の言葉を聞いてギュッと服の裾を握りしめた。
突き放すような口調だが、湿った瞳からわかってしまう。おそらく陸也も、私と同じような状況に追いこまれたことがあるのだ。水瀬 陸也という名前だって、もしかしたら両親からもらったものではないかもしれない。
私は穏やかに言った。
「――私、今日が誕生日で、お父さんとお母さんと李ちゃんでね、親子丼を食べに行く予定なの」
私の能力のことは瞬く間に裏世界に広まるだろう。このまま普段通りに生活し続ければ、自分だけでなく両親や友達さえも危険にさらしてしまうのだ。
「楽しみにしてたの私。せっかく誕生日なのに、今日の親子丼をみんなで食べなきゃ、死んでも死にきれな……」
その先は声が震えてしまって言葉にならなかった。陸也が私の頭を乱暴にわしゃわしゃとなでて、静かに優しくうなずいてくれる。こみあげてくる嗚咽に、私は何もすることができなかった。
――あの時の陸也の忠告を、もっと真面目に聞いていればよかった。
やりきれない思いや後悔がいくつぶもの涙に変わり、押し寄せてくる。
今日、慌てて教室を飛び出さなければよかった。瑠衣子たちに出会わなければよかった。
あふれる後悔は止まらない。
勇気を出して誘いを断っていれば。あそこでジャンケンに負けなければ。交差点でトラックが突っ込んでこなければ。
――瑠衣子を助けなければ、よかった。
胸の奥に浮かんだ言葉に、私はハッとして息をのんだ。驚きはすぐに嫌悪感へと姿を変える。
――篠田 杏子ってこんなに最悪な子だったっけ?
目に入る世界はくすんで見え、私自身のことがどうしようもなく嫌いだと思った。
涙は必死にこらえようとしていたものの、目の回りは恐らく赤くはれてしまっているだろう。私は歩きながら腕で目をこすり、これからのことをぼんやりとした頭で考える。
陸也は別れの挨拶をするために家に帰ることを許してくれた。
どこか懐かしくすら感じられるいつもの道を歩きながら、私は一つの決意を固めつつあった。
――両親にすべてを話して、逃げよう。
遠い地でほとぼりがさめるのを待てばいい。
自分が死んだことにされるのは嫌だった。大切な友達である千祥たちや両親、そしてまだ見ぬ李に会えなくなるだなんて、耐えられない。私は私が篠田 杏子であることを捨てられなかったのだ。
家の扉を開こうとして、手を止める。不思議な違和感があったのだ。胸の奥底に濁った染みがジワリとひろがる。
「ただいま……」
静かに扉を引き、恐る恐る玄関に足を踏み入れた。そして違和感の正体に気づく。家があまりにも静か過ぎるのだ。
針を落とせば響くほどの不気味な静寂が、私の家を包みこんでいた。
私は投げ出すようにして靴を脱ぐと、カバンも下ろさずに廊下を急いだ。居間に続く扉をあけると共に、こもっていた生あたたかい臭気が鼻をつく。
最初に目に入ったのは、天井から吊された大きな荷物だった。布に包まれて、大人一人分の大きさを持っている。それが何かを認識した瞬間、私にとっての世界は真っ白になった。
――父だ。
しなびたスーツに身を包み、あちらを向いて白い靴下の足をぶらぶらさせている。だらりと垂れ下がった首には事務用の黄色い紐が食い込み、とてもとても痛そうだった。
臭いの原因は父だったのだ。
ドサッと足元で鈍い音がしたかと思うと、肩が軽くなる。私は無意識のうちにカバンを落としてしまっていた。その音に気づき、部屋の奥にいた母が歩みよってくる。
私の自慢でもあった栗色のロングヘアは、ぐちゃぐちゃに乱れていた。疲れと絶望の上に無理やり笑顔を塗り固めたような表情を見て、私はゾッとする。そして何よりも私の恐怖をあおるのは、母の細い手に握られた包丁だった。
「おかえり、杏子」
母がいつものようにゆっくりと目を細めて私に微笑む。聖母のように慈愛に満ちた雰囲気の中に、何かを成し遂げたときの充足感が見てとれた。
「早かったわね」
高くて澄んだ声をかけられて、私は思わず一歩後ずさる。
「うん……だって今日は私の誕生日だから……」
声だけでなく、全身の震えが止まらなかった。本能が「逃げろ」と激しく警鐘を鳴らす。
「そう……いい子ね……こっちに来て」
母の命令に逆らい、私はその場で首を横に振った。
「い……いや……」
母は笑みを深めながら、小鳥のように可愛らしく首をかしげる。
「あら? お母さんの言うことが聞けないって言うの……?」
もし母がいきなり包丁を振りかざして追ってきたならば、私は迷わず逃げ出しただろう。しかし母はいつも通りに微笑み、いつも通りに話しかけてくれている。だから私は、居間の天井に父が吊されているという現実を現実として受け入れられなかった。
これは何かの間違いで、私がこの光景をおかしいと思うことの方がおかしい。
――そうだったらどんなにか幸せなことだろう。
足までもが震えて、上手く立っていることができなかった。
母の包丁の鋭い切っ先が、まっすぐに私へ向けられる。
「どうして?」
理由を聞いても納得なんかできるわけないとわかっていたが、聞かずにはいられなかった。
「……お父さんのお店が上手くいってるっていうの、あれ嘘だったのよ。
とうの昔にお店なんてつぶれて、全部が全部、借金だらけだったの」
「嘘……」
「本当よ。お父さんとも話し合って、もう表面上だけとりつくろうのは止めにしましょ、って。杏子のためだと頑張ってきたけどもう無理なの」
何を言っていいのかわからなかった。
白銀の刃が、ゆらりゆらりと少しずつ近づいてくる。
「でも李ちゃんは? 李ちゃんがかわいそう……!」
なんとか声を絞り出すが、母は穏やかな表情のままだった。
「どっちにしても杏子に妹ができることはなかったわ。赤ちゃんを産むための病院代なんてうちにはないもの。いい子だからわかってくれるわよね? 杏子」
母は自然体のままで、音もなく私との間をつめる。
信じたくなかった。
あまりにも驚いたためか、涙は出ない。乾いた心が張り裂けそうなくらいに痛かった。
母との距離は一メートルもない。腕を伸ばすだけで包丁が突き刺さる位置だ。
「安心してね、杏子。お父さんが待っててくれてる。お母さんも李ちゃんもすぐにいくから……」
母はそう言って天使のように微笑むと、白くて細い腕をゆっくりと伸ばす。
『止まれ』
思わず念じれば、包丁の刃が胸から数センチのところで静止した。
母の恨みがましい眼光が、私の瞳をジトリととらえる。
「杏子」
これほどまでに憎しみをこめて名を呼ばれたのは初めてだった。
それでも私は、瞳を閉じたりしない。包丁を止めるのを止めれば、その瞬間に我が家の一家心中が成功してしまうであろうことがわかったからだ。
「抵抗は止めなさい。こうするしかないのよ。お父さんを一人にするつもりなの? 悪い子ね」
母の表情がスッと冷え、静かに並べられる言葉たちが私をきつく責め立てる。
「お父さんもお母さんも精一杯がんばった。だからお願い、杏子もわかって。受け入れて……。ね、包丁を止めるのをやめなさい」
母はここで抵抗するなら家族じゃないとでもいいたげだった。それでも私は、無我夢中で包丁を止め続ける。
母は静かにため息を吐くと、氷のように冷たい双眸を私に向けた。
「本当に悪い子ね……私はあなたをそんなわがままな子に育てた覚えはないわよ」
――生きたいと願うことは、わがままなことなの……?
母の言葉を拒絶して、私は無言でぶんぶんと首を振った。私の本能が包丁から目を逸らすことを拒否している。
いつの間にか頬を伝った涙が、床にポタポタと落ちて黒い染みを作っていた。行き場をなくしてあふれ出る感情に、ジワジワと視界がにじみ始める。
「そもそも、あなたが生まれてきたから。だからすべてが狂いだしたのよ? お母さんはそれを無に返してあげようとしているだけなの。 ……あなたはね、お父さんの子じゃないのよ。だってそうでしょ? その不気味な能力を持って生まれたのだもの、あの人との子であるはずがないわ。それさえ、あんたの能力さえなければバレなかったのに……! あなたがいなかったらすべてが上手くいっていた。あの人が失業することもなかった。借金を背負うことも、私の両親が死ぬことも、全部ぜんぶなかったかもしれない!」
母は腕から先を動かすことができず、代わりに口で私を殺そうとする。
「あなたが生まれたから運命の歯車が狂いだした! 何もかもがおかしくなった! 最悪、最悪っ! あなたなんて生まれてこなければよかったのに!」
母のヒステリックな叫び声が、私の心を鋭くえぐり出した。胸の奥から流れ出した血が、心の中に黒い水たまりをつくりだす。
もう、限界だった。
視界が歪み、母が握る包丁の輪郭を捕らえておくことすらできなくなる。能力の効力が途切れて、母は急に軽くなった包丁をギュッと握りなおした。
私はもう逃げることすらできずに、ただただ立ち尽くす。
今日の朝には意識すらしていなかった『死』を目前にして、私にできることは何もなかった。
いったん狂ってしまった運命の歯車は、二度ともとには戻らない。
朝の幸せな気分が嘘のようだった。
恐らくあの時からすでに何かが狂いだしていた。それなのに私は何にも気づけず、誕生日だといって浮かれているだけだった。
――バカだ。
夢ならいいのにと思った。
今に目が覚めて、私は朝日を浴びたベッドに寝ている。悪夢のせいで全身が汗ばんでいるだろうけれど、すべては夢だったと知って安心するのだ。
もちろん父が首を吊ってなんかいなければ、母も私を殺そうとしたりしない。
今日は誕生日で、私は外食できるのを心から楽しみにしていて。
瑠衣子とではなく千祥と談笑しながら帰って、事故にも遭わなくて、だから彼と出会うことなんてなくて――。
もしそうだったらどれほどよかっただろう。今日という日をやり直せるのならば、私はその代償にすべてを投げ出してもいいと思った。
――だから。
突き刺さされる刃をにじむ視界で見つめながら私が念じた言葉は、『止まれ』ではなく。
戻れ、だった。 *

春の麗らかな陽気が漂う住宅街の中で、その家の前にだけどんよりとした空気が溜まっていた。
葬式が行われていることを示す造花が壁一面に咲いている。開け放たれた扉から出入りする人々は皆、喪服に身を包んでいた。
――篠田 杏子、享年十一歳。
死因は二日前に起こった交通事故だった。下校途中の交差点で暴走したトラックに突っこまれ、即死だったという。
死体の損傷が激しくて、棺をあけることはできなかった。特に目立ったのは下腹部の傷で、刃物でえぐられたようになっていたらしい。
小学生の交通事故などよくある話だった。でもだからこそ、自分の親友が被害者になるだなんて夢にも思わない。
須川 千祥は呆然としながら、かつての友人宅の敷居をまたいだ。
「あら、千祥ちゃんじゃない。あの子のために来てくれてありがとうね」
やつれた顔の女性――篠田 杏子の母が奥から出てくる。以前会ったときには、栗色のロングヘアが似合う美人だという漠然とした印象しかなかった。しかしその髪は艶をなくし、もともと白かった顔はさらに白みを増している。瞳のまわりは落ちくぼみ、浅黒いクマができていた。病的なまでに青白い肌のせいか、痩せた体がさらに細く、痛々しくみえた。
数ヶ月も経たぬうちに、人とはこうも変われるものなのか。千祥は杏子の母の変わりように驚かずにはいられなかった。
軋む廊下の向こうからは、すすり泣く声が聞こえてくる。
廊下のつきあたりにある扉を開こうとすれば、向こうから飛び出してきた誰かとぶつかった。意外な人物に出会ったことで、千祥は困惑する。
――隣のクラスの夏薙 瑠衣子だ。
同い年にしては背が高い彼女は、その派手な性格のせいか、クラスの女子のボスみたいな存在だった。
自分の世界を持って一匹狼を貫いている杏子とは正反対の立場にいる上、二人が一緒にいるところなど見たことがない。
同じクラスになって初めて杏子と親友になった千祥には、瑠衣子がここにいる理由がわからなかった。
瑠衣子は潤んだ瞳を腕で無造作にこすり、どこか覇気の抜けた声を出す。
「こんにちは。杏子のおばさんに……須川さん?」
「ええ。こんにちは夏薙さん」
千祥は挨拶を返しながらも瑠衣子をじっと観察した。
くっきりとして大人びた顔立ちに、肩の上にのった天然ではない巻き髪。小学生にしてはやけに外見に手をかけていることがわかる瑠衣子だったが、その目もとはこすられたせいか赤くなり、薄化粧がぐちゃぐちゃになっている。切れ長の瞳には深い後悔の念が宿り、静かに握りしめた拳には皮膚を破らんばかりの力がこめられていた。歯はきつく食いしばられ、よくよく見ればかすかに体は震えている。
――負けた、な。
千祥は瑠衣子の姿に自分の敗北を悟った。
泣くことが友達の証だと思っていたけれど、それは違うのだ。
「ごめんなさい……!」
瑠衣子の声が、か弱く空気を震わせた。覚悟したかのように頭を下げ、必死で涙をこらえて許しを乞う。
「本当は、トラックが突っ込んでくるまでには一瞬の時間があったんです。避けられれば何事もなく済んでいた。でもカバンが重すぎたから動けなかったんです。ごめんなさい。私は目の前にいたのに、こわくて何もできなくて……!」
千祥はハッとして、頭を下げたままの瑠衣子を見た。
彼女は杏子がトラックにはねられたとき、すぐそばにいたのだ。
「私が無理やりあんなゲームに誘わなければ、杏子は生きていました。死なずにすんでいました」
深い後悔のこもった言葉を、杏子の母は穏やかな表情で聞いていた。
「杏子は私なんかいなくても一人で平気そうにしているのに、私は、友達がいなきゃ動けない私が嫌いだったんです……。私、小学校に入って、杏子が私以外に友達ができるのが嫌で……元通りの友達じゃなくなって、置いて行かれるのが嫌で……!」
瑠衣子の懺悔はおそらく、千祥ではなく杏子の母でもなく――篠田 杏子、本人に向けられたものだった。
「ごめんなさい……っく、ごめん。 ごめんなさい! 私のせいだ。杏子、ごめんなさい……!」
その後はもう、明確な言葉になっていなかった。瑠衣子の泣き叫ぶ子どもらしい声が篠田家に響き、杏子の母や千祥も静かに頬を涙に濡らす。
葬式の他の参加者は空気を読んでか廊下に出てくることはなく――。
こうして篠田 杏子の葬式は、幼い彼女の死を悼む声に包まれて行われたのだった。

「篠田 杏子は、幸せだったね」
穏やかで優しい響きを持った声に、私は無意識のうちにうなずいていた。
目の前にあるハンドボール大の水晶玉は白く濁り始め、中に映っていた我が家の景色が遠くなる。それでも私の耳から瑠衣子たちの泣き声の残響が消えることはなかった。
私は静かに立ち上がると、丸太を切ってできた小屋の扉をあけた。薄暗い部屋で水晶玉を覗きこんでいた瞳に、春の陽光はまぶしすぎる。
私は目の上に手のひらをかざして上を見上げた。深緑に萌える枝葉の隙間から臨む空は、かげり一つないブルーだ。
「歩いて傷は痛まないか?」
後ろからかけられた陸也の言葉に、私は空を見上げたまま答える。
「大丈夫だよ。歩くくらいならね」
私の腹部には包帯が厳重に巻きつけられていた。
あの時――。
居間で母に刺された私を、月見里に連れて行こうと家に訪ねてきた陸也が間一髪で助けだしてくれたのだ。
目が覚めた時には月見里にある小屋で治療を受けていた。そして誰かの『遠視』能力が宿る水晶玉で、私は私の葬式を見ることとなる。
篠田 杏子は世間では死んだものとして処理されていたのだ。

『心』能力者による関係者への記憶操作も行われたし、病院で私の死亡調書も捏造された。
市内にある桜ノ宮総合病院は『治癒』能力者が院長を勤める、能力者による能力者の能力者のための病院なのだそうだ。
一般の業務の他に月見里の同朋には『治癒』能力による治療も行っているというから驚きだ。
そういうわけで調書の改ざんや遺体の偽装も容易に行われて、篠田 杏子はあっという間に死んだ。
「それにしても、自分の葬式を見るだなんて素敵な経験、めったにできるものじゃないね」
「そりゃそーだな。……よかった。軽口を言える程度には回復したんだ」
陸也が心底安心したというように息をついてみせる。
長女杏子の死亡により、篠田家には保険金という名目で多額のお金が入った。正確には月見里からの見舞金と娘の代金だ。
何はともあれ、それで借金は消えるだろうし、李の養育費にもなるだろう。
『治療』能力はかなり有能らしく、刺された傷はもうあってないようなものだった。心に残る傷も、なくなりはしないだろうが少しずつ薄くなっていくだろう。
篠田 杏子一人の死によって、万事がうまく収まりつつあった。
私は木漏れ日が降り注ぐ森の道を静かに歩きながら、これまでのことを思い返す。
昨日の夕刻、長老と名乗る老人に連れられて里にある大きな屋敷へ向かった。案内された小狭い部屋には私と同い年くらいの少年少女が数人、それぞれ好き勝手なことをしてくつろいでいたのだった。
――君が新入りだね。僕は桜ノ宮の長男、東だよ。
本を読んでいた中学生二、三年生くらいの少年が口火をきり、握手を求めてきた。
紺のブレザーに、黒縁の理知的なメガネがよく似合っている。
部屋にいた他の子たちも東にうながされて年齢順に簡単な自己紹介をしてくれた。
切れ長の瞳で、濡れカラス色のロングヘアが艶やかな少女は南。幼く見える割に周りに気を使っている印象を受けた少年が、央。そして東が膝の上に載せていた乳児が北だそうだ。
四人は兄弟で、私がこれから月見里で預かってもらうことになる家の子どもだそうだ。
私は彼らが本物の兄弟でないことを敏感に感じとっていた。それは正解で、月見里の桜ノ宮家は私と同様に『死んだ』子どもを預かり育てる場所なのだった。
私は世の果てにある里で、『篠田 杏子』が築いてきたものすべてを捨てて生きることになった。里の掟により、これまでの記憶は今日の午後に『心』能力者によって都合のいいように加工されるそうだ。
たまにくる依頼をこなすという条件で、命拾いしただけでなく安定した衣食住や新しい両親、たくさんの兄弟を得た。これ以上、望むべくものは何もない。あっちゃならない。欲を言えば瑠衣子たちや母を悲しませたことと、生まれてくる李に会えないことだけが心残りだった。
小屋からしばらく歩いたところには、青々とした野原が広がっている。私は立ち止まってその景色に心を奪われた。緑は萌え、風は光る。足元の草がさわさわと柔らかくそよげば、頬を暖かい風がなでていった。
「こういう優しい風のこと、涅槃西風って言うんだぜ」
振り向けばいつの間にか陸也が隣に立っている。そういえば彼は瞬間移動能力者だった。
「ねはんにしかぜ?」
問い返せば、陸也は穏やかに微笑んだ。
「そう。――この時期の西風はな、浄土に向かって吹くって言われてるんだよ」
麗らかな日に、野原の上を優しく吹き抜ける春風。この風にのって、『篠田 杏子』はこの世から立ち去る。
未練はなかった。
――篠田 杏子は幸せだったね。
陸也が言ってくれた言葉がすべてだった。
いくら念じても時間はもとには戻らない。私の能力を使っても『止める』ことすらできなかった。
陸也が前に足を踏み出し、私の横顔を見て驚いた表情をつくる。
私は頬を熱いものが伝うのを止められていなかった。小さく嗚咽がもれ、震える肩に風が優しくさわる。
「頑張った。つらいのを一杯、我慢した。……杏ちゃんは偉いな」
陸也は私に声をかけてから、それに気づいて訂正する。
「――いや。西は、偉いな」
桜ノ宮 西。
それがいまここにいる私に与えられた名前だった。
篠田 杏子という人間は死んでこの春風にのり、桜ノ宮 西という人間が新しく生まれてここに立っている。
昨日に望みを託せば、残るのは絶望。明日に望みを託せば、残るのは希望。だから人は歩きだす。たとえ失った昨日に何があろうとも。
――暖かい光を浴びた涅槃西風が、青空に高く吹き抜けていった。