ホラー短編小説「白のフィーネ」

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「あ、すみませ……」
俺はとっさに謝りかけて、やめた。
「どこ見てんだよ、くそっ」
見下した視線と共に吐き捨てる。人ごみの中で肩がぶつかった相手は、白い着ぐるみ人形だった。キレた態度をとられた着ぐるみは、つぶらな瞳を大きく丸める。困ったような微笑みのまま、きょとんと愛くるしく首を傾けた。
「――ちっ」
駅から吐き出される人間どもが、渦を描いて地面をのたうっている。身長173cmの俺の目にうつるのは、人の頭だけだった。視界が続く限り、疲れきった人間の頭がうごめいている。
この不快な通勤ラッシュが他国で起これば、まず間違いなくデモが起こると聞いた。日本のサラリーマンは、切なさのあまり涙が出てくるほど企業に従順だ。
黒い頭の流れの中には、ポツリポツリと白いかたまりが混ざっている。
――それが、フィーネだった。
白いクッキーマンとでも言おうか。成人した大人とほぼ同じ大きさをしているが、胴も手足もぬいぐるみのように太い。クリスマスツリーに吊されている、人型のオーナメントという例えが一番しっくりくるだろう。黒く愛くるしい瞳に、雪だるまのように白い表皮。ぬいぐるみのようにトテトテとした動きと相まって、世間の人々にかなりの人気があるらしい。しかし貧乏な浪人生をやっている俺には、さして興味のないことだった。
どこかの会社のキャンペーンか何かだろう。ある日突然現れた着ぐるみ……フィーネは、いつの間にか街の景色の一部となっていた。ニュージーランドの羊みたいなものだ。街を歩けばフィーネに当たる。今の俺にはそれがいらただしく思えてならなかった。あんなクッキーマンのどこがいいのだろう。
「……」
ふう、と大きくため息をはいた。
通勤ラッシュに巻き込まれたストレスで、俺は少しいらだってしまっていた。少し冷静にならなくてはならない。
俺は大きく息を吸うと、住んでいるオンボロアパートへの一歩を踏み出した。
誰もいないはずなのに、人がいた。
――いや、違う。
正確には、着ぐるみがいた。
金具の音が扉の向こうでかすかになり、鍵が開いたことを俺に知らせてくれた。
ただいまと言っても、一人暮らしだから意味はない。だから俺は無言で重い扉を押した。
夕焼けが差し込む部屋は、薄いオレンジに染められている。窓の外の空は、紫色になりかけていた。
「……は」
荷物を肩から下ろし、顔をあげる。
俺は文字通り言葉をなくした。あまりにも不審な光景に、戸惑いが隠せない。
「なんなんだよ、一体」
そこには、あの白い着ぐるみ人形がいた。それも一人ではない。五人が、狭い部屋にひしめきながら縦隊を作っていた。そっくり同じな着ぐるみたちが、前にならえをしている。
世の女性たちを魅了するつぶらな瞳が、静かにこちらへと向けられていた。
俺は思わず身震いする。
「な……なんか言えよ! おい!」
鍵は確かにかけておいたはずだ。
――それなのに、どうして。
俺は思わず後ずさりした。
赤い空気が、狭い部屋の中に停滞している。窓から差し込む陽光は、血のように赤かった。
先頭にいた着ぐるみが、ゆっくりと目を細める。三日月を逆さにしたような瞳の奥は、深い深い闇だった。吸い込まれて、どこまでも落ちていってしまいそうな錯覚を覚える。
息が正常にできなかった。
にぃ、と奴の口が細く広がっていく。
背筋がざわりとあわだった。
耳もとまで裂けた口が、まがまがしい笑みを浮かべている。もはや、そこにいるのは可愛らしい着ぐるみなんかじゃなかった。
俺は悟る。
――違う。
こいつらは、着ぐるみなんかじゃなくて……。
俺は、首の後ろに冷たいモノが当たるのを感じていた。鈍い音を立てて、何かが体内にのめりこんでくる。柔らかい体細胞が、ソレを境にしてゆっくりと割れた。凍った鉄の棒で、頭蓋骨の内側を無理やりかき回される。そんな感覚だった。
意識が追いついたのは、そこまでだった。断末魔の悲鳴なんてあげる暇もない。俺にとっての世界は、一瞬にして闇に飲みこまれた。
そこは、小さなアパートの一室だった。
フィーネは、抱えていた人間を静かに解放する。人間は、黙って床に倒れた。開かれた瞳が恐怖に凍りついている。永遠に動かない体が、床に落ちて鈍い音を立てた。
空を燃やした太陽が、山の奥へと追いやられようとしている。陽光が残していった血のように紅い空気は、まだこの街に充満していた。白き者に侵食されつつある街に、もうじき夜が訪れるのだ。
紅い空気の中に、白のフィーネは立っていた。鋭い牙にまとわりついた鮮血がポタリと一粒、人間のいなくなった部屋に滴り落ちた。